龍龍シャボン玉シャボン玉

2016 夏










「事実は小説よりも奇なり‼️…」筆


歴史。。。ロマン。。。

俺は。。
いろんな諸説。。というものも、好きキラキラ
面白くて好き(笑)…ラヴねこやん

『物語』も。。楽しくて好きなのだ。足跡おんぷ



事実。。真実。。も好きキラキラキラキラ

そして、何より‼️…
“そこ”にある。。。大事なもの

絶対に‼️…欠かせない‼️『大事なもの』

Wハート3


いろんな『伝説』『物語』『お話し』・・・
“人が作った話し”。。“作られたお話し”。。
というもの。。がある

でもそれは‼️。。
(当たり前のことだけど(笑)、)
所詮は。。
“人が想像できる範疇 ”、
“人の及ぶ想像力の範疇 ”
にすぎない。。のだ足跡



『真実』というのは。。。
そんな人間の想像力を‼️…
遥かに越えるものであったりする。。。


 「事実は小説よりも奇なり‼️…」。。筆


真実は⁉️…。。。↑↑↑キラキラキラキラ


歴史。。って、ロマン。。。キラキラ

この世界‼️。。って、ファンタジー‼️(笑)
ラヴねこやんキラキラキラキラ












来たぜっ‼クロネコちゃん↑キラキラキラキラ
























布都魂神社奥の院。。








俺がよく行く神社のひとつ‼️…
「石上神宮」キラキラキラキラ

なので‼️…
ここは‼️いつか行きたい‼️。。と思っていたのだ‼️。。ラヴねこやん↑キラキラキラキラキラキラ



もう‼️…ワクワク。。Wハート3キラキラキラキラ

高まる~‼️。。クロネコちゃん↑キラキラキラキラキラキラ








































『磐座祭』

いわくら。。









「石上神宮」

















『幸魂之石』




















物部。。。








キラキラシャボン玉シャボン玉シャボン玉シャボン玉キラキラ




































旭川。。。




鉄。。。たたら。。。


旭川。。。
。。。斐伊川


とある説には。。
神話の『斐伊川』とは‼️…
この『旭川』のことだという。。。






岡山の大地を生み、
吉備文化を育んだ旭川‼️。。


『旭川の誕生から岡山市誕生まで』

【旭川の誕生】

約35万年前(旧石器時代前期)
大山の噴火による地形変動により、
中国山地 朝鍋鷲ヶ山
(あさなべわしがせん、
岡山県真庭市蒜山上徳山、標高1,081m)の
源から日本海に流れていた旧河道が堰き止められ、蒜山原湖(現、蒜山高原)が誕生。

約15万年前(旧石器時代中期)以降の
侵食作用により、蒜山原湖から南部へ流れ始めました。
(『旭川』の誕生)


上流域では深い渓谷を形成しながら
中国山地の山間を流れ、旧石器時代から
縄文時代の人々が河辺に沿って
採取・狩猟生活を営んでました。
中流域で蛇行しながら吉備高原のなだらかな丘陵や扇状の盆地などを形成。
下流域で南流し、龍ノ口山(岡山市中区)
~三野(同北区)間辺りの河口から、
後に『吉備の穴海』と称される海原
(現、岡山平野・児島湾・児島湖)
へ注いでいました。

縄文時代晩期より、土砂の堆積作用によって
旭川の河口に形成された干潟、
海原に浮かんでいた島々の沿岸に形成された干潟を利用した稲作が始まりました。




『吉備国の誕生』
弥生時代、中流から下流域の本流・支流沿岸で水利・水運を利用した組織的
な農耕が広まり、古墳時代には
大陸から伝来した製鉄が広まりました。

旭川の本流・支流沿岸で広まった組織的な農耕と製鉄は、吉備の穴海に浮かんでいた児島で盛んであった製塩とともに、発展・繁栄をもたらし、畿内・出雲に匹敵する
古代屈指の地方国家 『吉備国』
(現、広島県東部~岡山県全域~
兵庫県西部、香川県島嶼部)を築きました。


紀元前88年(弥生時代中期)、
「民を導く本は教化にある」を理念とされた
第10代崇神天皇の勅命により
山陽道へ派遣された大吉備津彦命が
吉備国を統治、
吉備中山山麓に構えた御所「茅葺宮」で
仁政を行いながら吉備の人々に殖産を教えひろめ、吉備文化の基礎を築きました。

旭川は、陸路が整っていなかった当時の
交通・運搬経路として集落間・
東出雲の伯耆国(現、鳥取県)との
交流、物流に活用され、
吉備文化を発展・繁栄させました。


吉備王国と称されるほどの繁栄を遂げ、
絶大な権勢を誇っていた往時を物語るように
畿内(現、大阪府)の天皇陵に次いで
全国4番目、墳丘に立ち入りできる古墳として全国最大の規模である造山古墳
(岡山市北区新庄下)など

吉備国発祥の地
((岡山市北区吉備津周辺~総社市))を
中心とした県内各地
(当時、本土側)及び創設期の大和朝廷が
古代国家建設の重要拠点としていた
「吉備児島」に数多くの古墳が分布しています。


旭川の水利・水運が発展を担い、
古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した吉備国
は、律令制成立(行政改革)後の
7世紀後半に政事(地方行政)の細分化により
『備前国・備中国・備後国』に分割され、
後に備前国から『美作国』が分割されました。




『岡山の誕生』

数世紀を経た室町時代から江戸前期、
土砂の堆積作用により南下・拡大した
河口、島々の沿岸(現、岡山市北区~中区)の干潟を利用した新田開発により
開墾された備前平野が広がり、
河口付近には土砂の堆積作用で小高い丘陵
「天神山・石山・岡山」が連なる三角州が形成されました。

室町時代末期、この地(岡山県)で
発祥した高瀬舟(下記)により、
流域の集落と炭・薪・鉄・米・塩・油・
畳表など原材料・食糧・生活物資の運搬が盛んになり三角州の南へ港(後の京橋港)が設けられました。

※高瀬舟
室町時代末期、岡山県の主要河川
(旭川・吉井川・高梁川)で使用され始め、
河川交通の模範として江戸時代に日本各地に普及、昭和時代初期まで全国で使用されました。

戦国時代の1570年、備前平野の広さと
陸運・水運の利便性などに着目した
喜多直家が、高瀬舟が発着する旭川の港町として栄えていたこの地を支配。
1573年、旭川河口付近の三角州にあった
小高い丘陵「石山」にあった石山城
(現、榊原病院跡一帯)に入城し、
旧城下町を形成。

1590年 ~1597年、宇喜多秀家が
養父豊臣秀吉の指導のもと、東の「岡山」
(現、鳥城公園)へ本丸を設けた城郭を
新たに建造。
その中、1594年に秀家が書状へ
『岡山』と記して以後、
城を「岡山城」、城下町を『岡山』と
称されるようになりました。

その後の城下町拡大整備、備前藩内の
有力商人・職人の誘致(表町商店街の発祥)、
吉備の穴海(後の児島湾)の藩営干拓・
農地開拓により商業・農業が発展した
『岡山』は、1871年(明治 4年)の
廃藩置県により備前国を範囲とした
『岡山県』になりました。


1876年(明治 9年)4月18日
備中国・備後国・美作国との編出入
(移管)後に現在の『岡山県』が誕生。

1889年(明治22年)6月 1日
市制が施行され、
『岡山市』が誕生しました。

江戸時代の藩営干拓に続き、
1899年(明治32年)からDOWAホールディングス株式会社(当時「藤田組」)が行った
児島湾内の大規模な干拓 『藤田開墾』
により農業が更なる発展を遂げ、
広大な岡山平野が誕生するとともに
開拓・造成地へ昭和初期に立地・操業した工業・商業で栄え、
1964年(昭和39年)に
『新産業都市』に指定されました。


2009年(平成21年)4月、
政令指定都市へ移行。
(国内18番目、
中四国地方:広島県広島市に次ぎ2番目)

2012年(平成24年)6月1日、
『岡山市民の日』制定。

本足跡




吉備。。。


出雲。。。




















白い 布。。


布。。。

フツ…。。




神 劔 ‼️。。ナイフキラキラキラキラ↑