梅キラキラ































高御位神宮について




『高御位神宮の御由緒』

人皇第五代・孝昭天皇は即位後、
天津神祗伯(アマツシンギハク
--天津は空から降った神々、
それらを祭る古神道の長)で
第四代天中押別命に命じ、
皇始祖・天之御中主天皇の磐座
(イワクラ--神が降臨する場所)
がある“高御位山”に行かせ、

ここに鬼門八神
(天照大神・月夜見神・素盞鳴神・
大国主神・豊受姫神・埴山姫神・岩裂神・
根裂神)をまつらせた
(鬼門大金神とは違う)。



これが高御位山に鎮座する
高御位神宮の由来である。

【高御位神宮奉斎神】


鬼門大金神(宇志採羅根真大神)』
〔キモンダイコンジン 
ウシトラコンジンオオカミ〕

 天之御中主大神 
〔アメノミナカヌシオオカミ〕

 高御産霊大神 
〔タカミムスヒオオカミ〕

 神御産霊大神 
〔カミムスヒオオカミ〕

 伊弉諾大神 
〔イサナキオオカミ〕

 伊弉冉大神 
〔イサナミオオカミ〕

 天照大御神 
〔アマテラスオオミカミ〕

 月夜見大神 
〔ツキヨミオオカミ〕

 建速素盞鳴大神
 〔タケハヤスサナルオオカミ〕







鬼門八神 〔キモンハッシン〕』

 素盞鳴大神 〔スサナルオオカミ〕

 大国主神 〔オオクニノカミ〕

 根裂神 〔ネサクノカミ〕

 豊受姫神 〔トヨウケヒメノカミ〕

 天照大神 〔アマテラスオオカミ〕

 月夜見神 〔ツキヨミノカミ〕

 埴山姫神 〔ハニヤマヒメノカミ〕

 岩裂神 〔イワサクノカミ〕





・熊野修験道奉斎神
熊野大権現たる12菩薩
熊野大権現たる12神































































これも高御位神社の御神体である
巨岩の一部です。

その岩の表面には穴があけられています。
これは「御水址」(みもひあと)
と呼ばれており、
古代、祭祀をとりおこなう人たちが神さま
にお供えする水を溜めるために刳り貫いた
ものであるといわれています。



 










秘書に記された大本神話の痕跡
と聖地の謎】 

九鬼文書の研究

三浦一郎=著




本書の原本は、戦時下の昭和15~6年頃、
著者・三浦一郎が、九鬼子爵家の邸内
奥深くに潜伏、『開かずの箱』として
一子相伝にて伝えられた秘密の古文献を
整理、太古史研究の同志に配付すべく
数十部を地下出版したものである。

その後、古文献そのものは、
昭和20年の空襲で焼失、
本書は『九鬼古文献』の写本をふくむ
唯一の貴重な資料となった。


あやべ九鬼大隅守と申すものは、
これは因縁のあることざぞよ。
この因縁が判りてきたら、どえらいことに
なるぞよ。 

出口なお








九鬼文書に記された2つの高御位山の謎】



『九鬼文献』には大本神話との不思議な
暗合構造が存在する。

九鬼家は、「熊野神社」の“神官”で、
中世には水軍として勇名を馳せたが、
徳川時代には
綾部に転封された。

その綾部で、明治期に大本教が発生するが、
開祖出口ナオのお筆先に
「九鬼大隅守の因縁がわかりてきたら
どえらいことになるぞよ」
という一節があり、
両者のあいだには複雑な共通の伝承ソース
が想定される。

『九鬼文献』では、
九鬼家の遠祖は「高御位山」なる処において
「鬼門八神・宇志採羅金神」を祭祀していたとし、皇祖神をスサノオとするが、

大本神話の中心神格は「艮の金神」と
スサノオ尊であることは周知の事実である。

さらに「高御位山」の所在についても、
出口王仁三郎が「坤の金神」の聖地である
として島開きを行った
播州神島の対岸の神山と、
王仁三郎が修行した丹波亀岡の高熊山
という二つの文脈が語られる。







九鬼文書の伝承世界】

 『九鬼文書は』、およそ3つの伝承が
複雑に絡まりあって成立したと推定される。




1.大中臣系の伝承 

かつて宮中の「天津神祇殿」に
天地言文』という太古の古記録が
奉斎されてきたが,
用命2年, カラー 蘇我氏によって同殿に
火が放たれたとき、
大中臣牟知麿がこれを持ちだし信州に
落ち延びた。
宇宙卵モトツワタラセにはじまる奇怪な
宇宙開闢伝承と神統譜を伝える。










2.スサノオ王朝の伝承 

皇祖神をスサノオとする出雲朝廷の
特異な伝承、
古代越国における十二の宝玉による
国魂鎮祭伝承などが語られる。

宇宙創世神「宇志採羅根真大神」
(鬼門八神)の高御位山における祭祀に
関する伝承をもふくむが、
この高御位山には二つの文脈の存在が確認
される。

ひとつは播州の「高御位山」で、
『霊界物語』では「坤の金神」が幽閉されていたとされる「神島」の対岸に位置する。

さらに、もうひとつの文脈では、
王仁三郎の初発の霊界体験の地である
亀岡の高熊山であり、
「九鬼大隅守との因縁がわかると
どえらいことになるぞよ」という
ナオのお筆先とあわせ、
大本神話との深秘なる暗号が注目される。










3.熊野修験系の伝承 

2にも関連するが、九鬼家は中世において
は修験の宗家として熊野地方に蟠踞していた。
修験道の起源をアマテラスとスサノオの
ウケヒに求め、
大物主神が吉備の熊山に出現し、
紀州熊野へ進駐したことなど特異な伝承を
伝える。






































丹波。。綾部。。


サンカ。。




高御位山

高御位神宮

鬼門大金神(宇志採羅根真大神)
〔キモンダイコンジン 
ウシトラコンジンオオカミ

鬼門八神 〔キモンハッシン〕





神山。。

高熊山。。




『九鬼文書』。。。。





































 
































エデン(Garden of Eden)から
一つの川が流れ出ていた。

園を潤し,そこで分かれて,
四つの川となっていた。

第一の川の名はピションで
ハビラ地方全域を巡っていた。

第二の川の名はギボンで
クシュ地方全域を巡っていた。

第三の川の名はチグリスで
アシュルの東の方を流れており,

第四の河はユーフラテスであった。

<『創世記』・Genesis2:10~14>






 その日,主はアブラハムと契約を結んで
言われた。
「あなたの子孫にこの土地を与える。
エジプトの川から大河ユーフラテスに至る
まで,カイン人,ケナズ人,カドモニ人,へテ人,
ぺリジ人,レファイム人,アモリ人,カナン人,
ギルガン人,エブス人の土地を与える」

<『創世記』・Genesis15:18>






























Χριστος


מָשִׁיחַ
ַ

















古代ヒッタイト




サンカ




ヘテ人。。










サンカ。。

山家。。。

梵語(サンスクリット語)のSangah
(僧伽・そうぎゃ)





『サンカ』
http://ameblo.jp/1994199820022006/entry-12238888005.html





『八』


カタカムナ』とは八鏡文字のことである。
八』はハッティでもありヒッタイトでも
ある。
三種の神器』の八咫鏡も八であるのは
なぜか。
古代日本では「八」は神に使う神聖な数字
とされ、他は七以下ですませた。

「八雲立つ 出雲八重垣つまごみに 

八重垣つくる その八重垣を」

の“八雲”と“八重垣”がそれである。
八百万の神、八重旗雲などもある。













טוריי




טורי














・アイヌ(アイノ)文字
・アジチ文字
・アソヤマ文字
・アナイチ文字
・アヒル文字
・アヒル草文字
・阿波文字
・イスキリス文字
・出雲岩窟文字
・伊代(秀真~ホツマ)文字
・イムベ文字
・カズガ文字
・カタカムナ(カミツ)文字
・越文字
・サンカ文字
・モリツネ文字
・惟足(コレタリ)文字
・タネマキ文字
・桃木文字
・対馬文字
・・・
























おちつくひととき。ひらめき。治療する。言語能力の高まり。真実がよく見える。















































九鬼文書』

くかみもんじょ』と読みます。
ご存じのように綾部九鬼家に伝わるもの
であり、古史のみでなく、
たいへん広い範囲の内容を含んでいます。

超古代史の中では、信憑性の比較的高そう
な文書のひとつです。
一部古代文字の春日文字で書かれた部分が
あるようです。
伝説では、天児屋根命が天孫降臨の頃
(180万年前)に書いたものを奈良時代に
藤原不比等が書き直したといわれます。

綾部ということから、
大本教の出口王仁三郎に大きな影響を与えたといわれています。


竹内文書』・『宮下文書』・上記ととも
に、神武天皇以前のいわゆる「ウガヤ朝」
の存在を書いています。











竹内文書』

武烈天皇の命により“平群真鳥”が、
当時存在した古文書を当時の現代の文字に
直したものである、とされています。
実際にこの文書を世に出したのは
天津宮の“竹内巨麿”で、明治政府の天津教
弾圧で出版ができないまま本体が
太平洋戦争の空襲で焼けてしまいました。

現在は天津教の当時の信者が部分的に
書き写していた断片の寄せ集めでしか
見ることができません。

創造神・元無極躰主王大御神以来の歴史を
記述。天津教にとっては、今でもたいへん
重要な文書です。











宮下文書』

富士古文書』ともいいます。
孝霊天皇の時代に日本に渡来した徐福が
富士山大神宮」の神官から見せられた
古文書をもとに漢文で書いたものを
天智天皇10年に“中臣藤原物部麻呂”という
人が書き直したとされています。

富士山の神であり皇室の祖先神でもある
木花咲耶姫命が、
富士の火口に飛び込んでこの山の守護神と
なったくだりの記述は有名。
実際、木花咲耶姫命が
富士山の神とみなされるようになったのは
近世からですのでこの文書も江戸時代初期
より以前の時代までは遡りません。

なお“徐福”というのは
中国の秦の始皇帝(在位BC221-210)の
命により東方の仙人の島へ不老不死の薬を
探しに行ったといわれる人で、
日本では徐福は日本に来たのではないか
という説が根強くあります。











上記』

うえつふみ』と読みます。
鎌倉時代の初期に豊後国の“大友義能”
が編纂したとされています。
比較的歴史家系の研究者の多い文書です。

元々は豊国文字と呼ばれる古文字で
書かれていたようです。










物部文書』

秋田の「唐松神社」に伝わる古文書です。
饒速日命”が鳥海山に降臨してから7世紀
の物部氏の滅亡までの記述があります。
物部文字(アヒルクサモジ)にも言及されて
いるようです。











但馬故事記』

平安初期の嵯峨天皇の命により編集が始まり、
平安中期の円融天皇の時代に完成した
但馬国司文書』の一部とされ、
明治時代に兵庫県の「小田井県神社」
の“大石繁正”が発表しました。
兵庫県地方の『饒速日命伝承』をまとめた
ものではないかともいわれています。











甲斐古蹟考』

山梨県の錦村の旧家に伝わっていた文書。
手力雄神”との関連も指摘される、
佐久大明神の伝承』が書かれています。
大正時代に“須田宇十”が整理編集して出版
しました。










春日文書』

この文書は古代の有力氏族のひとつ
春日一族に伝わっていたとされる文書で
昭和に入ってからも「見た」という報告が
あるが、実物はまだ世に出ていない。











秀真伝』

ホツマツタエ』と読みます。
ホツマ文字と呼ばれる独特の古文字で
書かれた五七調の美しい文書でファンも多い。
景行天皇の時代に“意富多多泥古”こと
三輪季聡”が撰修したとされています。

江戸時代にも非常に注目されていた文書
ですが、全編が世に出たのは戦後のことです。
五七調という形式が成立したのは
かなり新しい時代であることと
美しすぎることもあって
「間違いなく偽書」と判断する人が多い
のですが、チャネリング系の古書である
可能性もあると思われます。
恐らくは江戸時代初期の成立か?
また思想的に非常に興味深いものがあり、
日本の神について考えたり、太占の研究を
する際には、貴重な資料です。

性別について昔から両論のある天照大神を
男神とし、八人の妃神がいたとする記述は
有名。











三笠紀』

ミカサフミ』。
秀真伝の姉妹文書であり、
同じくホツマ文字で書かれている五七調の
文書です。
景行天皇の時代に“三笠臣”という人が
まとめたとされています。
実際、『秀真伝』の著者と近い関係の人が
執筆したものと思われます。










東日流外三郡誌』

つがるそとさんぐんし』と読みます。
寛政5年にまとめられたとされ、戦後
和田長八郎(秋田孝季)”が発表しました。
ほかの超古代史とは一線を画し、
東北地方の独特の神系統について記述され
ており、縄文文化の研究者は一度読んでおきたい文書でもあります。









本足跡















梅キラキラ








































































































הגביע הקדוש















Χριστος






מָשִׁיחַ