桜天満宮の境内にある岩石が桜の花の模様だったので「桜石」と呼ばれています。
鉱物学では、花崗岩と粘板岩が接触してできた
菫青石仮昌(きんせいせきかしょう)
と呼ばれており、国の天然記念物に指定されています。

【名称】桜石

【住所】亀岡市薭田野町柿花
 
本足跡




桜石⁉️…

桜の花の模様の石がっ⁉️キラキラキラキラ


















『亀岡市の桜石』

亀岡市稗田野町「桜天満宮」の境内
にある石には小さな桜の花が見られます。
『桜石』と呼ばれている石です。
しかし植物の桜とはどこか違います。
植物の桜の花びらは5枚ですが、
桜石の桜の花びらは6枚です。
鉱物は奇数を嫌います。


菅原道真が京都の宮中で陰謀にひっかかり、
九州大宰府に流されました。
道真は桜の花をこよなく愛していたのですが、大宰府で桜が咲かない季節がありました。
ひかし、ここ亀岡の地では石の中に桜が咲いていたというそういう伝説がある桜石です。




桜石はどうやってできるのか?
さて、桜石はどんな石なのかといいますと、もともと菫青石という鉱物でした。
菫青石は六角柱状の結晶で、泥質の岩石がマグマで熱せられて、できる鉱物です。
桜石が取れる山の北側に行者山という山があります。そこは花こう岩の山なのです。
もともとあった泥質岩に花こう岩マグマが貫入してきて、泥質岩を熱したのです。
そのときに泥質岩に入っていたアルミニウムやリンを含むの物質が集まって結晶を作ったのが菫青石です。

もう少し詳しく見てみましょう。

上の図を見てみましょう。泥や砂が堆積してできた地層があります。



そこへ温度800℃もある熱いマグマが入り込みます。
するとマグマの周りの泥や砂でできた堆積岩がまるで焼き物のように熱せられます。
陶芸をしておられる方ならすぐにご理解いただけるかもしれませんが、粘土を焼くと硬くなり、それでお茶碗なんかができるわけです。
泥岩や砂岩も同じで、高温で熱すると焼き物みたいに硬くなります。
それと同時に菫青石や紅柱石といった、こういう状態でできる独特の鉱物ができます。
このようにして堆積岩がマグマによって熱せられて、その中に新しい鉱物ができることを熱変成、あるいは接触変成と専門家は呼んでいます。

亀岡の桜石は今は菫青石ではなく、
白雲母とか緑泥石という鉱物でできています。
もともと菫青石という鉱物だったのですが、時がたつにしたがって白雲母とか緑泥石に変わりました。
それに適度に風化して周りの岩石がわやらかくなって、桜の形にうまく割れてくれるのです。

泥質岩(泥岩とか頁岩)が熱せられて菫青石ができるというのがミソですよ。
粒が大きな砂岩が熱せられても菫青石はできないのです。
なぜって?それは砂岩にはアルミニウムが泥岩ほど含まれていないからです。
泥っていうのは、湖や池、海の底に積もるとき、軽いものですから、ゆっくりと水の底に沈んでいくわけです。
砂などの大きな粒のものはすぐに底に沈みますが、泥は細かくてなかなか沈まないわけです。
アルミは軽いです。
軽いアルミもやはりゆっくりとしか水の底に沈まないのです。
それで泥岩の中にはアルミがいっぱいはいっているわけです。目からウロコですよね。


桜天満宮の裏山の向こう側は造成地になっています。
湯の花温泉からぐるっと回って行くことができます。
そこは造成地といってもほったらかしで、草ぼうぼうですから夏はコブラやニシキヘビに気をつけてください。(失礼!!)
桜天満宮ではご迷惑がかかるので、
桜石は採集しないように!!


本足跡











京都府 亀岡市 桜天神

 母岩付きの桜石。母岩は堆積岩がマグマと接触することによって形成された変成岩の一種で、ホルンフェルスと呼ばれています。
桜石という名称は正式な鉱物名ではなく、
桜の花に似ていることに因んだ俗名です。

 桜石は雲母と緑泥石の混合物で、
菫青石(アイオライト)が風化して誕生しました。
菫青石は四角柱状の結晶を形成する鉱物です。
桜石の元となった菫青石の場合、3つの結晶が互いに貫通する双晶(貫入三連双晶)を形成していました。
そのため、桜石には
花びらのような形状が6つ存在しています。
 桜石の採れる桜天神は、
菅原道真ゆかりの神社と言われています。
菅原道真が太宰府へ左遷される際、
別れを惜しんだ家臣へ桜の木を贈りました。
桜天神は、家臣が桜の木を育てていた場所だと、伝えられています。
桜石は厄除けとして、
参拝者へ配られていたそうです。
大正末期、桜石は天然記念物に指定されました。現在では採掘は禁止されています。

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『桜石』。。桜キラキラ

また、その採れる場所がなんとも‼️…
実に面白い。。。↑キラキラキラキラ

















道真‼️と…桜?と!?

道真‼️…と言えば⁉️。。梅では?



道真‼️と。。桜。。さくらキラキラキラキラ



菅原道真公(845-903)は
学問の神様といわれている。
平安前期の学者にして政治家。
宇多・醍醐両天皇に重用され、
文章博士、蔵人頭などを歴任した。
その後、右大臣まで登ったが、
藤原時平の嫉みをうけ、讒訴によって
九州筑紫大宰府に左遷された。

2年後任地で没したが、
時平への恨みから京の都に祟り、
雷を落し雹を降らせ、さまざまな怪異をなしたとされる。恐るべき神様だ。

それはさておき、道真公といえば
梅の木の故事が有名である。

梅は春に先がけて咲く。
南北朝時代の朝山梵灯の連歌書には
「よろずの草木の先に花開くが
ゆえに花の兄と申すなり」とあり、
「花の兄」とも呼ばれた。
古くに中国から渡来したとされ、
貴族たちが最も好んだ花だった。
万葉集には118首詠まれている。

道真公は都を去る時、庭の梅に別れを惜しみ、「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 
主なしとて春を忘るな(春な忘れそ)」
と詠った。
うれしいとき、かなしいとき、感情が極まっても乱れず、淡々と歌に託してこらえるのは昔の和人の嗜みだった。

そんな彼が延喜元年(901年)正月、
大宰府に向う船に乗って門司の青浜近くを通りかかった。
折りしも梅林が満開である。
公はしばしの休息をとろうと、浜に船を寄せた。と、梅の花がいっせいに舞い散った。
あたかも公を慰めんとするかのよう。
船人たちは皆その美しさに感じいった。
青浜特産の珍石、梅花石は、
そのときの花びらが地中に凝ったものだという
(ちなみに中国にも梅花石と称する模様石がある)。

このほか、一夜にして京から大宰府にテレポートした飛び梅の故事もあって、
道真と梅の木は、比翼の鳥、連理の枝といった間柄らしい(ちょっと違うか)。

さて、菅公には桜にまつわる伝説もある。
公の近臣に
高田若狭之介正期(まさとき)という、
稗田野の鹿谷(ろくや)出身の忠義者があった。
大宰府左遷の折、正期は公が寵愛していた桜の木を形見に拝領し、故郷の稗田野に移し植えた。
その年は見事な花が咲いたが、翌年の3月には葉ばかりで花が咲かない。
正期は、もしや公の身に何かと、
はるばる大宰府まで駆けつけた。
忠節に感じた道真は、天拝山の土で自像を作って持たせた。
正期は故郷に帰ると、
独鈷抛山(とこなげやま)の麓に祠を建て、像を祀った。

それから300年経った。
建久元年(1190年)、浄土宗・
積善寺の住職、無極上人の夢枕に
しばしば菅神が立った。
上人は感得するところあって、
かの祠を天神山の麓にある寺の境内に移した。
かつて正期が桜を植えた場所である。

すると
「奇なるかな桜樹の精霊、樹下の巌に形を現す。これ全く神慮により、樹は枯れ朽ちつるが故に、岩石に花の紋を残し給うなり」
(桜天満宮縁起書)、
境内から桜の花の形をした石が産するようになったのだ。
菅神を祀った祠は
『桜天満宮』と名づけられた。

この寺の桜石は江戸時代の中頃から世に広まった。
昭和の初めには、
桜石を紙に包んだ厄除け、雷避けのお守りが参詣者に授けられていたという。



補記:桜石は風化によりピニ石化した
斑晶菫青石で、母岩は粘板岩・泥板岩のような粘土質の岩石から接触変成して生じた
黒色変成岩(ホルンフェルス)。
菫青石は3連または6連双晶をなし、
これがピニ石化したために結晶横断面が
六弁の桜の花のように見える。
鉱物種としては絹雲母(セリサイト Cericite)と緑泥石質の混合物という。
セリサイトと紛らわしいが、セラサイト
 Cerasite の名は 
Cerasus (サクラ属の名称)に因み、
いわば桜石を国際名っぽくしたもの。

鉱物和名辞典(1959)によると、
桜石の命名者は菊池安、1888年のことという
(ギリシャ語の Keraros(チェリー))。
なお「桜石」と称するものは、この種の石に限らず各地にさまざまなものがある。



補記2:梅は古来から中国で愛でられた花で、さまざまな含意を与えられてきたが、学問に関わる逸話では、南朝の東晋の哀帝
(在位 361-365)が読書を始めると花が開き出すという故事があって、
『好文木』(こうぶんぼく)と雅称された。
読書家の道真が梅を愛したのもむべなるかな、である。
ちなみに万葉集に梅の歌が118首あるのに対して、桜を詠んだ歌は40首である。
平安時代前期には花といえば梅であったが、後期になると花は桜へと変わってゆく。

 
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