平知盛

知盛は父である清盛の軍事面での才能を
受け継ぎ、清盛も期待をかけた武将でした。
清盛死後 家督を継いだ兄 宗盛を支え
没落する平氏の勢力回復に全力を傾けます。


しかし、時代は源氏を選び
一ノ谷の戦いの敗戦で息子 知章が身代わり
となって討死し、
起死回生をかけた壇ノ浦の戦いでは
唐船の策略を考案しますが、
裏切った阿波重能の通報により源氏方に
筒抜けとなってしまいます。


潮の流れが変り源氏方が優勢になると、
西国の武将たちが次々と平氏を見限り
源氏方に投降します。
敗戦を悟った知盛は
「見るべき程の事は見つ」と言い残し
碇を抱いて海中に身を投じ34歳の生涯を
終えます。


































赤間神宮所蔵 平知盛像



時代


生誕
仁平2年(1152年

死没

享年34



別名
新中納言


墓所



官位


主君


氏族



父母
父:平清盛、母:平時子


兄弟
重盛基盛宗盛知盛徳子盛子
重衡完子知度清房御子姫君

他妻
正室:治部卿局







平 知盛(たいら の とももり)は、
平安時代末期の平家一門の武将
平清盛の四男。
母は継室平時子で、時子の子としては
次男となる。
同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。
世に新中納言と称された。















平知盛”。。は平清盛の四男で、
兄宗盛のすぐ下の弟にあたる。
知盛は歌舞伎の『碇知盛』でも知られるように、勇猛果敢な人物と知られる。

また、兄宗盛とも比較され、その有能ぶり
がよく知られている。
母は二位の尼時子で、小さいうちから
平家の御曹司として、何不自由なく育ち、
官位も上昇、新中納言となり、
新中納言知盛といわれた。

しかし、その栄華も永くは続かなかった。
以仁王の令旨によって、源頼政らが謀反。
知盛は弟の重衡とともに、これを鎮圧し、
近江方面の鎮圧に乗り出した。
病みがちな知盛に代わり、重衡が一時は
尾張まで支配化に置いたが、
高倉上皇が死に、平家の総帥清盛が死ぬと、
平家は都を維持することができず、
安徳天皇をはじめとして、一門で都落ち
をすることとなる。

その後、西国に落ち、屋島に落ち着いた
平家は反撃を開始。
かつての平家の都福原に舞い戻り、一の谷
に城郭を築き、源氏との決戦に備えた。

一の谷の合戦』で、平知盛は
生田の森の大将軍であった。
三宮神社あたりで、河原兄弟が突撃し、
合戦の火蓋が切って落とされた。
生田の森方面は、源範頼率いる源氏の本軍
で、戦いは熾烈を極めたが、鵯越の奇襲
により、平家は海上に逃れることとなる。

平知盛も息子の知章と重臣とともに
三騎で落ち延びていたが、源氏の軍勢に
見つかり、交戦となる。
息子の知章は父に向かって、
「父は平家にとって必要な人物だから」
といって身代わりになって討ち死にし、
後を追うように重臣も討ち死にする。
このおかげで、何とか落ち延びることができた知盛は船にのるが、馬を乗せる余地が
なく、逃がすこととなる。
この時、阿波民部があの馬はおそらく
敵の馬になるのだから、殺してしまおうというが、知盛はいま自分があるのも
あの馬のおかげだからといって取り合わず、
馬は命を救われ、源氏に捕われた。

平家琵琶『濱戦』では平常のこの馬への
知盛の思い入れや、父の代わりに討ち死に
した知章のことを悲しむ平家一門の姿、
自分の息子清宗と重ね合わせる宗盛の姿が
描かれていて、涙を誘う。

知盛はこのことからわかるように、
とても心優しい、正直な武将である。
息子が討たれた時、そんな状況でも
自分の命が惜しく思うと真情を吐露している。

一の谷の敗戦後、知盛は鬼のように、戦う。
平家の西の陣地を確保のため、彦島に
一大防御基地を造り、平家最期の時まで、
戦い尽くす。
知盛の必死な働きもむなしく、屋島は
義経に奇襲され、平家は知盛の彦島に
落ちてくる。
平家はここの近くの潮流の早い壇ノ浦で、
源氏と雌雄を決することを決め、
最後の合戦に赴く。

平家の作戦は当初は成功し、優勢だったが、
謀反が相次ぎ、知盛は安徳天皇の乗っている船に行き、死に支度をするようにいうが、
おびえる女房たちに冗談がいえるほどで、
知盛が死を覚悟し、その死を従容と受け入れることを決めていたことがよくわかる。

また、手当たり次第敵を討ち取っている
能登殿教経に、無益な殺生をしないように
注意までしている。
武士は美しく死にたいというが知盛は
その典型例で、知盛もそうありたいと
願っていたのだろう。
その知盛にも最期の時がきた。

多くの一門や安徳帝も入水し、
「みるべきものはみつ」といった知盛は
浮かんできて源氏の辱めを受けまいとして、
船から入水した。 

平知盛は、息子に先立たれ、一門も死に、
安徳天皇までが入水したのを目の当たりにした。
見なければならないものはすべてみた
といって死んだ知盛。
平家の繁栄から滅亡まですべてを見てきた
知盛、その最期の言葉は言葉以上の重みが
あり、仁将知盛の死は平家の死であったの
かもしれない。





























知盛‼…↑キラキラ













エピソード 
『平知盛-
日本史上で唯一、ヒロイックファンタジー
の主人公になれる人物-』



「日本史上の人物で、
もし西洋のヒロイックファンタジーの
主人公になれる者がいるとするならば、
平知盛 ただ一人」
と言われた。

 素晴らしい才能があり、そのことを自覚
もしている。
しかし、時は平家に味方せず、一族が
滅亡の運命にあることにも気付いている。
それでも全身全霊をかけて戦い、
最後は運命を受け入れて、潔く散っていく。

入水にあたって彼が穏やかに言う、
「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」

という言葉は、彼の生きざまそのもののようで、荘厳な美しささえ覚える。

 『平家物語』のベースには、
歴史を動かす大きな力の前には、人では
どうにもならないものがあるという、
無常観が流れているとよく言われる。
そうして見れば、平知盛こそが
『平家物語』とまで思えてくる。

 幼い安徳天皇の「どこへ行くの」との
問いに、二位の尼(清盛の妻時子)が
「波の下にも都のさぶろうぞ」と答える。
天皇は東に向かって小さな手を合わせ、
西に向かい念仏を唱える。
そして彼女が8歳の天皇を抱いて海へ飛び込む場面は、平家の亡霊たちの涙もさそう
(『耳なし芳一』を読んでね)。

 引き上げられてしまった建礼門院
(清盛の娘徳子。安徳天皇の母)が
ひっそりと暮らしている所を、後白河法皇
がたずねる『平家』のラストシーン、
「大原御幸」では、建礼門院が
「人は死ねば六道を巡るというが、
私は生きながらにして六道を全て見た」
という。



『船弁慶』(舟弁慶)は。
もとは能の脚本(謡曲)だが、現在では
河竹黙阿弥作で明治18(1885)年に、
9代目市川団十郎によって初演された
歌舞伎の方が有名だろうか。
(団菊左時代。「明治文化2」参照)
「新歌舞伎十八番」の一つにもなっている。
粗筋を本当に雑と言うと
義経は、兄頼朝に疎まれ、都を去って西国
に落ちようとする。
追ってきた静御前と涙の別れをし、
船出する。
ところがにわかに海が荒れ、
平知盛の怨霊が襲いかかる。
しかし、弁慶の数珠を押しもんでの調伏に、
怨霊は次第に遠ざかって、一行は難を逃れる。


 知盛は、冷静で明晰なその知謀とともに、
極めて情に厚い人物だった。

平家のことを思えば、あの傲慢で無能で
横暴で、反平家感情の35%ぐらいは
一人で稼いだんじゃないかとさえ思え、
しかも壇の浦では、総大将のくせに
自ら入水することもせず、
見かねた家臣に海に突き落とされたら、
「水練の上手(水泳の達人)」で浮かんで
しまって、源氏に引き上げられ、
捕まったら命乞いをして顰蹙(ひんしゅく)
を買った挙げ句、
鎌倉で首をはねられた兄“平宗盛”を、
早い時期にさっさと毒殺でもして、自分が
平家を率いていたら、少しは変わった展開になっていたのかもしれない。
(言い過ぎか)
(…コラコラ‼…苦笑)


 しかし、それが出来ないのが、
知盛という男であった。
33年間の生涯を、曇りのない生き方で
駆け抜けた。
だからこそ、「日本史上で唯一、
ヒロイックファンタジーの主人公になれる
人物」なのだ。






本足跡




平知盛‼。。!!キラキラ


たしかに‼…この男は‼すごい!!





清盛‼が、亡くなり。。。

重盛‼も…もちろん、いなく…。。。



その中‼…

この『平家一門』の総大将‼となったのが⁉

宗盛‼…。。。をいをい…


平家棟梁‼…宗盛‼。。。。・・・・






もし。。。

この知盛‼がいなければ⁉…

平家の没落は。。もっと早かったであろう

(自滅‼…していってたかも⁉をいをい…)



平知盛”。。は平清盛の四男で、
兄“宗盛”のすぐ下の弟にあたる。

知盛は歌舞伎の『碇知盛』でも知られるように、勇猛果敢な人物と知られる。

また、兄宗盛とも比較され、
その有能ぶりがよく知られている。




この知盛‼の存在は‼…大きかった!!キラキラ




知盛‼。。と、


この男‼…の存在も↑キラキラ






平家最強‼教経‼↑キラキラキラキラ



















平 知盛”‼。。








平知盛


1 経歴

平清盛の四男、母は二位尼時子、
1152年生まれ。
官位、 従三位、新中納言。

壇ノ浦の合戦の大将。
子に知章、知忠、知宗、女子がいるが、
知章は一の谷の合戦で父をかばって討ち死
している。

1183年、平家西走の時、
京に居る源氏の人達を斬ってから行く事に
なり、源氏の人達が集められた。
この時、知盛は
「今ここで百人千人斬ったとてどうなる、
故郷では妻子らが嘆き悲しむだろう」と
云ったので統領の宗盛は皆を解放した。


この時宇都宮朝綱らは涙を流して喜び平家
に従軍するとまで云った。
また、壇ノ浦の戦いの時、教経が源氏の兵
を次々と弓矢で射殺しているのを見て
「罪深いことをするな、大した兵でもない
のに」と云っている。

この様に、知盛は心やさしい人だったので
あろう。
平維盛は、平景清に知盛を救出する様に
命じ、景清は知盛とその子の知宗を連れて
維盛の居る高野山に戻る。
平家物語』では鎧二領を着て海に飛び込んだとしているが、
これは知盛が知宗と抱き合って飛び込んだ
のが、源氏の目には鎧二領と見えたので
あろう。
下関には錨を担いで海に飛び込む知盛の像
がある。




















2 知盛山、久昌寺

維盛に救出された知盛は維盛や重景や
文覚上人らと共に護摩壇山で護摩をたき、
平家の行く末を占う。(維盛由緒記、)
その後伊勢へ来て久昌寺を開く。
久昌寺は、伊勢市矢持町にある。

1190年開山。久昌聞法尼が開祖。
御本尊は阿弥陀如来であり、
その像は1121年、幸賢の作で国宝と
なっている。









(久昌寺)左
(平知盛とその妻の墓) 右




境内には知盛やその子孫の墓がある。
また昭和26年に本堂を改修した時、
数千個の写経石や短刀が出土した。








(写経石の一部と短刀)左
(阿弥陀如来像)右








3 家系図  

家系図は次のようになっている。

平知盛―武盛―知則―維弘―知弘―知次―
知定―深定―知行―知員― 知時―知康―知成
―知郷―知利―浄則―知純―知一―知明―
知重―知信― 常盛―盛久―知忠―知足―知方
―盛信―盛長―盛邦―知之―知徳

以上の様になっており姓はすべて平姓です
が、俗姓は二代目が前山、
三代目が覆盆子(いちご)、
四代目から六代目までは黒田、
七代から十代まで山岡、
十一代以降は中津となっている。

他に中瀬姓もあり分家であろう。
この前山とか覆盆子、山岡というのは
近辺の地名であり、最初に隠れ住んだ地名
を姓としたのであろう。
家紋は丸に揚羽蝶である。









4 一人口伝

伊勢には代々伝えられてきた伝承がある。

口伝者、角谷隆平氏
(知盛と共に脱出し能登へ逃れた
平清邦の子孫、伊勢郷土史草第三十九号より)


①壇ノ浦の戦いで海に飛びこんで意識を
失ったが、味方に救われ生き残った。

② 生き残った者十人ほど居たので彦島に
集まった。
その中に安徳天皇と清邦もいた。

③ その日の夜陰にまぎれて三艘の船で
東への潮に乗り、播磨に上陸した。

④ 内陸へ逃れた一行は、丹波山中に達し、
そこから安徳天皇とその従者は北を指して
行き、知盛は伊勢へ、清邦は能登をめざした。


脱出の様子は以上で、
その後のことも書いているが省略する。

知盛の子孫たちの屋敷は久昌寺の川向かい
にあったが、1660年の大雨の時土砂流
が起き家も田も流された。
この時、娘も売らなければならない程
困窮したという。
矢持で多い時で50軒ほどあったが今は
12軒で皆知盛一族だそうです。
矢持は周囲の高い山で囲まれているが、
その山には何人かの見張りが居り、実際に
源氏と戦いになった時もあったらしい。

久昌寺の前には「平知盛卿終焉の地」の
看板が立ち、その横には兄の重盛が
速玉大社に植えたなぎの木にならってか、
なぎの木が植えられていた。















勇猛果敢な武将‼…平家でも随一の才能‼

といわれる‼…知盛‼。。。



元々は、かなりの虚弱体質。。。


病気がちな。。知盛…。。





平知盛”。。は平清盛の四男で、
兄宗盛のすぐ下の弟にあたる。
知盛は歌舞伎の『碇知盛』でも知られるように、勇猛果敢な人物と知られる。

また、兄宗盛とも比較され、
その有能ぶりがよく知られている。




そう。。この↑↑
知盛‼のイメージも。。。

『勇猛果敢‼』…勇ましい!!

鬼神の如く‼…↑





息子が討たれた時、

そんな状況でも
自分の命が惜しく思うと真情を吐露している。

一の谷の敗戦後、知盛は鬼のように、
戦う。

平家の西の陣地を確保のため、
彦島に一大防御基地を造り、
平家最期の時まで、戦い尽くす。

知盛の必死な働きもむなしく、
屋島は義経に奇襲され、
平家は知盛の彦島に落ちてくる。

平家はここの近くの潮流の早い壇ノ浦で、
源氏と雌雄を決することを決め、

最後の合戦に赴く。。。




↑↑この最後の‼…凄まじい戦いぶりが‼

すべての知盛‼。。のイメージに。。

(↑↑こうしたもの。。歴史上人物にありがち
よくあるパターン。。
“歴史上あるある”?。。笑にくきゅう)





元々…虚弱体質で、病気がち。。

しかし‼…

極度な生真面目さ。。強すぎる責任感‼



気持ち‼…に、身体‼。。が
追いつけない感じか…。。


最後の‼…

自分を奮い起たせての‼…鬼神の如き戦い!!







平 知盛‼

































「見るべき程の事は見つ」