海峡守護碇(いかり)の由来

水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、
関門海峡の鎮めの神と仰がれています。

今を去る800年の昔、源平壇ノ浦の戦いに
平家の大将知盛は全てを見収め、
碇を背に海中深く御幼帝のお供をして、
龍宮城へ旅立たれました。

それより『碇知盛』の名で能や歌舞伎に
演じられ、勇将振りがたたえられています。

このいわれをもとに、海参道の入口を選び
現代の碇を奉納し、御祭神のみたまを慰め、
海峡の平安を祈るものであります。


   昭和60年5月2日
   源平800年祭を記念して
       

寄進  下関海洋少年団(現地案内板)








謡曲「碇潜(いかりかづき)」と壇の浦


謡曲『碇潜』は、平家一門の修羅の合戦の
模様とその悲壮な最後を描いた曲である。

壇の浦の古戦場を弔いに来た旅僧が
乗り合わせた渡し船の漁翁(ぎょおう)に
軍(いくさ)物語を所望する。
漁翁ー実は平知盛(たいらのとももり)の
幽霊ーは能登守教経(のとのかみのりつね)
の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り跡の
弔いを願う。

旅僧の回向(えこう)に導かれるように
勇将知盛の姿が現れ、安徳天皇を始め一門
悉(ことごと)く入水するまでの経過と、
自らの修羅の戦いの有様や碇を頭上に頂いて
海中に飛び込んだ知盛の幻影を旅僧は
見たのであった。
という構成を持つ『舟弁慶』の類曲である。

壇の浦は急流で知られる関門海峡の
早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした
総帥(そうすい)の面目と情趣に思いの
馳せる海岸である。
        

謡曲史跡保存会(現地案内板) 






本足跡













あらすじ】


平家に縁のある僧が一門の弔いのために
壇ノ浦を訪ねます。

途中で年老漁師に出逢い便船し、
僧は源平合戦の物語を所望すると、
老人は能登守教経が義経を狙ったが
八艘飛びで逃げたために討ち漏らし、
ついには源氏の兵を両脇に挟んで入水した
有様を語って自らの回向を頼んで消えて行く。


僧が夜もすがら弔っていると
平知盛 二位殿 大納言の局の亡霊が
現れ、長刀を振るって奮戦した様子、
碇を戴いて海底に沈んで行った最期の様子、
安徳天皇の入水の様子を見せ、
平家滅亡の様子を見せて消えます。


この謡曲『碇潜』のなかで、
新中納言知盛が、二位殿にもはやこれまで、
浪の底沈んで一門供奉し申す。と言うと。


クセ>
涙を抑へて宜へば。二位殿は聞しめし。
心得て候ふとて。しづしづと立ち給ひ。
いまはの出立とおぼしくて。白き御袴の。
つま高う召されて。
神璽(八尺瓊勾玉)を脇に挟み。
宝剣(天叢雲剣)を腰にさし。
大納言の局に。内侍所を戴かせ。
皇居(安徳天皇の玉坐)に参り脆き。
いかに奏聞申すべし。此国と申すに。
逆臣多き処なり。
見えたる波の底に。龍宮と申して。
めでたき都の候。行幸をなし申さんと。
泣く泣く奏し給へば。


シテ>
さすが恐ろしと思しけるか。



「龍顔に御涙を。浮めさせ給ひて。
東に向はせおはしまし。天照大神に。
御暇申させ給ひ。其後西方にて。
御十念も終らぬに。二位殿歩みより玉体を
抱き目をふさぎて波の底に入り給ふ。
恨めしかりし事どもを。
語るもよしなや跡弔へや僧たちと。
夜すがらくどき給ひしに。俄にかきくもり。
虚空に鬨の声きこゆ。


シテ>
すは又修羅の。



「合戦の始まるぞや。

シテ詞>
波の上に浮び出でたるは何者ぞ。
なに修羅の大将無明王とや。
あらものあらものし上北面下北面。
宰相三位弁の蔵人。物故の百官たてをつき。
あれ逐つ払へ。
又修羅の嗔恚が起るぞとようらめしや。
とあります。

安徳天皇を抱いた、二位殿
(清盛の妻時子で安徳天皇の母)が、
歩み板を進み、西方浄土の方に向かって
念仏を十辺繰り返すか返さないうちに入水
する。
すると、戦死した平家一門の霊が、
悟りを妨げる無明の煩悩が怒りとなって、
海面の波間に漂い起きるる。






本足跡








































































































オマケに。。キラキラ

碇潜‼…碇知盛‼の。。

“猫version”を‼。。にくきゅうキラキラ



















にゃんにゃん。。にくきゅう笑おんぷ