膝丸】

膝丸(ひざまる)

指定:重要文化財太刀 
銘 □忠 
(名物:膝丸・薄緑)
大覚寺蔵長さ 2尺8寸9分(87.6cm)
反り 1寸2分(3.72cm)

 

膝丸は源氏の重宝で『剣の巻』によれば、
多田満仲が筑前国三笠郡土山に来ていた
異国の刀工に「髭切」と同時に作らせたもので、罪人を試し斬りしたところ、
膝まで切り落としたので、「膝丸」と
名付けた。

それを譲り受けた満仲の嫡子:源頼光が
虐病、つまり今日のマラリア病にかかった
時のこと、大入道が現れて、頼光に縄を
かけようとした。
膝丸を抜いて斬りつけた。
大入道が血をたらしながら、逃げていった
跡をたどって行くと、北野の後ろにある
大きな塚に消えていた。
塚を崩してみると、4尺(約121.2cm)
ほどもある蜘蛛が死んでいたので、それから
膝丸を蜘蛛切りと呼んだ。

頼光はこれを三男の頼基に譲っていたが、
頼光の甥にあたる源頼義が、
奥州の安倍氏討伐に赴く時、朝廷では鬼丸
とともに召し上げ、頼義に賜った。
頼義より義家ー為義と伝わった膝丸は、
夜になると蛇の泣くような声を出すので、
吼丸と改名した。
それを、為義は娘婿になった
熊野の別当:教真に、婿引き出として与えた。
教真はそれを熊野権現へ寄進した。

教真の子:湛増は、
源義経が平家追討へ西上して来ると、
吼丸を申しくだして、義経へ贈った。
義経はそれを、薄緑と改名した。

平家滅亡後、兄頼朝と不仲になった義経は、
釈明のため鎌倉に下ったが、追い返された。
帰途、箱根権現に薄緑を寄進した。

建久4年(1193)、曽我兄弟が仇討ちに赴く際、箱根の別当:行実は、
これを弟の五郎時致に贈った。
仇討ちがすんだあと、頼朝に召し上げられた。

ただし、『曽我物語』では、
時致に贈られたのは友切り、
つまり原名:髭切、ということになっている。
しかし、『剣巻』『曽我物語』ともに小説
であって、真実とは受け取りがたい。


源頼朝以後の消息は明らかでないが、
島津家の初祖:忠久が、
文治2年(1186)、薩摩・大隅・日向の
地頭職に輔せられ、薩摩へ下る時、
源頼朝より与えられた「小十文字の太刀」
が、膝丸であって、以後、島津家に伝来した。

南北長期になって、膝丸を継承していた
六代目:帥久の世子:伊久は、
長子の守久が凶暴で、島津家を継ぐ器でないことを見抜き、従兄弟にあたる元久に
膝丸を譲った。以後、島津本家の重宝とされたという。

しかし、江戸城の紅葉山宝蔵にも、
膝丸・髭切・友切丸・薄緑などという、
源氏ゆかりの太刀があった。

しかし、薄緑以外は、来膝丸・来髭切・
来友切丸などと、「来」の字を冠している。

黄金造りの太刀というが、源氏の嫡流を
吹聴するための、拵え物のようである。

膝丸の作者については、
筑前土山の異国鍛冶・同所の正応・筑後の
光世・奥州の文寿・同じく宝寿などの異説
が多い。


薄緑は薄翠ともいい、源義経や曽我五郎が
佩いた、という太刀で、その作者については、定円・実次・国宗などとする説もあるが、
古剣書の多くは豊前の長円としている。

その来歴についても、『曽我物語』と
『剣の巻』とでは大いに異なる。


『曽我物語』によれば、
源頼光が唐の国から武悪大夫という刀工を
よんで作らせたもので、「朝霞」と名づけた。
その弟:頼信は「虫喰み」、
頼信の嫡子:頼義は「毒蛇」、
八幡太郎義家は「姫斬り」、
源為義は「友斬り」と呼んでいたものを、
源義朝は鞍馬の毘沙門天に奉納した。
それを源義経が盗み出し、隠しておいた。

隠しておいたのは、備前友成という異説も
あるが、それはさておき、義経はそれを
平家討伐に西下するとき、
箱根権現に寄進した。

それを曽我兄弟が仇討ちに出かけるとき、
別当の行実が弟の五郎に与えた。
五郎はそれをもって、めでたく親の敵を
討った。

しかし、それは備前助平の作という異説も
ある。
いずれにもせよ、源頼朝は五郎から取り上げて、再び箱根権現に奉納した、という。



『剣の巻』によれば、多田満仲は当時、
筑前にきていた異国の鍛冶に、
二振りの太刀を鍛えさせた。

一振りは試し切りしたところ、
首を斬った勢い余って、膝まで断ち切ったので、「膝丸」と命名した。
それを譲りうけて、
源頼光は「蜘蛛切り」、源頼義は「吼丸」
とよんでいた。
頼義はそれを女婿の熊野別当:教真に与えた。

源義経が平家を追って西下するとき、
教真の長男:湛増がそれを義経に贈った。

義経は、時は春2月、
緑もまだ薄い熊野の山から出てきた、というので、「薄緑」と改名した。

義経は兄:頼朝の不興をこうむり、
鎌倉の腰越から追い返されたとき、
箱根権現に立ちより、薄緑を寄進した、
という。


『曽我兄弟太刀由来記』も同様の記述になっている。
しかし義経が寄進したのは西征の時だった、とする異説や、
文治元年(1185)10月、法皇の御剣が紛失
したので、源頼朝は吠丸・鳩丸の二剣を
献上した、という記録がある。

さらに義経の兄:源朝長のとき、
すでに薄緑と改名されていた、という説や、
畠山重忠が17歳のとき、小坪の合戦で薄緑
を佩いていた、という説もあって、
『剣の巻』の記事は、そのまま鵜呑みにできないことになる。



“薄緑と称する太刀”も現在、

箱根神社」・「大覚寺」など、方々にある。

箱根神社所蔵のものが、前期の来歴からみて、もっとも信をおけるようであるが、
実際はもっとも信をおけないようである。

延享3年(1746)刊の『本朝俗諺志』によれば、当時、曽我五郎が工藤祐経を斬ったのは、「清府の太刀」と箱根権現では呼んでいた、というから、薄緑という名称はその後つけたことになる。

天明3年(1783)、榊原香山が行った時は、
すでに薄緑ができていた。

刃長2尺7寸(約81.8cm)、無銘の太刀で、
拵えは兵庫鎖の形式ではあるが、祭礼のときの貸し太刀のたぐいだった、という。
それから14年後の寛政7年(1795)、
捧檍丸が行って写してきた図をみると、
まったくの別物である。
榊原香山によれば、職人任せにして作らせた偽物という。

江戸城の紅葉山御宝蔵、つまり徳川将軍家
にも、刃長2尺7寸(約81.8cm)、
金拵え付きで、薄緑と称する太刀があった。
ただし、これは源三位頼政の太刀とされていた。

剣八幡宮所蔵のものは、
三河国西条の吉良家伝来のものだった。
吉良家は八幡太郎義家の系統で350年も続く名家であるが、館におくのは恐れ多い、
というので、剣八幡宮を建て、それに安置
してあった。
明治9年まではあったが、その後は
行方不明である。

京都東山安井にあった安井門跡、
つまり蓮華光寺に文政8年(1825)ころ、
薄緑という太刀のあった記録がある。

大覚寺伝来の薄緑については、
元禄13年(1700)、
清水寺延命院の実円律師が書いた伝来記が
ある。
それによれば、曽我五郎までは『剣の巻』
と同じであるが、その後がちがう。
五郎から召し上げたものを、
頼朝は大友能直に与えた。

能直の十二男:泰広は田原姓を名乗るが、
それから十数代の孫:田原親貫は天正ころの人である。
親貫の嫡子:親武は薄緑をゆずりうけたが、
その娘:経子が内大臣:西園寺公益に嫁いだ関係で、薄緑は西園寺家に入った。
経子の生んだ大僧正性演が安井門跡になったので、そこの什器になった。

貞享元年(1684)、その後任になった
道恕大僧正がその後、大覚寺に転じたさい
持って行ったので、以後大覚寺の宝物になっている、という。
これは刃長2尺8寸9分(約87.6cm)の太刀
で、銘は「□忠」とあって、
一字は判読不能である。

古備前と見える出来で、鎬造、庵棟、
鍛え小板目、刃文直刃、丁子交じりとなる。
大正12年、国宝に指定された。

古備前派において、□忠と銘する刀工は
家忠、光忠の父とされる近忠
(有銘作は現存しない)、
そして光忠らがいる。

他に古一文字派に宗忠らがいる。
古来、光忠は古備前派と長船派にそれぞれおり別人とされていた。
しかし、長船光忠の最初期作とおもわれるものには古備前風の古雅な作域を示す太刀
が遺されている。
古備前光忠は長船光忠同人でその初期作の
可能性が高いといわれている。
光忠の銘字は「忠」の字においては「心」
の部分が特徴的となる。

丹後宮津城主:本庄家伝来のものは、
本庄安芸守資俊が元禄15年(1702)
9月12日、将軍綱吉より拝領したもので、
元禄10年(1697)百枚の折紙がついていた。
同家ではさらに享保7年(1722)、三千貫
の折紙をつけている。
これは「蜘蛛切り」という伝承になっている。
『剣の巻』の説によって、「蜘蛛切り」を
薄緑の前名とすれば、これが薄緑ということになるが、『剣の巻』の記述が鵜呑みにできないことは前述のとおりである。

これは刃長2尺4寸3分(約73.6cm)、
佩き表に素剣、裏に梵字があるが、
磨り上げてあるため、中心に隠れている。
磨り上げを復元してみても、
『源平盛衰記』にいうように、
3尺5寸(約106.1cm)という大太刀にならないことは言うまでもない。
地鉄は板目肌に地沸えつく。刃文は中直刃
に互の目まじり沈む。中心は折り返し銘に
「長円」と二字銘がある。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)



(法量)
長さ2尺8寸9分(87.6cm)
反り1寸2分(3.72cm)
元幅1寸1分2厘(3.4cm)
先幅6分8厘(2.06cm)
元重ね2分7厘(0.83cm)
先重ね1分6厘(0.48cm)
鋒長さ9分2厘(2.8cm)
茎長さ7寸2分6厘(22.0cm)
全長3尺6寸1分(109.4cm)

 


本足跡




米印諸説…異説…。。いろいろあるのが、
平安時代。。。笑

諸説…異説…。。いっぱいあるのが、
この平安時代なのです。。。笑ぽ

































 







































 





















日本刀‼。。。刀剣↑


「刀」と「太刀」の違い

 
 現代の日本に於いて、日常まったく必要
がなくなった日本刀。
時代劇やテレビドラマなどで見るか、現物
を博物館で見る以外、実物を手にとって見たことがあるという人も滅多にいないのではないかと思う。

だから突然、「刀」と「太刀」との違いを
聞かれても、簡単には答えられないのではないだろうか。

今日は、この「刀」「太刀」の違い
ついて簡単に考えてみたい。



 ごく個人的なイメージから言えば、
文字通り「刀」よりも「太刀」の方が
「太い」のかなぁと思う。
まぁ、「太い」という言葉からの連想で
「大きくゴツイ方が太刀なのかな」と思う。

しかし、一般的には、長さや形の区別などなく、日本刀を総称して一般に
刀(かたな」と呼ぶようだ。

 これを明確に区別するということになれば、ややり法的に区別することになる。
そして、確かに
「銃砲刀剣類所持等取締法」という法律で
刃の長さによる区別が明確にされている。

それによれば、
およそ60cm以上は「太刀または
30cm以下は「短刀
その中間は「脇指わきざし)」ということになっている。

これは昔、
3尺(約91cm)以上を大太刀、
2尺(60cm余り)以上を太刀と刀、
1尺以下を短刀、
1尺7寸9分までを中脇指、
1尺8寸より1尺9寸9分までを大脇指
と分類していたことによるらしい。


 そこで今回のテーマである
「太刀と刀の区別」であるが、形や長さではなく、もっと根本的なところで
この二つを見分ける方法がある。




 実は、太刀
鞘(さや)に足金物(あしかなもの)を
設け、帯取をつけて腰に吊(つ)るすようにつくられている。
だから、腰に吊した際には刃が下に向くようになる。


 これに対して、
腰帯に刃を上に向けて指すようにできている。
時代劇等でも腰の帯に刀をさしている侍を
目にすることが多いが、よく見ると刃がある面はみんな上を向いている。
勿論、刃がむき出しではなく鞘に納められた状態であるが。


 腰につけた太刀の外側のことを
佩表(はぎおもて)というが、

これに対する刀の外側を
指表(さしおもて)と言い、
両者の刃の向き位置は反対となる。


 そして、刀鍛冶の作銘は表側に入れるので、刀身の柄(手で握る部分)の芯に収めるところ(刀茎=なかご=)に刻まれる
作銘を見れば、簡単に太刀かが分かる
のである。

 つまり、刃を下にして刀を握った場合、
右側に銘があれば太刀、
左側に銘があれば刀ということになるわけだ。


 しかし、全てに銘が刻まれているわけではない。中には無銘のものもある。
この場合、大凡、長さと反(そ)りで区別
することになる。

太刀は2尺5寸(約73センチ)で
反りは7~9分(約2.1~2.7センチ)
であるのに対し、

刀は総体的にみて2尺3寸を定寸
(標準的な寸法)で、
反りは4~5分である。

刀にくらべて太刀の方が長く反りが強いということだ。
やはり最初の個人的なイメージがまんざら
でもないことが分かる。

 また、実際に合戦となった際には、
これら武具は腰につけることになるので、
時代劇や歴史番組を見ている際の甲冑姿からもこの刀と太刀を見分けるのことが簡単
にできる。
おさらいになるが、
腰帯に刀を差して刃が上向きだったら、
それは「刀」であり、
刀を腰に吊っていて、刃が下に向いていたら、それは「太刀」なのである。

 この豆知識を頭に入れて、今度博物館で
日本刀の展示を見ると、少し違った味わいを感じることになるかも知れませんよ。



本足跡






























太刀‼。。と、祭祀。。。キラキラ























太刀と刀。。。。笑





あの‼…平安時代の刀‼すごいよね⁉」





正確に言うなら。。。

・・・・
平安時代に。。。“刀”は、ない‼


それは、

太刀です‼。。。刀剣↑きらきら

時代で。。。。簡単に見分けるなら⁉


『平安時代のものは‼…太刀‼です』








太刀‼。。。クロネコちゃん↑きらきらきら















■太刀とは?


平安時代あたりから使用され、
長大なものが多く、反りも大きい。基本的
には馬上戦闘で使用されます。

ある程度の長さが無いと、馬上から同じく
馬上の敵に届きません。
また、地上の雑兵などを斬りつけるのにも、
やはり長さが必要。

反りが大きいのは、その方が馬上での、
抜いて、切りつける、という動作がし易い
ためと言われます。
 













■刀とは?


正確には打刀(うちがたな)と呼びます。
室町時代後期あたりから登場し、
太刀に比べ短いものが多く、反りも小さい。


その時代、足軽が活躍するようになり、
騎馬武者ではない彼らは地上にて戦います。
そのため、彼らの使用する刀剣には太刀のような長さが必要なくなります。
また、地上では乱戦となり易く、
比較的短い方が取り回しが良く、さらに、
突くには反りが小さい方が有利。















■どうやって見分ける?


両者の分類には、長さによる分類法などもありますが、一番簡単な見分け方は、
携帯方法、もしくは展示方法です。


太刀は、刃を下向きにし、
紐や器具を使い腰に吊るして携帯します。
そして展示の際にも刃を下向きにします。


打刀は、刃を上向きにし、
腰の帯に差して携帯します。
そして展示の際にも刃を上向きにします。


 




            
展示の仕方により、これが太刀であることが分かります。 

      

 

 

■最後に・・・


源平の時代に使用されたのは、
ほとんどが太刀でしょう。

戦国時代には、太刀と刀の両方が使われていたはず。

江戸時代、そして幕末には、
多くが刀だったかと。


どうでしょう?太刀と刀の違いをお解りいただけたでしょうか?
ただし、上記は最も基本的な解説と分類法、
さらに見分け方です。

例外もあれこれ存在することをお忘れなく。




本足跡





この時代。。。

侍‼。。ってのは、いない。。。

『武士道』なんてものも‼…ない。。





この平安時代に。。。

“源氏”や“平氏”などの台頭により‼…

“武士‼”というものが、確立してきた。。




まだ。。“武士”とは言わず、

“兵(つわもの)”と。。
呼ばれていただろうか…。。






この頃に。。

その“日本刀”。。。。

いわゆる“刀”も。。
変化を遂げていった‼。。。

大陸から渡ってきた‼…直剣‼。直刀‼

それが‼…

日本の刀‼…としての特有な“反り”をもつ
形に‼。。

鎬造湾刀‼。。↑きらきら




















弥生時代の銅剣は両刃の剣が主流で、

鎬のない平造と呼ばれる形式の刀も登場する。


古墳時代以降は時代が進むにつれ、
鎬筋が刃に近い部分にある切刃造が生まれた。
この時点では、まだ刀身に反りのない直刀であった。斬ることよりも刺突を目的としていたと考えられる。


飛鳥時代以降になると、刃文をはっきりと確認できる刀剣が出現した。



奈良時代以降の刀剣は上古刀と呼ばれ、
一般的な日本刀とはやや異なっている。

「日本刀」という言葉が初めて見られるのは
北宋時代の詩であり、
日本では奈良時代後期にあたる。







平安時代から鎌倉時代

平安時代前期から中期にかけても、主流は
反りのない直刀であった。
しかし、平安初期に作られた小烏丸という刀には反りが確認されている。
また、それまでは刃に近い部分にあった
鎬筋が刀身の中央寄りに移動している。



平安時代中期になると、
次第に反りをもつ刀が増え、切刃の幅も広くなっていく。
鎬造で反りのついた刀が普及したのは、
平将門が関東で反乱を起こした10世紀ごろ
と推測されている。


武家の勢力が増してきた平安時代末期には
刀の需要が高まり、
良質な砂鉄が取れる伯耆国や政治文化の
中心地である山城国・大和国など、
作刀に都合の良い地域に刀工達が集まり始めた。
刀工が集団化し、多数の流派が生まれたことに伴い、刀の様式と性能はさらに発展する。
同時に刀装も武家と公家ではっきり分かれ、
武家は毛抜形太刀という実戦向きの刀を、
公家は飾剣(かざたち)や細剣(ほそたち)
という装飾性の高い刀を持った。





度重なる戦と刀工たちの工夫によって、
鎌倉時代の刀はさらなる発展を遂げた。

刀身はより長大に、反りも腰反りから
中反りへと変化。
身幅が広く重ねも厚く頑丈になり、
鋒は長さが詰まって猪首鋒
(いくびきっさき)と呼ばれる勇ましい形に変化した。

拵も堅牢さを第一とした実践的なものが
好まれた。









日本刀‼。。↑きらきら