🏔️❄️キラキラ











『十二』。。。





「十二社神社」




『十二』。。
この『冬たび』の‼️…
『キーワード』のひとつ‼️でもある‼️。。










『十二社大明神』


「式内川上鹿塩神社」。。『五社峠』

『大倉大明神』。。『南国栖の深山』




『由 緒』
当社地には別に「式内川上鹿塩神社」と、
『大倉大明神』が鎮座されていたが、
前社は『五社峠の地』へ再祠し
後社は『南国栖の深山』へ遷座した。
創立は定かでないが「村社十二社神社」の
『正遷宮』は、明治三十五年五月二十一日に行われたことが棟札により確認されている。
『例祭』は毎年十一月二十三日・
『春祭』は四月三日・
『夏祭』は七月九日に執り行われている。

また境内に建立されている『石灯篭』は、
正徳五年(1715)・寛政九年(1799)
同十三年(1801)・弘化三年(1846)
・明治二十七年(1894)
また御大典記念として、
昭和三年(1928)にそれぞれ一対づつ、
更に明治二十七年(1894)には
狛犬一対を寄進せられておりこれらの年号は、当神社の連綿とした歴史の流れを如実に物語っている。

なお境内入口には、
昭和五十七年四月二日奉納の『大鳥居』と
平成四年十一月寄進(寄進者名 社務所内掲示)の『青御影石の社標』と
『白御影石の玉垣』が一段と当社に荘厳さを添えている。
特に当社には、毎年十月十六日に
『宮座』という神事があり、
これは次代を担う子供たちの成長を祈願する意味から、神前に神酒と鯖十二匹
(十二社大明神 天神七代・地神五代)を献上し社務所において『子供相撲』を奉納する習わしが、古代より受け継がれ現在に至っているのは、この近辺では珍しい神事では無いかと特筆に価するものである。

(一九九八、一一吉祥日)


-境内の案内板より-本足跡





【神事】
『宮座』 10月16日

本あしうら





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両脇に、『摂社』。











































「十二所神社」
 (じゅうにしょじんじゃ)

十二社神社(じゅうにしゃじんじゃ)、
十二神社(じゅうにじんじゃ)という
名前の神社は日本全国に存在し、
十二社(じゅうにそう)と称するものもある。

古くからの『十二様』と称する
“土着の山の神”を祀ったものと、
“熊野神社の系列”のものとがある。

前者の信仰は
射日儀礼を含む『十二講』の習俗を伴い、
北関東・甲信越を中心にして東日本の山間部に分布する。
後者は『十二所権現社』などと呼ばれる
『熊野三山の神(熊野権現)』
を勧請して祀ったものである。

それらの中には明治の『神仏分離』
によって祭神を『天神七代・地神五代』としている所もある。

Wikipedia。。本あしうら





この辺りには。。。

ホントに、『十二社』という神社が多い。。


いろんな地域。。地方をまわっていると‼️…

そこにやたらと集中して、たくさん‼️…
『同じ名前』の神社がある‼️。。トリイ
ということがある。。足跡

(小さな神社だ。。小さな神社が、一地域に
たくさんあるのだ。。トリイ)


『ここ』では。。“それ ” が、
『十二社』。。



あと多いのが。。。『クズ』だろうか…

(こちらの場合は、その『字』が
いろいろ違う字だったりするが。。)











吉野なる 菜摘の川の川淀に

鴨ぞ鳴くなる 山蔭にして

 湯原王
(『万葉集』) 



『吉野』。。

『菜摘の里』。。。





『菜摘の里』に、鎮座する「十二社神社」


菜摘。。。夏実。。。





【菜摘(なつみ)の川を詠んだ歌】


吉野なる 菜摘の川の川淀に

鴨ぞ鳴くなる 山蔭にして



山高み 白木綿花に落ちたぎつ

夏身の川門 見れど飽かぬかも



大滝を 過ぎて夏身に近づきて

清き川瀬を 見るがさやけさ 

本筆



























「菜摘  十二社神社」
この近くには、
「十二社神社」が4社もあります。
「十二社神社」は
神祇と仏菩薩の関係を理論的にとく
『本地垂迹説』によって示された
『十二神』に大己貴命を加えて祀られたものといえよう。




『菜摘』(奈良県吉野町)

『吉野の離宮跡』、『宮滝』から吉野川を上流にさかのぼると、川が大きく湾曲し、
背景の山々とともに素晴らしい風景に出合います。
万葉の昔から山紫水明の地として知られていた『菜摘の里』。。

本あしうら








吉野なる 菜摘の川の川淀に

鴨ぞ鳴くなる 山蔭にして

 湯原王
(『万葉集』)

 
この歌は湯原王(ゆはらのおほきみ)が
吉野の夏実で鴨の声を聞いて詠んだ一首。
『夏実』は現在の奈良県吉野町の菜摘地区。

湯原王は
志貴皇子(しきのみこ)の第二子であり、
天智天皇の孫にあたります。

父である志貴皇子は、
『壬申の乱』の後、
『近江朝廷』が敗れてのちの
天武・持統天皇の治世下で、
敗北者側の皇子としてずいぶん危うい立場にいたようです。
その子である湯原王についても同じで
天智天皇の孫であるにもかかわらず任官などの記録は一切残っていないことから、
政争に巻き込まれたり暗殺されたりすることを恐れて無欲を装い歌などを楽しむ風流人として生き延びる道を選んだのではないかと想像できます。
それゆえか、湯原王の歌には
他の万葉歌人の歌とはまた違った小説的構成をなされた相聞歌など、個性ある風流な作が多いように感じられます。

この歌もまたそんな湯原王らしい特色ある一首で、一読してすぐに内容の分かる情景歌ですね。
おそらくは実際に吉野の
夏実を訪れたときの一首なのでしょう。

本あしうら








また、ここの近くには。。

『静の井戸』があるという。。





 『静が井戸』
 吉野郡吉野町(旧吉野郡中荘村)


『静が井戸』は
『菜摘』の「西生寺」にある。 

 義経が吉野山で静御前と別れ、
奧羽に落ちのびた後、静は、
「今はもう頼むところもない。」
と絶望で井戸にはまって亡くなりました。

その後、300年ほど井戸に火の玉が出るようになったといいます。 
これが中荘村・「西生寺」境内の
『静が井戸』である。


静の亡霊が火の玉となって、
その井戸から現れるので、
村人は蓮如上人に頼み、
静の亡霊を済度(さいど)してもらうことにした。

蓮如上人は、
大谷氏の家に残っていた静の振袖に、

静にはその形なく 白骨の

にくをはなれて なむあみだぶつ

と書きつけ、七日間法会を行った。

満願の夜の夢に、静が現われ、
「長らくの迷いの門出ができました。」
と蓮如上人にはなした。

それから真言宗の寺だったのが
浄土真宗に変わり、
寺の名を「西光寺」から
西方往生に照らして「西生寺」に
あらためたという。。

本あしうら










『菜摘の里』

菜摘集落の北端にある『大谷家』は、
『壬申の乱』の折、大海人皇子側に味方して功のあった“村国庄司男依 ”の子孫と伝え、
同地の「華籠神社」の祭祀を同族で守り継いでいる。
この地で採集した花や薬草を
『宮滝離宮』へ献上していたところから
『菜摘』と呼ばれた。




『大和名所絵図』に
「菜摘の里に花籠の水とて名水あり。
また静御前がしばらく住みし屋敷址あり」
とあるが、
『吉野』に義経を訪ねた静から
愛用の『初音の鼓』を贈られた『大谷家』にはそれが今に伝わると言う。

本あしうら
 









蟹座新月。。キラキラ
7月 13日。。11時 49キラキラキラキラ


【ボイドタイム】
7月13日  11:49~ 14日 2:32