天忍穂耳尊
(あまのおしほみみのみこと)



【別名】

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)


正哉吾勝勝速日天忍穂根尊
(まさかあかつかつはやひあめのおしほねのみこと)


正哉吾勝勝速日天押穂耳尊
(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)


天之忍穂耳命
(あまのおしほみみのみこと)


天忍穂根尊
(あまのおしほねのみこと)

忍骨命
(おしほねのみこと)

吾勝命
(あかつのみこと)

……

天照大御神の御子。
天孫瓊々杵尊の父。



根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、
天照大御神は武装して迎えた。
建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの
勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、
誓約によって、建速須佐之男命は三女
(多紀理毘売命、狭依毘売命、
田寸津比売命)を、
天照大御神は五男
(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、
天之菩卑能命、天津日子根命、
活津日子根命、熊野久須毘命、
『日本書紀』の一書では�速日神を加えた
六柱)を生んだ。



天照大御神の左の御みづらの八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠から生まれた神。

正勝吾勝は、須佐之男命が誓約を勝ちとったことを誇る意味。
耳は身と同じ意味で、
忍はおほし(大)穂は秀。

天忍穂耳尊と
高木神の娘・萬幡豊秋津師比売命との間に、天火明命と天津日高日子番邇邇芸命の二柱の神が生まれた。


『先代旧事本紀』には、天火明命の代わりに饒速日命となっており、
天火明命=饒速日命という説がある。


『古事記』によると、
天照大御神と高木神は、 はじめ父神である天忍穂耳命に「お前が葦原中国へ降臨して治めよ」と命じた。

ところが、忍穂耳命は
「自分の子の邇邇芸命の方が適当だと思う」と申されたので、 改めて邇邇芸命に
天孫降臨・国土統治の神命が下された。











天忍穂耳尊。。


この…ものすごい系統、、ポジションの割りに!?
存在感が、薄い…神さま。。。うっとりねこやん涙



だって!!。。
その話しによると…にくきゅう!ピンクグラ


あの!!“アマテラス”の子↑きらきらきら
(↑まず!!これで、ものすごく注目されてもいいはず!!)


そして、子供に…
天孫の!!“ニニギ”
“ニニギ”の父親↑キラキラキラキラキラキラ




“アマテラス推し!!”の…このお話しであれば。。

その子…である“オシホミミノミコト”
が、もっと!!知られていても
いいのでは?ピンクグラ?ピンクグラ。。



もっと!!…“オシホミミ”を祀ってあるところがあっても…
いいのでは?ピンクグラ?ピンクグラ。。





こんなすごいポジションにいるのに!?

何故に、ここまで存在感が薄い…なぜ?





それに!!…

すごい“名”を持っているしくろねこ↑


正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命!!きらきら




名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」
は「正しく勝った、私が勝った」の意、
「カチハヤヒ(勝速日)」は
「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、
誓約の勝ち名乗りと考えられる。

「オシホミミ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意である。



これは、すごい↑きらきら











この“オシホミミ”を祀る神社には


「二宮神社」などが、鳥居新緑


 

伝承では、創建は摂政元年。
神功(じんぐう)皇后が生田の大神を祭った際、大神に縁のある8神を祭る宮を巡拝し、その2番目だったことから、この名になった。


 ご祭神は
正勝吾勝々速日天之忍穂耳命”
(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)。


天照大御神(あまてらすおおみかみ)の
第1位の御子神、
つまりは長男に当たる神である。

イザナキノミコトに追放された
須佐之男命(すさのおのみこと)が、
姉の天照大御神に潔白を証明する
誓約(うけひ)を行った際、須佐之男命が噛(か)み砕いた天照大御神の
勾玉(まがたま)から生まれた。

 「正(まさ)しき哉(かな)、
吾(あれ)勝ちぬ」

 その瞬間、須佐之男命はそう言い放った、と日本書紀は記す。
それ故に同神社は勝運、家門繁栄などをご利益とし、勝守が有名だ。

 




もちろん!!…


『津島神社』
http://s.ameblo.jp/1994199820022006/entry-12050032503.html?
にもくろねこきら




でも、
                  ◇

 アメノオシホミミを祭る神社は全国的に少ない。

という…。。。うっとりねこやん









そのイメージは~。。。もう…もう…





なんとなく…ぼんやり
その話しで覚えているのは・・・・




天照に!!…

葦原中国は、この私!!!の!!…
我が子の!!長男こそが!!…治めるにふさわしい!!!

オ~ッ…ホッホッホッ!!♪♪♪♪」

と、
どこから来るのか分からないような自信!!
超自己中な…権力発動で!!きらきらきら


“アメノオシホミミ”に指示!!






しかし…

そのオシホミミ…。。。

「ぇ~…;
なんだか…地上界って、物騒な感じだしなぁ・・・行きたくないなぁ…


と、準備をなかなかせず…

モタモタ~…モタモタ~する内に


子供ができたので♪。。



おし!!
「俺の子に行かしちゃえ!!♪」


と、自分の子“ニニギ”に
行かす!!…という。。。苦笑

天照の孫”にあたるから…
“天孫”。。『天孫降臨』






これくらいしか…“オシホミミ”
お話しの中に出てきてないような。。




『えっ!?…結局!!
このすごいポジションにいる神!!
なんにもしてないじゃん発見ねこやん?と!!!

という。。。汗落ち





そんなイメージ…。。。







そしてまた!!…その上!!この名前

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命!!

なんだこの!!…勝者のメンタリティ!!
勝つ為に存在するような名前!!





とは言え…。。。

この名前は別に、本人を・・
本人が…名乗ったわけではなく・・


このとき!!…スサノヲが!!!↑アゲアゲアゲアゲ
ということだから・・・うっとりねこやん笑

 







日本で言えば、

“勝(まさる)”と名前をつけられた子が

みんな…ゆくゆくは、すべてにおいて勝つ!!というわけではないし。。笑


その名の人が、

自ら名乗ったわけでもなく…
勝ち名乗りをしたわけでもないのだから
。。黒猫おんぷ









                   ◇

 「アメノオシホミミの神話は、天皇の正統な姿を示すものだと思う。自らを主張せず無為に徹し、国を治めるにも武力ではなく婚姻関係で版図を広げる。その理想像の原点がこの神話にはある」

 そう指摘するのは
神戸女子大の鈴鹿千代乃教授である。



 「稲羽(因幡)の白兎神話で
ヤカミヒメを得たように、オオクニヌシの国造りは各地の女神と結ばれることで行われた。その精神を歴代天皇が引き継いだことを強調するために、この記述はあるのでしょう」

 もう一つ、歴代天皇が現在まで引き継いでいる重要な仕事を、アメノオシホミミは暗示している。

稲作である。

 オシホミミの「忍」は大いなる神威を、
「穂」は文字通り稲穂を、「耳」は神霊を意味するミという語を重ねたと考えられる。この3文字が示すのは「稲穂が着実に勢いよく実る様子」ということだ。


 「米作りは現在の天皇陛下も続けておられる。その連綿と続く仕事と、民の心を受け入れるために無為で大きな心。
それが日本のリーダーだと伝えているのがこの神様でしょう」


 須佐之男命の荒ぶる魂は
天照大御神の勾玉に宿って鎮まり、成長して地上界に降るのである。

   



                ◇

【用語解説】天之忍穂耳命

 天照大御神と須佐之男命の誓約で、
須佐之男命が噛み砕いた天照大御神の
勾玉から生まれた5男神のうち最初に生まれた神。

天照大御神はいち早く、
「自分の物から成った神なので自分の子だ」と主張した。

天照大御神が須佐之男命の剣を噛み砕くと、3柱の女神が生まれた。

須佐之男命は
「自分の心が清らかだから女神が生まれた。わが身の潔白は晴れた」
と主張して、高天原(たかまがはら)に居座り、乱暴狼藉を繰り返した。

 アメノオシホミミの子供が
ニニギノミコト。天孫として日向の高千穂に降臨し、皇室の祖になった。















“天忍骨尊”。。














『大国主命と天忍骨尊』


 大国主命は、島根県出雲大社に祀られる神で、大己貴命とも書かれることがある。

天忍骨尊は天忍穂耳尊とも書き、
三重県伊勢神宮に祀られる天照大神の御子であり、英彦山神宮の御祭神である。

 昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。
頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。

早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。
二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。
大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、
更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになったという。

 ところがその後、天忍骨尊が英彦山に天降って来たので、大国主命は
北岳を天忍骨尊に譲った。

天忍骨尊は、八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、
この山を「日子の山」から後に、
「彦山」と呼ぶようになった。


 後世の10代崇神天皇のとき、水晶石が光を発し、遠く大和の天皇の宮殿まで照した。
天皇はこれを何事だろうと怪しんで勅使を派遣して調べさせた。
勅使は光を発する場所を探して彦山までたどりつき、白幣を捧げて祭ったといわれる。

 神様が山の頂きに天降る話は各所にあるが、天忍骨尊は添田町内の岩石山にも
天降っている。

宗像三神は、宗像郡宗像神社の御祭神であるが、「日本書紀」には、宇佐(大分県)
に天降ったと書いており、田川郡金田町では嘉穂郡頴田町との境にある
日王山(日尾山)に、宇佐から宗像に向う途中天降り母神天照大神を祭ったという話がある。









英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、
御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子、
“天忍穂耳命”であることから
「日の子の山」即ち
「日子山」と呼ばれていました。


嵯峨天皇の弘仁10年(819年)
詔(みことのり)によって「日子」の
2文字を「彦」に改められ、
次いで、霊元法皇、享保14年(1729年)には、院宣により「英」の1字を賜り
「英彦山(ひこさん)」と改称され現在に至ってます。

英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、
昭和50年6月24日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称され、「英彦山神宮」になっています。




















『添田町HP』。。


昔、大己貴命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。

頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。
早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。

二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。

大己貴命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、
更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになったという。
 ところがその後、天忍骨尊が英彦山に天降って来たので、大己貴命は北岳を天忍骨尊に譲った。
天忍骨尊は、八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、
この山を「日子の山」から後に、
「彦山」と呼ぶようになった。


 忍穂耳は宇佐から今川に沿って遡り赤村にたどり着いた。

この赤村には倭国に加盟していない小国があったようである。
岩石山を挟んで反対側にある彦山川一帯は大己貴命が宗像三女神と共に開拓しており、発展していたが、この小国はそれを邪魔していたようである。

忍穂耳はこの小国を倭国に加盟させた。

岩石山は“吾勝山”・“赤神山”とも呼ばれており、その昔忍穂耳命が山頂に祀られていたそうである。

この山は忍穂耳命の勝利の神跡と云われている。
忍穂耳がこの小国を加盟させる時ここを統治していた豪族と戦いがあり、其の首領をこの山に追い込んで打ち取ったものであろう。

忍穂耳はこの小国を開拓するためにしばらくここに滞在していたのであろう。そのためにこの周辺を“吾勝野”と呼ぶようになった。


 宮跡は不明であるが、岩石山山頂が
忍穂耳の聖地のようなので、
御陵が岩石山山頂で、宮跡はこの山の麓
(我鹿八幡神社の周辺)にあったのではあるまいか。

忍穂耳は岩石山山頂に何回も足を運び
国見をしたのであろう。
しだいに其の周辺の国も巡回するようになり、より遠くの地域までを見渡すために
英彦山山頂でも国見をしたのであろう。


 田川市に「香春神社」がある。その昔は九州でも有数の大社であったようで、歴史上重要な意味が込められているようである。
この神社にも“忍穂耳命”が

“忍骨命”として祀られている。


<<<本足跡










鬼!!…。。




鬼!!…。。
































御祭神のお名前(漢字)に託された意味

正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊』


ひとへに ただしく すなほなるを
心とし 形とし給ふ
心すなほにして ゆがまざれば
よろづにかつ
そらてらし給ふ 日の出る時
日は一なれども くらきやみ
すみやかに きゆるに にたりなり
まよへる民を あはれみて
よろづをしのび
ゆがめるを あらためて
なほきに おもむくを開き
よろこび給へは
国中ゆたかに 人さかふ


走湯山秘決依り










忍骨命



“日子”。。きら

























紡ぐ。。。キラキラ