龍龍シャボン玉シャボン玉






























謡曲「和布刈めかり」奉納


於山口県下関市一の宮住吉
「長門一宮 住吉神社」

主催 能楽宮本施謡会

謡曲『和布刈』は、
今から六百年前にこの『和布刈神事』を
題材にした作品で、今も日本の伝統芸能で
あります、
能楽『和布刈』として公演されております。

関門海峡の歴史文化に思いを寄せ、
和布刈祭』の前日、厳かな気持ちで新年
を迎え、幸せを祈念して謡曲『和布刈』を奉納いたします。






能楽『和布刈』・・・あらすじ

長門の国、早鞆明神では、毎年十ニ月晦日
に和布刈の神事を執り行っていた。
この日の寅の刻になると龍神の守護によって
波が引き、穏やかになった海に神主が
入って水底の和布(食用の海草の総称)を
刈り神前に供える。

今日は、その神祭りの日、夕暮れ時神前に
捧げ物をする人影が見える。
神主が声をかけると、人影は海女と漁翁
であると答える。

漁翁は、昔、
彦炎出身尊が龍宮の豊玉姫と契をして
海と陸とは隔て無く交流していたが、
姫のお産の時、約束を破って尊は姫の姿を
覗いたため、
姫は子を捨てて龍宮にこもってしまい、
人間界と龍宮との交流は絶えてしまった。

しかし、旧正月の日は神慮に長門の国と
海の通い路も自由になり、海草も得ること
ができると語り、
二人は天女と龍神であるとあかし、
天女は雲に乗って去り、漁翁は波間に
姿を消してしまう。(仲入)

和布刈神事の時刻になると、
松風と合わせて空中に音楽が聞こえ、
妙なる香りが満ち、天女が現れて舞い、
やがて寅の刻になると沖から龍神が現れ、
海面に穴をあけ、夕潮を退け、
波は屏風を立てた様に左右に別れ海の道が
開けたので、
神主は松明を振り立てて鎌をもって海底に
下って和布(わかめ)を刈って帰ると、
間もなく潮が満ちてもとの荒海となり
龍神は龍宮へと帰って行った。





本足跡










謡曲『和布刈』と和布神事

和布刈神社」



 ここ和布刈神社では、
毎年十二月晦日寅の刻(午前四時)に
神官が海中に入って水底の若布(わかめ)
を刈り、神前に供える神事がある。

 今日はその当日なので、神職の者がその
用意をしていると、
漁翁(竜神)と海士女(天女)とが神前に
参り「海底の波風の荒い時でも、
和布刈の御神事の時には竜神が平坦な海路
をお作りなさるから出来るのである」
と神徳をたたえて立ち去った。

 やがて竜女が現れて舞い、沖から竜神も
現れて波を退け、海底は平穏になった。

 神主が海に入って若布を刈り終わると
波は元の如くになり、竜神は竜宮に飛んで
入る。

 神前へ御供えの後最も早い方法で朝廷へ
奉じられた。
史実に現れたのが元明天皇和銅三年ですので、
それ以前神社創建時より御供えとして
用うる為神事が行われていたと思われます。

          

謡曲史跡保存会








本足跡












門司の和布刈(めかり)神社





日に4度潮の流れの変わる関門海峡は、

ここ「早鞆の瀬戸」で最も狭隘となり、
最高時速は10ノットにもなるという。

白波が立ち騒ぐ奔流を見れば、航行の難しさが想像される。

凄まじい潮流に臨み、二位の尼は気丈にも
「波の底にも都の候ぞ」と言って
安徳帝とともに入水したのだ。


門司と下関は、県は違っても、
観光エリアとして一体なので、協力関係
にあるようだ。


ところで、「和布刈神社」は
日本最古の神社と言われるほど、その起源
は古い。

社伝によれば、神功皇后の三韓征伐の後、
仲哀天皇によって創建されたという。
旧正月元旦には、深更、
新ワカメを刈り取り、神前に捧げる。

和布刈神事』と呼ばれ、創建以来続く、
新年を祝う神秘的な予祝行事である。

謡曲『和布刈』もこの神事をテーマにして
いる。


壇ノ浦合戦前夜には、平家一党が境内に
結集し、安徳帝を囲んで酒宴がひらかれた
という。

「今ぞ知る 御裳裾川の御流れ 

波の底にも都ありとは」

二位の尼の辞世も、関門橋の下では、
夢としか思えない。









 














関門海峡


関門トンネル





もうそんな‼…関門海峡も‼。。

今では‼…歩いて行けます。。足跡!!

↓↓トンネル内は、こんな感じ‼。。シャボン玉












福岡県
ーーー
山口県













『壇ノ浦の戦い』
































おまけ。。笑



追記。。ニャン







平家蟹(へいけがに)と小平家(こべけ)

源平壇之浦の合戦』が行われた
壇之浦の海岸付近一帯でとれる
奇怪な蟹がいます。
蟹の甲羅に怒りにみちた顔のような模様が
あり、これは、壇之浦の戦いで戦死した
平家の武将の怨霊が乗り移ったもの
といわれ、
平家蟹(へいけがに)と呼ばれています。

昔は、平家蟹が網にかかるとたたりがある
と恐れられていたようで、
漁師は「赤間神宮」へ奉納したそうです。

また、『壇之浦の合戦』に敗れ入水した
平家の女官は美しい小鯛に化身したと
いわれており、
壇之浦の周辺で獲れる小鯛は
小平家(こべけ)と呼ばれています。
























“海御前”。。


今から八百年ほど前、栄華を極めた平家と、
それを滅ぼそうとする源氏の戦いが
世に知られる『壇の浦の海戦』。

この戦いで勇名を留めたのが平家の武将
能登守の教経だが、
その奥方(母親?)海御前は大変な女丈夫で
あったそうな。
海御前は、幼い安徳天皇の後を追って
海に沈んでいった。

数日後、海御前のなきがらが
現在の門司港大積の浜辺に流れついた。
死顔はりんとした中にも微笑を浮かべ、
まるで生きているようなさわやかな
お顔だったそうな。
いつの頃からか、この海御前がカッパの
総帥として支配するようになったと言わる。



この海御前、元が平家の者だけあって
少し変わった性質を持っている。

身分の為か、河童の中でも親分格な海御前
は、5月5日になると
「お前たち、どこへでも遊びに行っていいよ」
と河童たちを自由にするのだが、
必ず約束事として
「ただし、蕎麦の花が咲く前には帰って
おいで」と言う。

理由はシンプルで、蕎麦の花の色が
源氏の旗印のベースとなる白色だからである
(平氏は赤)。
源氏色は見たくもなかったのだろう。


また、たまに人を襲うこともあったようだが、
襲うのは必ず源氏方の人間だけだったと言う。

さすが平氏の女、徹底している。



因みに、『壇ノ浦の戦い』で散った者は、

女は…海御前の手下の“河童”に、
武将達は…“平家蟹(へいけがに)”
へと化けたのだそうだ。




本足跡