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『京のかたなの誕生』

『山城鍛冶』ってなあに? 
平安時代に京都で生まれた刀鍛冶。
雅な貴族文化を背景に、
あの有名な三条宗近が登場!

【Ⅰ章注目の刀剣】
国宝 太刀 銘 三条(『東京国立博物館』)。
『名物 三日月宗近』は
【最上の美刀】と言われる。

 「三日月宗近」は特別展『京のかたな』でも展示されており、ぐるりと刀を一周して見ることができます。
三条宗近の手による刀剣の“たゆたう曲線美”を堪能しながら鑑賞すると、京文化を感じ取ることができる!!。

平安時代の三日月宗近と
鎌倉時代に造られた刀を比較しながら
「曲線を見るのは難しいと言われますが、
こうして比較してみるとよくわかります。
刀の曲線はその時代を象徴しているので、
曲線から時代がわかり、
また刀鍛冶によっても違います」
刀剣鑑賞のポイントとしての“曲線美”。


 刀の『反り』の来歴についても、9世紀頃に坂上田村麻呂【※】が使用していた刀は反りのない『直刀』(ちょくとう)であったこと、『反り』が12世紀ごろに確立されたことから「反りは簡単に出来たわけではないんです」。

海外の刀と日本刀の比較。。
刀の『佩き方』の違い。。。
日本刀の『反り』こそが他の国々の刀には見られない日本刀の特徴である。

※坂上田村麻呂
平安時代初期の武将であり、『征夷大将軍』に任命され『蝦夷地』を平定した。







『京の刀』──地鉄、刃文、沸と匂

『地鉄』(じがね)、『刃文』、
『沸(にえ)』と『匂(におい)』
からみる“京の刀”の特徴。




地鉄【※1】については、
応永30年に写本された刀剣書である
『鉻尽(観智院本銘尽)』【※2】を
引用し山城(京都)と備前(岡山)の刀鍛冶を例に、“はだ白し”よりも“はだ青し”の評価が高く、粟田口吉光の打った刀は“青く澄む”と
さらなる評価がされている。


※1 地鉄(じがね)……
刀身の表面に現れる地紋のこと。
鉄による肌模様が『地肌』とよばれ、
その下地が『地鉄』と称されている。

※2 『鉻尽(観智院本銘尽)』……
国立国会図書館蔵されている重要文化財であり、応永30年に写本された刀剣書。



『刃文』については、
「三日月宗近」の刃文が
小乱混じり(小物出来)であり、
その “刃文が三日月に見える ” こと
から名付けられた。
加えて、作刀された平安時代12世紀には、
精錬技術がそこまで進歩していなかったと考えられており、その後、鎌倉時代13世紀に作刀された『短刀 銘吉光(信濃藤四郎)』になると、刃文に不純物がほぼ見られないことから、「100年の間で精錬技術が向上している」。

『山城』と『備前』の刀の違いとして、
沸(にえ)と匂(におい)【※】、
刀に見られる
 “霞がかった匂出来 ”は『備前』の特徴
であり『山城』の刀には見られないこと、
一方の『山城』の刀には
 “荒沸(沸の粒が荒いこと)が見られる ” 。


※『沸(にえ)』と『匂(におい)』
『佛』と『匂』は
どちらも『刃文』に現れる白い粒のこと。
粒の洗いものを『沸』、
霞がかっているものが『匂』という。



 特別展『京のかたな』では、『備前鍛冶』をはじめとする他国の技術的交流をしめす作品も多く展示されているので、『山城』の刀と比較しながら鑑賞を楽しむこともできるのではないでしょうか。








 平安時代より都として栄えた京都では、
多くの刀工が工房を構え、
後世に伝わる刀剣を生み出してきた。
京都で活動した刀工たちが手掛けた名刀にスポットを当てた展覧会が、
『京都国立博物館』で開催される。
刀剣の本格的な展示は、『京都国立博物館』の120年の歴史のなかでも初めての試みとなる。

 会場に並ぶのは、
『山城鍛冶(やましろかじ)の祖』
とされる三条宗近(むねちか)ら『三条派』による名刀や、
刀工の地位向上に努めた後鳥羽天皇が
自ら作刀にかかわったという
太刀『菊御作(きくごさく)』、
『山城鍛冶の到達者』と称される
希代の名工、粟田口吉光
(あわたぐちよしみつ)の傑作など、
いずれも重要な作品ばかり。

『太刀 銘 三条(名物三日月宗近)』や
『太刀 銘 則国(のりくに) 』、
『短刀 銘 吉光』をはじめ、
『国宝』に指定されている17件の
京都=『山城系刀剣』が出品予定で、
王貞治氏旧蔵の
『刀 銘  九州肥後同田貫上野介
(きゅうしゅうひご
どうだぬきこうずけのすけ)』
なども鑑賞できる。

 刀剣とあわせて、『騎馬武者像』(重文)など武装した武家の肖像画や、
合戦の場面を描いた絵巻も展示。
当時の風俗や刀工たちの役割についても解き明かしていく。


【日本刀最上位の格式】を誇り、江戸時代には大名の間で贈答品としても珍重された
京都の刀剣。
その系譜をたどる、またとない機会となるだろう。



特別展 京のかたな—匠のわざと雅のこころ










清らかで優しい『粟田口派』‼️と
キリっと力強い『来派』 ‼️


【京の刀鍛冶】。。
『三条派』(平安時代)、
『粟田口派』(鎌倉時代初期)、
『来派』(鎌倉時代)、
『長谷部派』(南北朝)、
『信国派』(南北朝)



鎌倉時代前期〜中期にかけて栄えた
『粟田口派』は、
「日本刀の歴史の中において清らかで優しく、豊かな刀を作り、非常に高い技術力を持っていた」。
また、直刃が多いという特徴も見られる。




鎌倉時代中期〜後期に隆盛した
『来派』は
京都で刀を作ってはいたものの、
「おそらく貴族の注文を受けたのではなく、
北条一族つまり鎌倉武士によって注文されたと考えられ、京文化を取り入れていながらも力強い刀」。

両派はどちらも見事であるものの、
鎌倉文化の
キリッとした象徴を感じる『来派』‼️
京都文化の優しく上質な『粟田口派』‼️
という特徴の違い‼️。。




特別展『京のかたな』の
『第三章 粟田口派と吉光
(鎌倉時代前期〜中期)』
では
『刀 銘 左兵衛尉藤原国吉(鳴狐)』や
『短刀 銘 吉光(後藤藤四郎)』など、
多数の『粟田口派』の刀が展示されおり、
粟田口吉光の刀にいたっては『国宝』、
『重要文化財』を含め16振り!! 
思う存分『粟田口派』の刀剣を鑑賞することができます。



続く『第四章 京のかたなの隆盛
(鎌倉時代中期〜後期)』では、
『太刀 銘 国行(明石国行)』など多くの
『来派』の刀剣も展示されています。
なんと……今回の特別展は
『来派』の国宝が勢揃いしています‼️。。





鎌倉時代中期に一世を風靡した
『粟田口派』‼️。。
豊臣秀吉に
『天下三作の筆頭と』言わしめた大スター
吉光の名刀が存分に! !


本足跡












『 太刀  銘 国友 』
【重要文化財】

長さ75.8㎝ 反り2.2㎝ 元幅2.8㎝
鎬造、庵棟。腰反りやや高く踏張があり、
先は急に幅を減じ小鋒となる。
鍛えは小板目つまり地沸細かにつく。
刃文は直刃調小乱れで小沸つき、
総体に匂口うるみごころとなる。
帽子は乱れ込み小丸ごころに焼詰める。
茎は生ぶ、区下の棟寄に細鏨の二字銘を切る。
目釘孔一個。刀身の鎬地に奉納者の刻名がかすかに残る。

熱田神宮の『宝物台帳』には
「熱田太神宮奉納太刀」、
「嘉吉元年十二月日大宮司千秋民部少輔
藤原朝臣季貞」と記されている。
作者の国友は山城国粟田口に住した鎌倉時代初期の人、後鳥羽上皇の御番鍛冶の一人に選ばれたと伝えられるが、国友在銘で現存するものは極めて少ない。
細身小鋒の優美な太刀姿はこの時代を物語り、特に出来もよく国友の作風を知るには貴重である。


【鎌倉時代】

『熱田神宮』 





『熱田神宮奉納』‼️…
『御剣一振』!!

















『 太刀 銘 久国 』
【国宝】

山城国粟田口派、粟田口六兄弟の
次兄である藤次郎久国の作です。
本太刀は生ぶ茎で、優美な曲線を描き、
鍛えは小杢目に地沸えがつき、刃文は直刃調に小乱れを交えて匂深く小沸がつき、
匂口が明るく冴えるなど同工の力量を如何なく発揮した代表作です。
久国の作には、本太刀のように
細鏨銘のものと太鏨銘のものがあります。
銘の後ろに切られた花押は後世に所持者によって切られたものと考えられています。
本作は、徳川家康が所蔵していたものが紀州徳川家初代当主徳川頼宣に形見分けとして与えられ、後に紀州徳川家の支藩である
伊予西条松平家へと分与されました。 

【鎌倉時代】

『文化庁』




粟田口派第一世代の中でも‼️…
一、二を争う絶品‼️。。

後鳥羽天皇の御番鍛冶。。久国 ‼️
『帝王の師』!!

『御番鍛冶』…師範格である
『師徳鍛冶』に任命されています。
また刀工として初めて『受領名』
(ずりょうめい・非公式な官職名)
も授かりました。












『太刀 銘 則国』
【国宝】

山城国粟田口派、
粟田口六兄弟の長兄である国友の子と伝えられる藤馬允則国の作です。
磨り上げられた為に時代の割に反りが浅いですが。
小鋒で細身の気品漂う体配を今尚呈していて、詰んだ小板目に穏やかな直刃を焼いた
粟田口派の典型的な作品です。
北畠顕家が後醍醐天皇から拝領したと言われており、後に因州池田家に伝わりました。

【鎌倉時代】

『京都国立博物館』



粟田口六兄弟に続く第二世代筆頭が
この太刀の作者・則国 ‼️である。

優美な曲線から構成させる凛と雅な太刀姿は
京刀の理想形といえる。

粟田口派の真骨頂‼️…
この清涼感さえ感じさせる焼刃と無類の緻密さを誇る地鉄は、京の刀のみならず日本刀全体を代表する出色の出来栄えといえる。













『太刀  銘 吉光
(名物  一期一振 )』

【藤四郎吉光の会心の作】

本太刀は、享保名物帳所載の
『名物一期一振藤四郎』。
号の由来は、
藤四郎吉光が生涯この一振しか太刀を製作しなかったことから或いは生涯会心の作であったからともいわれています。
実際、藤四郎吉光作の太刀は本太刀の他にも複数の刀剣書に記載されておりますし、
成瀬家伝来の打刀(現特別重要刀剣)も現存しているので本太刀のみしか製作していないという事実はありませんので、
やはり最も出来が良い作であったので
『一期一振』と名付けたのだと思われます。

本太刀の伝来は、豊臣秀吉が手に入れる前については諸説ありますが、有力な説としては毛利家から秀吉が献上されたというものです。
秀吉は、本太刀を殊の外大切にし、
後藤祐乗の金具を使用した拵を製作させ、
一之箱に納めました。
この一之箱に納められていたものは
『鯰尾藤四郎』や『獅子貞宗』などいずれも名刀揃いでしたが、皮肉なことに大切に保管されていたが為にほとんどの刀が大坂城落城と共に焼身となってしまいました。
徳川家康は、落城後焼身となった本太刀を惜しみ、初代越前康継に命じて再刃をさせました。
家康薨去後は尾張徳川家の所蔵となり、
文久三年に尾張徳川家十五代当主徳川茂徳から孝明天皇へと献上され、現在は御物です。




【元々の長さは二尺八寸三分】

本太刀は、元々秀吉が手に入れた地点では
二尺八寸三分ありましたが、
文禄四年から元和元年の二十年間に
二尺二寸八分へと摺り上げられ、
銘も額銘となっております。
おそらくは、大坂城落城で焼身となった際に摺り上げたと思われますが、この間の記録がないため詳細は不明です。
一説には秀吉が摺り上げさせたとも言われていますが、もしそうであればこれほどの名刀であれば、当然のことながら本阿弥家や埋忠家、もしくは家臣の日記などに何かしらの記録が残るはずですので、逆に言えば本阿弥家や埋忠家などに記録がない事実が、焼身となるまでは摺り上げていなかった一つの証明になりうると思います。




【再刃となる前は乱刃】

この太刀は、姿は鎬造、庵棟、磨上ながら
反りやや高く、鋒は猪首鋒となり、
佩表に棒樋を掻き流し、佩裏は棒樋を掻き通している。
鍛えは、小板目よく詰み、地沸つく。
刃文は、中直刃基調に互の目や小乱交じり、小沸付き、小足入り、砂流しかかる。
茎は、大磨上、鑢目切、先栗尻となり、
茎の中ほどに額銘で「吉光」の銘を大振りに切っている。
『光徳絵図』を見る限り、本太刀が焼身となる以前は藤四郎にしては刃文が乱れているので、二尺八寸余りの長さと相まって藤四郎独特の格調高い雰囲気に加えて独特の雄々しさを漂わせていたことでしょう。
現存する多くの藤四郎の作は直刃ですので
(前述の打刀も直刃)
「乱れた藤四郎の太刀を一度拝見したかった」と思うのは筆者のみならず全ての愛刀家に共通する想いだと思われます。

本足跡







の‼️…

“焼け身 ” ではない‼️…長寸の『吉光』の一品




『 小太刀 銘 吉光 』

吉光の数少ない長寸の作例として、
御物『太刀 銘 吉光 (名物 一期一振 )』と並ぶ
尾張国犬山藩主成瀬家伝来の小太刀である。

【鎌倉時代】












『粟田口派』は、京都の『粟田口』において、鎌倉時代初期に興り中・後期に至る間に
十指に余る名工を輩出している。
鎌倉前期には、国友を長兄とする
久国・国安・国清・有国・国綱の六人兄弟が著名で、他に国友の子の則国がいる。
中・後期にかけては、国吉や
国吉の弟と伝える国光、国吉の子とも
弟子とも伝えられる吉光らが活躍している。
それらの刀工を総称して
『粟田口物』と称している。
作風は、優美な太刀姿、「鉄色青く刃白し」と評される様に梨子地の鍛えに上品な直刃を焼き格調の高い作品が多い。

本足跡


 









 
 地鉄 …『梨地肌』。。。


「鉄色青く 刃白し」