龍龍シャボン玉シャボン玉














































































日本西門鎮守八幡宮御由緒記』


御祭神】
 八幡大神 神功皇后




御祭日】 
二月三日 『節分祭』、
七月二十九日 『夏越祭』、
十月十五日  『例大祭』



今から約千二百年のむかし
貞観元年行教和尚が宇佐から京都の石清水へ
御分霊を勧請される途次
関門の風光絶佳なる当地に
日本西門の守り神として創建せられた
鎮守八幡宮である。

それより鎌倉幕府を始め南北朝室町時代
から江戸時代まで大内毛利両氏など
多くの戦国大名の尊崇を集めた。

昭和二十年七月一日大東亜大戦の禍を蒙り
社殿は全焼したが養治小学校奉安殿を移築して仮本殿とし御神体安泰を期すを得たる
も氏子の熱誠によって昭和二十九・同三十七年の両度にわたる戦災復興造営事業を
中心に本殿拝殿などめでたく竣工、
宇佐本宮の例に倣い朱色も鮮かに完成された。

称来二十年毎の式年大祭を行い社殿整備
さらに神楽の創作もおこなわれ阿弥陀芽町
・みもすそ川町・壇の浦町・本町・宮田町
・上宮田町など十五ヶ町の氏神として
御神徳をあらわされ日本国の西門の守護神
として関門海峡に臨み神意愈々発揚されて
いるものである。


平成十六年甲申十月 
御鎮座壱干百四十五年記念
宮司謹誌



本足跡














































「水天供養塔」

























「七盛宮」














黄桜に 及ぼす神の 光かな











神もあと たれて千歳に 月かなし











「芳一堂」





















『耳なし芳一』



『「耳なし芳一」伝説』

 芳一は阿弥陀寺(後出)の盲目の僧。
琵琶の達人。
中でも『平家物語』の弾き語りは見事で、
幼い頃から師匠をしのぐ腕前があったと
されています。

 ある日、芳一は深夜外出を繰り返し、
不信に感じた僧たちが芳一の行先を探した
ところ、「七盛塚」(平家一門の墓のこと。
後出)の前で平家物語を奏でていたところ
を発見されます。

住職は怨霊を取り除くため、芳一の身体中
に般若心経を書き綴りました。
ところが芳一の両耳に経文が書かれていなかったため、怨霊がそれに気付き、
その両耳をちぎって立ち去りました。

以降は怨霊が現れることはなくなりました
が、いつからとなく「耳なし芳一」と
いわれるようになったものです。


本足跡






「芳一堂」

1600年前後に建てられたといわれています。
源平壇之浦の合戦』が1185年ですから、
その間 400年近くもの歳月が流れています。

一説によれば、壇之浦の合戦で平家が滅亡
して以来ずっと、関門海峡では海難事故が
頻発し、「平家の怨霊が騒ぎ出した」と
恐れられていました。
そんな中、下関近辺に散在していた墓標を
この地に集約して供養するために建てられたともいわれています。

 芳一は、怨霊に取り付かれ、このあたりで『平家物語』を弾き語っていたのでしょうか?











『耳なし芳一まつり』


 毎年7月15日に赤間神宮で行われる
イベントで、「耳なし芳一」を供養する
おまつりです。
「芳一堂」や「七盛塚」などを前に、
琵琶演奏、墓前祭、屋外劇やミニコンサート等が行われています。





本足跡






















平家一門のお墓「七盛塚」














高浜虚子の歌碑』。

七盛の 墓包み降る椎の露 」














「七盛塚」
http://ameblo.jp/1994199820022006/entry-12238006942.html

































一方で赤間神宮」は、貞観元年(859)
大安寺の僧行教が開山した「阿弥陀寺」
というお寺が前身です。

 寿永4年(1185)3月24日、
源平壇之浦の合戦』において入水崩御
された幼帝安徳天皇のご尊体を
紅石山のふもとに埋葬し、
その後、建久2年(1191)閏12月14日、
後鳥羽天皇が長門国に勅して御陵上に
御影堂を建立し、安徳帝の菩提を弔った
とされています。

 明治維新の変革によって起こった廃仏毀釈
の風潮にともない、明治3年(1870)5月、
阿弥陀寺を廃して御影堂が「天皇社」と
改称されます。

明治8年に「赤間宮」と改称、
昭和15年官幣大社となり「赤間神宮」と
なりました。

 琵琶法師「耳なし芳一」は、赤間神宮の
前身、「阿弥陀寺」の僧侶だったのです。














紅石山…。。。





















































壇ノ浦…。。。














太鼓楼記

祭神御神徳の第一たる水天神鎮の恩頼を
蒙奉る関門港湾建設株式会社取締役社長
清原梅義氏は赤間神宮崇敬会会長として
夙に敬神の念に篤く時恰も下関市制百周年
を迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に
在りと大太鼓楼の造立を発願平成元年秋を
期して着工し同2年1月27日旧元旦竣成す
蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民
奉祝記念事業の嚆矢なるをもってここに
除幕奉献せらる打鳴らす鼓音鼕鼕と
関門海峡を渡り国家鎮護世界平和の響き
四海に満ち水天皇の神威愈々光被せむ
此処に其由来を記すと云爾 

 祈りつつ打つ大太鼓神なから

 百千のねかひみそなはすらむ

(現地案内板)












『「赤間」の由来 』


赤間(あかま)の語源は、
紅石山(赤間神宮の裏山)に大きな馬の形
をした紅色の岩石があったことから、
また、船の中にたまる水を「アカ」という
ことからなど諸説がありますが、
平成4年に発刊された
『下関市史・民俗編』に、
「赤間関の地名の由来」という項があり、
「赤間」の由来が記述されています。

この項目は、監修者で全国的に著名な
国分直一氏が記述したもので、
大要は次のとおりです。


旧暦一月一日、早朝の最干潮のとき、
関門海峡の「早鞆瀬戸」で、
下関市の「住吉神社」と
門司区の「和布刈神社」が、両岸で相対し
『和布刈神事』を行います。

この神事は、太古から行われているもので、
春に先立ちもえ出るワカメを刈り採って
神前に供え、民衆も食べることによって
神と一体になるという考え方です。
(海中にあって繁茂するワカメには、
神が宿ると伝えられています)

関門地域で海とかかわって暮らす人々は、
「ワ」を「ア」と発音し、
「ワカメ」を「アカメ」と発音するところ
から、
「アカメ」が「アカマ」になったと
するものです。

「メ」が「マ」となったのは、
「目」の古い形が、「マ」であったから
としています。

現在でも、壇之浦漁業協同組合の皆さんは、
この『和布刈神事』が終わるまで
早鞆瀬戸のワカメを刈り採らないという
風習を固く守りつづけています。

これも神とのかかわりを感じさせるものです。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より


本足跡