🏔️❄️キラキラ
『葛城』






『蜘蛛塚』



『二の鳥居』の横に『蜘蛛塚』がある。
この「一言主神社」には、ここも含めて
合計3箇所に『蜘蛛塚』がある。

『土蜘蛛』と呼ばれた人々の供養の為に作られたようです 。。


ここで『蜘蛛塚』について少しばかり触れておこう。

『神武天皇東征』もいよいよ終盤。
各地の『土蜘蛛』を平定しながら
『葛城』の高尾張邑(たかおわりむら)に来た。

ここにもまた『土蜘蛛』がいた。
(『土蜘蛛』とは天皇に逆らう土豪の総称)

ここの『土蜘蛛』の様子と言えば、
身長が低くて手足が長い「侏儒」のようだ。

神武軍は、
『葛(かずら)のつる』で作った網で
クモを覆い殺した。
よってこの地を
『葛城(かずらき)』と名づけたという。

そして、
土蜘蛛』の怨霊が復活しないように、
首、胴体、足を切り離して
それぞれ別に埋めて巨石を置いた。


本足跡






















 「一言主神社」。。

『土蜘蛛の塚』。


ここでいう「蜘蛛」ないし
「土蜘蛛(つちぐも)」とは、
多くの場合次の二種類の意味を持つ語である。

神話時代の
天皇に恭順しなかった人々への蔑称。
『古事記』『日本書紀』に
「土蜘蛛」や「都知久母(つちぐも)」
の名で登場する。 
 また8~9世紀ごろに書かれた
陸奥(青森)、常陸(茨木)、
肥前(長崎)など日本各地の『風土記』にもたびたび「土蜘蛛」の表記が見られる。 

 『豊後国風土記』に
土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)という記載があり、土着していた「土蜘蛛」の首長らが
女性であった例もある。 
 無論これら「土蜘蛛」にされた土着勢力は人間であったはずだが、
しっぽがある(大和)、
耳が大きく垂れている(肥前)など、 
 人間離れした身体的特徴が挙げられることもあり、
「人であって人にあらず(『古事記』)」
と記載されることもあることから、 
 やがて『土蜘蛛』=『妖怪』とみなされるようになる端緒が、すでに古事記や風土記の成立時期からあったのではないかとも考えられる。 
 繰り返しになるが、基本的に単一の勢力
又は特定の個人を指すものではなく、
中央権力にまつろわぬ人々の総称である。


蜘蛛の妖怪。
「八握脛(やつかはぎ)」
「大蜘蛛(おおぐも)」とも呼ばれる。
「源頼光(みなもとのよりみつ)」
によって退治されたことになっている。 
 しかしその退治談については、全く異なる、
二つのヴァリエーションが現代に伝えられている。


イ.御伽草子絵巻の一つ、
『土蜘蛛草紙』らの土蜘蛛 

ある日「源頼光」とその従者「渡辺綱」が
京の北方の京都紫野の蓮台野へ赴くと、
そこで空飛ぶ髑髏(どくろ)に遭遇した。 
二人は髑髏を追いかけるうちに、
神楽岡(かぐらおか)の廃屋に行き着く。 
そこでは老女(290歳)、異常な大きさの頭を持つ尼、器物の妖怪、鶏女、牛男など、多種多様の奇怪な人物や妖怪が次々と現れる。 
最後に美女が現れ、鞠のような白雲を投げつけて頼光の目を眩ませる。
頼光が美女を斬りつけると、
白い血を残して消えてしまう。 
頼光一行は、まるで白い河のように続く血痕を追っていく。
やがてそれは西の山の洞窟に至る。 

そこでふと刀を見ると、先が折れていた。
美女を斬った時に折れたのだと悟った頼光は、
その妖異の大きさに用心し
藤や葛で身代わり人形を作った。 
人形を先頭に立てて洞窟を進むと、
やがて行き止まりに行きつく。
そこには一軒の建物があった。 

頼光の到着を待つかのように、建物の扉がギギギと開くと、中から錦をかぶったような
巨大が土蜘蛛が出現する。
そこで突然、先ほど折れた刀の先端が飛来して人形にあたる。
するとすごいダメージを受けて死ぬ。

頼光一行が死んだ妖怪を司法解剖すると、その腹からは1990個もの死人の首が出てきた。
さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出した。 
ここにいたり、当初からの怪異の正体は
全て土蜘蛛の仕業であった。
という結論にいたったという。 





ロ.『平家物語「剣巻」』の土蜘蛛 

ある時、頼光は熱病(マラリア)に冒されて伏せっていた。
一ヶ月経ってもなかなか回復の見込みが現れなかった。 
そんなある夜、身長7尺(約210センチ)の法師がやって来て、頼光を縄で縛ろうとした。 
重病の頼光もこれにはばっと起き上がり、
枕元の名刀『膝丸』で
僧侶を斬りつけると、僧侶は逃走した。 

翌日、頼光四天王らとともに僧侶が残した血の痕を辿って行くと、「北野天満宮」の
後ろの大きな塚に行き当たった。 
その塚を掘り崩すと、
全長4尺(約120センチ)の
巨大な「山蜘蛛」が現れた。
「マラリアの原因もこいつに違いない」
と確信した頼光は、 この山蜘蛛を生け捕りにすると、鉄の串に刺して、河原で晒しものにした。 
その後頼光の病気はたちまち快癒した。

頼光は僧侶を斬った刀の名を
『膝丸』を『蜘蛛切』に改めたという。 


また、『平家物語』のエピソードの流れを組むものとして、謡曲『土蜘蛛』がある。

熱病(マラリア)に冒された頼光の元に、
身長2メートルの法師が「見舞い」と称してやって来た。 
そのあまりの怪しさに、頼光が
「お前のような僧侶がいるか」と看破すると、 
「お前は知らんかもしれんけど、
我は葛城山で長月をすごしてきた土蜘蛛の精魂(怨霊のようなものか?)だぞ!」 
と、千筋の糸で攻撃してきた。
「知るかっ‼️」と思った頼光は、
土蜘蛛を刀で切りつた上、
逃げた土蜘蛛を部下とともに追った。 
そして土蜘蛛の棲みかをつきとめると、
ついにこれを退治した。




「一言主神社」の境内には
この謡曲『土蜘蛛』についての由緒書きが立てられていることから、
平家物語系統の『土蜘蛛談』を採用していることが分かる。 
また、同社の由緒書きの中では、
平家物語系統の『土蜘蛛談』の後日談にもふれられている。 
頼光らが土蜘蛛を退治した場所には
『頼光朝臣塚』の碑が立てられた。
その塚から『筒石』が発掘され、ある者がこれを自宅の庭に置いたところ、 
その者の家運が傾きはじめ病人が相次いだため、土蜘蛛の祟りではないかと噂されるようになった。 
そこで、これを安置し『土蜘蛛灯篭』として「北野東向観音寺」に祀ったところ、
被害は収束したという。 
『頼光朝臣塚』とは、京都紫野の蓮台野に現存する頼光の墓所の事を言っていると思われるが、 
なぜ頼光の墓の中に、土蜘蛛の祟りのこもった『筒石』が一緒に埋葬されていたのかは定かではない。 





なお、「葛城一言主神社」における
『土蜘蛛伝説』は、
①と②(の平家物語系統の話)とを
つなぎ合わせるものであるように感じられる。

①で列記した例と同様に、記紀神話の中で
奈良地方に元々住んでいた民もまた
「土蜘蛛」と呼ばれている。 
奈良の「土蜘蛛」は
『神武東征』
(神武天皇が日向(九州)から
近畿地方まで遠征し
『橿原宮』(奈良)に遷都したとされる話)
に激しく抵抗し、滅ぼされている。 

特に『葛城』の「土蜘蛛」の抵抗はすさまじく、死後怨霊となることを恐れた神武天皇らは「土蜘蛛」の遺体の胴、首、手足らを分断した後に埋葬したといわれている。 
これが「葛城一言主神社」の
『蜘蛛塚』の本来の由来だろう。

一方②の説話の流れを組む謡曲の中で、
怪物が「土蜘蛛の精魂」を名乗り
「葛城山で長年を経た」と語っている。 
すなわちその正体は、天皇家に滅ぼされた
「土蜘蛛」らの怨念が、その蔑称のとおり
本当に蜘蛛に化身して顕れたものとも考えられる。 
もしそうであれば、妖怪としての土蜘蛛が
平安中期の今日の都を荒らし回ったことも、朝臣である頼光の命を狙ったことも、退治されてなお強力な怨念で 
呪いを残したことも、
「大和政権への積年の恨み」と言う形で
つながってくる可能性がある。

果たして「葛城一言主神社」の
『蜘蛛塚』は神話(史実であった可能性もある)とお伽話の、両方の由緒を示すものであると言うこともできよう。


本足跡





























源 頼光 ‼️。。














『鬼退治』‼️…『土蜘蛛退治』‼️。。で有名な








頼光‼️。。。

『丹後』。。。










 刀剣↑キラキラキラキラキラキラ



『源氏の宝刀』





『膝丸』

『薄緑』






















【三つめの蜘蛛塚は?】
境内に三か所、首・胴体・足を
それぞれ埋めた『蜘蛛塚』があるとされるが、結局2か所しか発見できなかった。

後日、社務所の方に伺うと、、、

拝殿の奥、本殿横の庭に『蜘蛛塚』があります。
普段は見ることができませんが、
『大祭』の時だけはご覧いただくことが可能ですよ。
是非、お参り下さい。

とのこと。。

葛城氏が祀る神社に、『蜘蛛塚』が存在する。
これは、土蜘蛛の怨霊を封じるためなのか、
はたまた慰霊なのか。



 




二の鳥居の百度石の傍らには『足の部分』

拝殿横の塚は『土蜘蛛の胴の部分』

『頭の部分』は社殿の下になっているそうです
 

本足跡




















































※ 長髄彦 ※


『トミ』