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『吉備津彦命 ~桃太郎のモデル~』


【桃太郎のモデルになった人物】

古代日本の皇族。
第七代孝霊天皇の第三子で本名を
彦五十狭芹彦命
 (ひこいさせりびこのみこと)という。

『日本書紀』では吉備津彦命、
『古事記』では大吉備津日子命と言われる。

『吉備冠者』(きびのかじゃ)ともいう。
現在の奈良県磯城郡田原本町に生まれる。
山陽道を主に制圧した『四道将軍』の一人。

勅命により『四道将軍』の1人として
『西道』(山陽道)に派遣されたが、
任地に赴く途上で
武埴安彦命(孝元天皇の皇子)の反乱に遭遇、これを大彦命(孝元天皇皇子、
武埴安彦命の異母兄弟)と
ともに制圧してから西道に赴き、
異母弟の雅武彦命(若日子建吉備津日子命)とともに『吉備国』(岡山県の辺り)を始め
『山陽道』に沿う周辺域を平定、この事によって「吉備津彦」を名乗る事になったという。

その後、『出雲氏の遠祖』の
出雲振根(いずものふるね)を討つ。


岡山県において広く語り継がれている伝説によると、昔、岡山に鬼がいた。
温羅(うら)と呼ばれるその鬼は、
もとは『百済の王子』だったという。
 巨躯、赤髪の異様な姿で
  性格はきわめて凶暴。
 いまの「吉備津神社」から西北へ10キロほどのところの片岡山に作った『鬼の城』を拠点に、暴虐の限りを尽くして人々を恐怖のどん底に陥れていた。
そのため朝廷から派遣されたのが
吉備津彦命である。
現在の「吉備津神社」付近の『吉備の中山』に陣を張った吉備津彦命は、
犬飼健(いぬかいたける)・
楽々森彦(ささもりひこ)・
留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来と共に倒し、その祟りを鎮めるために温羅を
『吉備津神社の釜』の下に封じたとされ、
同神社の『御釜殿』(重要文化財)における
『鳴釜神事』の謂われともなっている。

また、家来である犬飼健を犬、
楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見て、
この『温羅伝説』が
お伽話「桃太郎」になったとも言われている。


『吉備の中山』の麓に建てた御殿『茅葺宮』に住んで政治を行い、281歳まで生きたという。
 吉備津彦命の信仰の中心に延命長寿の神徳があるのは、この異常な長寿の伝説にちなんだもの。
 現在も、「吉備津神社」の背後にある
『吉備の中山』の中腹に、吉備津彦命の墓と伝わる墓陵がある。











『四道将軍』‼




『四道』



『四道将軍』(しどうしょうぐん、
古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、
『日本書紀』
に登場する皇族(王族)の将軍で、
大彦命(おおびこのみこと)、
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、
吉備津彦命(きびつひこのみこと)、
丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)
の4人を指す。







【神話での記述】

大彦命は、
孝元天皇の第1皇子で、母は
皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)。
開化天皇の同母兄で、
娘は崇神天皇皇后の
御間城姫命(みまきひめのみこと)、
垂仁天皇の外祖父に当たる。
「舟津神社」(福井県鯖江市)、
「敢国神社」(三重県伊賀市)、
「伊佐須美神社」(福島県会津美里町)、
「古四王神社」(秋田県秋田市)等に祀られている。

「敢国神社」の社伝によると
同神社より北東1.5Kmの所に位置する
『御墓山古墳』は大彦命の御陵とする。
「敢国神社」の鎮座する三重県伊賀市は
大彦命の子孫である『阿閉臣(阿敢臣)の発祥の地』とされる伝承も残されている。







武渟川別は、
大彦命の子。
『阿倍朝臣等の祖』と伝えられる。
「津神社」(岐阜県岐阜市)、
「健田須賀神社」(茨城県結城市)等に祀られている。

また『古事記』によれば、
『北陸道』を平定した大彦命と、
『東海道』を平定した建沼河別命が
合流した場所が『会津』であるとされている。
(会津の地名由来説話)。
このときの両者の行軍経路を
『阿賀野川』(大彦命)と
『鬼怒川』(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。






吉備津彦は、
孝霊天皇の皇子で、
母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。
別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。
『吉備国』を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、
『古事記』には吉備津彦の名は出てこない。
「桃太郎」のモデルの一つであったとも言われている。
「吉備津神社」、
「吉備津彦神社」(岡山県岡山市)、
「田村神社」(香川県高松市)等に祀られている。





丹波道主命は、
『古事記』によると
開化天皇の子、彦坐王の子。
なお、『古事記』では
彦坐王が『丹波』に派遣されたとある。
母は息長水依比売娘
(おきながのみずよりひめ)。
娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。
景行天皇の外祖父に当たる。
「神谷神社」(京都府京丹後市)等に祀られている。
























『中央政権』。。『大王』(天皇)の勅命 ‼…

各地の『平定』。。。『制圧』‼ 。。













【名称】
『日本書紀』『古事記』とも、
「キビツヒコ」は亦の名とし、
本来の名は「ヒコイサセリヒコ」とする。
それぞれ表記は次の通り。

『日本書紀』
本の名:彦五十狭芹彦命
(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:吉備津彦命
(きびつひこのみこと)


『古事記』
本の名:比古伊佐勢理毘古命
(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:大吉備津日子命
(おおきびつひこのみこと)
そのほか、文献では「キビツヒコ」を
「吉備都彦」とする表記も見られる。














第7代孝霊天皇と、
妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、
 絚某姉<はえいろね>/
 意富夜麻登玖邇阿礼比売命
<おほやまとくにあれひめのみこと>)
との間に生まれた皇子である。

同母兄弟として、『日本書紀』によると
倭迹迹日百襲媛命(夜麻登登母母曽毘売)、
倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、

『古事記』では2人に加えて
日子刺肩別命の名を記載する。
異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏関係の
稚武彦命(若日子建吉備津日子命)が知られる。

子に関して、
『日本書紀』『古事記』には記載はない。






【墓・霊廟】

墓は、宮内庁により岡山県岡山市北区吉備津にある『大吉備津彦命墓』
(おおきびつひこのみことのはか)
に治定されている。
宮内庁上の形式は前方後円。
遺跡名は『中山茶臼山古墳』で、
『吉備の中山』の山上に位置する
墳丘長108メートルの前方後円墳である。

また、『吉備の中山』の麓の
「吉備津神社」
(岡山県岡山市、『備中国一宮』)は、
国史にも見える『吉備津彦命の霊廟』として知られる。
同社の国史での初見は
『続日本後紀』
  承和14年(847年)10月22日条で、
「吉備津彦命神」に対して従四位下の神階が授けられたというが、のちに神階は
位階(○位)から品位(○品)へと変わり、貞観元年(859年)1月27日に二品まで昇っている。
『品位』(一般には親王に対する位)を
神階に使用する例は少なく、
全国でも吉備津彦命のほか八幡神・八幡比咩神(大分県宇佐市の宇佐神宮)、
伊佐奈岐命(兵庫県淡路市の伊弉諾神宮)
の4神のみで、吉備津彦命と
一般諸神との神格の違いが指摘される。

この『吉備津神社社伝』では、
吉備津彦命は『吉備の中山』の麓に茅葺宮を建てて住み、281歳で亡くなり山頂に葬られたという。

以上の「吉備津神社」の存在から、
吉備津彦命が古くは「吉備政権」構成諸部族から始祖に位置づけられたとする説もある。
また『吉備の中山』の北東麓では、
同じく吉備津彦命を祀る「吉備津彦神社」
(岡山県岡山市、『備前国一宮』)が知られる。






【後裔氏族】

『日本書紀』では
吉備津彦命の後裔氏族に関する記載はなく、
弟の稚武彦命を『吉備臣(吉備氏)祖』とする。

一方『古事記』では、
吉備津彦命を『吉備上道臣の祖』、
稚武彦命を『吉備下道臣・笠臣の祖』とする。

また『続日本紀』
 天平神護元年(765年)5月20日条では、
播磨国賀古郡(加古郡)の馬養造人上が
吉備都彦苗裔の上道臣息長借鎌の子孫であると言上しており、『印南野臣』が賜姓されている。

『新撰姓氏録』では、
次の氏族が後裔として記載されている。

和泉国未定雑姓 椋椅部首
 - 吉備津彦五十狭芹命の後。






【国造】
『先代旧事本紀』『国造本紀』では、
次の国造が後裔として記載されている。

国前国造 - 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に吉備臣同祖の吉備都命六世孫の午佐自命を国造に定める、という。
のちの豊後国国埼郡国前郷周辺にあたる。
葦分国造 - 『纏向日代朝』(景行天皇)の御世に吉備津彦命の子の三井根子命を国造に定める、という。
のちの肥後国葦北郡葦北郷周辺にあたる。







【伝承・信仰】

上述の
「吉備津神社」(岡山県岡山市、備中国一宮)の縁起として、吉備津彦命が『吉備平定』にあたって温羅(うら・うんら・おんら)という鬼を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られる。
これによると、温羅は『鬼ノ城』に住んで地域を荒らしたが、吉備津彦命は
犬飼健(いぬかいたける)・
楽々森彦(ささもりひこ)・
留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともに討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を『吉備津神社の釜』の下に封じたという。
この伝説は物語「桃太郎」のモチーフになったともいわれる。
吉備地域には伝説の関係地が多く伝わっているほか、伝説に関連する
「吉備津神社」の『鳴釜神事』は
上田秋成の『雨月物語』中の
『吉備津の釜』においても記されている

この伝承では、温羅は討伐される側の人物として記述される。
しかし、『吉備』は
「真金(まかね)吹く吉備」という言葉にも見えるように古くから鉄の産地として知られることから、温羅は製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人であるとする見方や、
鉄文化を象徴する人物とする見方もある。
また、「吉備津神社」の本来の祭神を温羅と見る説もあり、その中でヤマト王権に吉備が服属する以前の同社には『吉備の祖神』、
すなわち温羅が祀られていたとし、
服属により祭神がヤマト王権系の吉備津彦命に入れ替わったと指摘されている。








なお、吉備津彦の三人の家来については
別説に
「犬養縣主(犬)」
「猿女君(猿)」
「鳥飼臣(雉)」
という豪族だという説もある。

犬養縣主ゆかりの神社が岡山県笠岡市の
「縣主神社」、

猿女君ゆかりの神社は岡山市北区の
「鼓神社」(二宮鼓神社)、

鳥飼臣ゆかりの神社は岡山県都窪郡早島町の
「鶴崎神社」がある。
























































































神州無敵!!✨✨⚔️










『大吉備津日子命』‼。。。

『若建吉備津日子命 』‼。。。



五十狭芹彦  ‼。。

稚武彦 ‼。。




『吉備』‼




『吉備』。。。
『播磨』。。。












































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