龍龍シャボン玉シャボン玉































水天門』

神門は竜宮城を模した竜宮造の楼門。
「水天」の名称は安徳天皇が
水天宮の祭神”とされることによる。





赤間神宮(あかまじんぐう)」


所在地】 山口県下関市阿弥陀寺町4-1

主祭神】 安徳天皇

社格等】 官幣大社・別表神社

創建】 貞観2年(859年)


5月2日 - 4日『先帝祭』

10月7日『例大祭』




さぁ‼…今回の最大ミッション‼のひとつ!!


「赤間神宮」。。へ‼。。クロネコちゃん↑キラキラ













「赤間神宮」





寿永4年(1185年)3月、
平家は滅亡の時を迎えます。

安徳天皇は母が平清盛の娘・徳子
(建礼門院)であったため、
源平合戦で平氏が源氏に敗戦を重ねると、
平家一門と一緒に都落ちすることに。

ここ下関の『壇ノ浦の戦い』で初めは優勢
であった平氏も、潮の流れが変わると
次第に劣勢になり、敗北が決定的となると
安徳天皇の祖母である二位尼(平清盛の妻)
が、安徳天皇を抱きかかえ入水。
わずか8歳で生涯を終えます。

※京では寿永3年に元号を元歴に変えていましたが、平家は滅亡まで寿永を使用していました。


建久2年(1191年)、壇ノ浦を望むこの地に、
時の後鳥羽天皇の命により御影堂が建立
されます。
当初は「阿弥陀寺」と称し、安徳天皇の霊
を慰めるお寺で、勅願寺でもありました。

明治維新後の神仏分離令により阿弥陀寺を
廃し、新たに天皇社を設立、「赤間神宮」
となります。

最初から安徳天皇を神として祀ったわけではなく、お寺を神宮へと転向させているからでしょうか、パワースポットである
この神宮には何か通常の神社とは異なる気
が漂っています。




本足跡


























亀。。亀。。ラヴねこやん笑















竜宮の門 南風を 奉る
















十六夜や 

海の底より 平家琵琶






陸の龍宮。。シャボン玉キラキラ






















竜宮造りと「水天門」の名前の由来』






今ぞしる みもすそ川の おんながれ 

波の下にも 都ありとは 


これは二位尼が入水する際に詠んだ
と言われる歌で、
「海の底にも都はあります」という意味。

この歌に因み、太平洋戦争で焼失した
赤間神宮」を再建する際に「竜宮造り」
という竜宮城をイメージした造営となりました。
関門海峡の脇に建つ華やかな神宮。
今は安徳天皇や平家一門はここを都として
いるのでしょうか。
この神宮の造りも、他の神社と異なる何か
を感じる要因なのかも知れません。



「水天門」といいますが、
この名前は安徳天皇が安産で有名な
「水天宮」に祀られていて、水天大神と
称せられたことに由来します。

建礼門院に仕えていた、
按察使(あぜち)局・伊勢は壇ノ浦の戦い後、
平氏の菩提を弔うため九州の筑後川辺りまで逃れ、
祠を建て安徳天皇を始め平家一門の霊を
祀りました。

伊勢は尼となりますが、加持祈祷の霊験が
あらたかで人々の尊崇を集め、
やがて水天宮の起源となります。
そのため水天宮には安徳天皇や二位尼・
建礼門院が祀られているのでした。




本足跡







「みなそこに しづみ給ひし 遠つ祖を

しとぞ思ふ  書見るたびに 」

御祭神安徳天皇は水天皇大神と称へ奉り
徳富蘇峯翁は之が奉建に際して

「玉体を水底に鎮め給ひしも、
御霊は天上にお在しまさば、此の神門を
『水天門』と申し奉る所以なり
とせさる。


蓋しその結構壮麗雄大にして古今無比、
他に類例なく将に 天下第一の観たり












ラヴねこやんキラキラキラキラキラキラウフフ♪♪

誰もいないぜっ‼…笑キラキラキラキラ↑






























安徳天皇神徳記


 御祭神は第八十一代安徳天皇様です。
今から八一三年前、源平壇の浦の戦い
により御祖母二位の尼
(平清盛公夫人時子の方)に抱かれ
関門海峡の海底深く入水されました。
時に御年わずかに八歳。
 この時、二位の尼の詠まれたというお歌
が長門本平家物語などに伝えられております。


今ぞ知る みもすそ川の 御流れ 

波の下にも 都ありとは

 すなわち、安徳天皇は龍宮に潜幸された
との信仰の披瀝でありましょう。
それと申しますのも、皇室の御先祖と
龍宮世界とは深いつながりがございます。

初代神武天皇の父君
(ウガヤフキアヘズノミコト)も
祖父君(ヒコホホデミノミコト)も
龍宮界の姫君を妃とされているからです。

 そもそも龍宮界は、
わたつみの神の都で、一切の生命体の故郷
であります。

海は生みに通じ、海原は生腹(うむはら)
に通ずるというのもその意味です。

この太陽系世界に住むものは、
いずれも太陽(光・火徳)による霊化作用
とともに、地球(海原・水徳)による
体化作用を受けて生命体が生成されている
わけです。
従って神事においては火と水の清浄を
最も重視します。

 安徳天皇の龍宮潜幸は、そうした意味で
由来するところ実に深甚なる意図が秘せられていると申せましょう。

 天皇陛下の行わせられる神事の中でも
由来最も古いものの一つは、
大祓(おおはらえ)といわれ、
六月と十二月の二度国土国民の罪穢れを
清め祓われますが、その罪穢れは最終的に
川から海に流されます。

 すなわち、安徳天皇は当時頽廃と争乱の
極にあった国土国民を清め祓い、
国の生命の再生をはかるため尊い御身を
捧げて龍宮水徳を体現し、国家未曾有の
大祓をなされたものと拝されるのです。

幼帝であられたことがそのことを如実に
示しております。
なぜなら古来重要な神事には必ず清浄な
童児が奉仕せねばならないからです。
すべては歴史上偶然の事件として推移した
ように見えますが、裏から見れば
人知を越えた神意の顕現にほかならなかったことが拝されます。

かように神々のおはからいがその跡を
とどめずにおのずから進行することを
古来「神ながら」と申しておりまして、
これが、神々の霊筆による日本歴史の
操り方の本質でもあります。

 かくて、龍宮界の生命浄化・生命のお力
を発揚されている安徳天皇の偉大な御神徳
を称えて、「水天皇大神」と申し上げる
のであります。

 本日の御神縁を機に
いよいよ水天皇様の威徳を仰ぎましょう。




本足跡

























水天門」。。龍シャボン玉シャボン玉

神門は竜宮城を模した竜宮造の楼門。
「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる。





赤間神宮」

御祭神】 
第八十一代安徳天皇

御祭日】 
五月三日先帝祭』 
十月七日『例大祭』

寿永4年(1185)年3月24日
源平壇浦合戦に入水せられた御8歳になる
御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる
赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる 

昭和20年7月2日戦災に全焼せるも
同40年4月24日御復興を完成し、
同50年10月7日寛仁親王殿下の台臨を仰いで
御創立100年祭を斎行 
同60年5月2日勅使御参行のもと
高松宮同妃両殿下の台臨を仰ぎ
御祭神800年式年大祭の盛儀を厳修せり




本足跡








水天門記』

惟時昭和32年11月7日大洋漁業副社長
中部利三郎氏は率先多額の御寄進に加えて
曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市
政70周年大博覧会開催の秋 
吾国未曽有の御由緒と関門の此の風光明媚
とに鑑み 水天文の建立こそ今日より急務
なるはなしと 
此処に昭憲皇太后より賜はりし御歌の
「今も猶袖こそぬるれわたつ海の
龍のみやこのみゆきおもへは」 
に因みて龍宮造となし御造営し奉れは
昭和33年4月7日畏くも 
昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の
御通初め御参拝を賜はり赤間神宮 
並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
「みなそこにしつみたまひし遠つ祖を
かなしとそ思ふ書見るたひに」 
の御製一首をも下し賜ひし
空前の行幸啓に輝く水天門是なり






本足跡








安徳天皇。。


安徳天皇阿弥陀寺陵」。。


この日にも。。行きました。。キラキラ



到着したその日。。にも、
まずは。。ここへ御参り。。キラキラ

そして。。
この日。。も(2回目の御参りキラキラ)

下関に滞在中に。。

計3回。。お参りすることになりましたキラキラ











【安徳天皇】

平安時代末期、時の最高権力者、平清盛が、
その子女である徳子(後の建礼門院)を
高倉天皇の中宮(妻)とし、
二人の間に誕生したのが安徳天皇です。

父である高倉天皇は、
父が後白河天皇、
母が平時忠の妹である滋子
(後の建春門院)です。

治承二年(1178年)に生まれ、
治承四年(1180年)わずか二歳で
天皇に即位しましたが、
政治の実権は祖父である清盛が握っていた。


治承五年(1181年)清盛の死去により、
栄華を極めた平家は衰亡の一途をたどり、
寿永2年(1183年)京に侵攻した木曾義仲
の軍勢と入れ替わり、
天皇も平家団結の象徴として平家一門と
ともに都を落ちました。

その後、一の谷、屋島と敗戦を重ねた平家
は文治元年(1185)三月二十四日
壇ノ浦の合戦』で源義経率いる源氏の軍勢に破れ、この時、安徳天皇は御歳八歳で
二位の尼(平時子)に抱かれ御入水された
という。

壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は
現場付近では発見できなかったが、
赤間関(下関)に建久2年(1191年)、
勅命により「御影堂」が建立され、
建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた。
後に源頼朝の命により「阿弥陀寺」に
御影堂(安徳天皇社)が建てられた。

明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、
神社となって「天皇社」と改称した。
また、歴代天皇陵の治定の終了後、
安徳天皇陵は多くの伝承地の中から
この安徳天皇社の境内が明治22年
(1889年)7月25日、「擬陵」として
公式に治定された。

天皇社は明治8年(1875年)10月7日、
赤間宮」に改称し、官幣中社に列格した。
昭和15年(1940年)8月1日、
官幣大社に昇格し「赤間神宮」に改称した。


昭和六十年、源平八百年を期に
全日本平家会』が設立され、
元官幣大社赤間神宮より当家に御分霊が
親授され、邸内社を建立し
「能登安徳天皇社」の称号が授与されました。

現在、二十四代当主が総裁として安泰に
奉持しています。



境内には、「平家一門の墓」(七盛塚)
- 壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)がある。





本足跡















『平家の一杯水』




















平家の一杯水』
 
 寿永4年(1185)3月24日、
源義経を総大将とする源氏と
平知盛が率いる平家は、
最後の一戦を壇ノ浦でくりひろげました。

開戦当初は、東向きの流れに乗った平家が
有利に戦っていました。
やがて、潮の流れが西向きに変わり始める
と、源氏方は反撃を始めました。

潮流に乗った源氏は、平家の船を操る水夫
(かこ)と舵取り(かじとり)を弓矢で
狙いました。
こぎ手を失った平家の船は潮の流れに引き込まれ、完全に自由を失いました。
そうなると、勝敗はもうはっきりしています。
 平家方のある者は捕らえられ、または
海に沈み、または傷を受けてようやく岸に
たどり着いた者もありました。
そのうちの一人の平家の武将は、
全身にひどい傷を受け海に落ちましたが、
命がけで泳ぎ岸にたどり着きました。

その武将は傷の痛みと疲れで喉がカラカラ
に渇ききっていました。
あたりを見渡すとわずかな水たまりを
見つけたので、武将は痛む体を引きずって、
水たまりに近づき、その水を手のひらに
すくい喉をうるおしました。
その水の美味しいこと、武将にとっては
命の水とも思えるものでした。

あまりの美味しさに夢中になって二度目を
口にしたところ、大きくむせて吐き出して
しまいました。
不思議なことに真水は塩水に変わっていた、
といわれています。


本足跡




















早鞆の瀬戸の浦波打ち寄せる…

この前田に『平家の一杯水』と称えられる