丹波国の羽衣伝説と豊受大神
「丹波国風土記逸文」奈具社の縁起として次のような逸話が残っています。


「丹波国風土記逸文」
奈具社の縁起羽衣伝説

丹波郡比治里の比治真奈井で天女8人が
水浴をしていた。
うち1人天女が老夫婦に羽衣を隠されて
天に帰れなくなってしまいました。

その天女の名前は「豊宇賀能売」仕方なく、その老夫婦の元で暮らすことになった天女は万病に聞く霊酒の作り方を教えて
たちまち老夫婦は巨万の富を得ます。

富を得た老夫婦は、天女が邪魔になり追い出してしまいました。

追い出された天女は各地を転々とした後、
奈具の村に安住の地を見つけました。


天女が死んだ後は、奈具神社に祀られたと言う事です。

奈具神社の神様は古くから農耕の神として祀られており、
豊宇賀能売は豊受大神と同一神としてみられています。







磯砂山の姿麗しい。和奈佐(わなさ)
老夫婦の子孫、七夕伝説を伝える安達家は赤い看板の後の小高い岡の上にある。

この集落一の旧家という、狩人の子孫と伝わるそうだがどうも鍛冶屋の大将のように思われる。
和奈佐のワナは罠か、鳥を罠で捕らえる家系かも、鳥(特に白鳥)は鉄霊を示していることが多く、鍛冶屋にはピタリの伝説と見るのだがうがちすぎか、網野とか鳥取の地名が近くにある。

同家のあたりを小字尾細という、京都府船井郡瑞穂町にも大朴(おぼそ)という所もあるが、阿波国那賀郡式内社の
和奈佐意富曽神社の意富曽のことではないかといわれる。

出雲風土記に、阿波枳閉委奈佐比古が見えるが、和奈佐は阿波国から来経した
海人族と関係がありそうである。

安達という姓からは、
藤社神社の天目一箇神という製鉄神とかかわりがありそうに思われる。
あっちからこっちからとキヘしてそれらが何重にも重なり合っているようである。

 











「乙女神社」。地元の伝承では天女には
三人の娘があったという、その一人を祀るという。












「乙女神社」

『丹後風土記』には日本最古の羽衣伝説が記載されていますが、それとは別に、
狩人の三右衛門(さんねも)と一人の天女が織りなす羽衣伝説が地元には伝わっていて、天女と三右衛門の間には三人の美しい娘がいたとされます。

天女は三右衛門に隠された羽衣を見つけ、
娘を残し天に帰ってしまった後、
毎年七月七日の夜に星となって三右衛門と三人の娘に会いにやってくるそうです。
この乙女神社は、天女の娘の1人が祀られているとされ、お参りすると美女が授かるといわれています。


『中郡誌稿』は、
乙女神社
(丹哥府志)乙女大明神、風土記に
所謂天女八人の一なり
(五箇村誌草稿)乙女神社、
大路、田畑(たなばた)神の姉天女八人の内の一人熊野郡より来る内殿は
名工岡田藤四郎の作なり
(五箇村誌草稿)岡田藤四郎氏 大路の名工乙女神社の奥殿を作る結構緻密行人の此社を過ぐるもの皆之を賞すといふ死後家に社殿の雛形を見る今ありやなしや五箇校の成るや六ケ敷合せ口など皆氏の力によるといふ
 






























豊受大神
(トヨウケノオオカミ)

別称:
豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)、
豊受気媛神(トヨウケヒメノカミ)、
豊由宇気神(トユウケノカミ)

性別:♀
系譜:
稚産霊神の娘神格:食物神、穀霊神

神社:
伊勢神宮・外宮、篭(コノ)神社

 よく知られているように豊受大神は、
伊勢神宮の御饌(ミケ)の神として伊勢神宮外宮(豊受大神宮)に祀られる穀物女神である。
御饌とは天照大神の食べる食物のことで、
この神は本来それを調達する役目を果たす神だった。
そこから発展して五穀の主宰神となり、
稲荷神と並ぶもっとも代表的な農業神となったのである。

 日本の自然神というのは、ほとんどが何らかの形で農耕生産と関わりがあり、その性格に農業神としての機能を含んでいるといっていい。
とくに農業神の中心である穀霊を基本的な神格として持つ神々は、その個性の輪郭が非常に曖昧な場合が多い。
豊受大神にしてもやはりそうだといっていいだろう。

 たとえば豊受大神は、皇祖神天照大神が祀られる伊勢神宮に鎮座して、天下万民の糧となる食物をつかさどるとされているわけであるが、同じように食物神としての機能を発揮する神として、稲荷神社の祭神の宇迦之御魂神がいる。
宇迦之御魂神は、別名豊受姫神ともいい、
稲荷神社の祭神名としてよく見かけられる。このように「ウケ」「ウカ」など、そもそも名前が似ていることからして、その性格も同一の神格と考えられることが多いのである。

 さらに、そのほかにも
同じ食物神である“大宜都比売神”、
保食神、“若宇加能売命”などの神と
同一神と考えられたりする。

こういうところは共通の性格を持つ曖昧さともいえるが、逆に考えれば、豊受大神は共通の性格を持つ神々の霊力をもトータルに包含する機能を持っているともいえるわけだ。
ことさら独自性や個性にこだわらず、よい意味でのいい加減さで人々の願いを聞き入れてくれるところが、日本の神さまらしいところでもある。
豊受大神のイメージもそういうものと考えればいいだろう。

 豊受大神に関して、記紀神話にはその経歴やいつごろ伊勢神宮の外宮に祀られたのかということについて詳しいことが書かれていない。
唯一の手がかりとなるのが、豊受大神が
外宮に祀られた由来を記した
「止由気(トユケ)宮儀式帳」という朝廷に提出された文書にある話だ。

この中で雄略天皇の夢に現れた天照大神は、「わたし一人ではさびしいし、食事も心やすらかにとれないから、豊受大神を御饌の神としてそばに呼んでほしい」
と指示。
そこで雄略天皇は、丹波国(京都府)から豊受大神を迎えて伊勢の地に祀ったとある。

 ここで丹波国がこの神の出身地として出てくるわけだが、ではなぜ丹波国なのかという疑問が出てくる。

ひとつの説として、そもそも豊受大神は
天照大神の御饌の神として祀られたのが先で、丹波国には奈具社(ナグノヤシロ)のような穀物の女神を祀る社が多かったころから、由来譚として結びつけられたものと考えられる。

もうひとつの説は、もともと結びつきがあったと考えるものだ。
その根拠とされるのが、「丹後国風土記」
逸文にある天女の話である。

 昔、天女が丹波の泉で水浴びをしていて衣を隠され、天に帰れなくなって老夫婦の家に身を寄せる。
そこで天女は霊酒の醸造を教え、夫婦をたちまち金持ちにするが、成金に奢り狂った老夫婦に邪魔にされて追い出されてしまう。
泣く泣く放浪の旅に出た天女は、やがて奈具の村に安住の地を見つけ、のちに死ぬと奈具社の神として祀られた。

 ここに出てくる奈具社の神というのが、
穀物の女神の
豊宇賀能売神(トヨウカノメノカミ)といい、人々の信仰が篤い有力な神だった。

この神が伊勢に迎えられて豊受大神として祀られるようになったのではないかということである。
おそらく豊受大神の原像というのは、穀物の女神の豊宇賀能売神のような、農民が信奉する神だったのだろう。
それが天照大神に仕えるという立場を得ることによって、いわば地方神から全国神へと変身することになった。

つまり、天照大神を祀る伊勢信仰の広がりとともに、豊受大神も広く祀られるようになり、その結果、稲荷神と並ぶほどに有力な神として発展したのである。









「橿原神宮」の
「長山稲荷神社」
http://s.ameblo.jp/1994199820022006/entry-11993209252.html


















天の羽衣♪。。










豊宇気毘売神
(とようけびめのかみ)

【別名】
豊受気姫神
(とようけひめのかみ)

豊宇気比女神
(とようけひめのかみ)

豊宇可乃売神
(とようかのめのかみ)

屋船豊受気姫命
(やぶねとようけひめのみこと)

豊宇賀能売命
(とようかのめのみこと)

登由宇気神
(とゆけのかみ/とようけのかみ)

等由気大神
(とようけのおおかみ)

豊受大神
(とようけのおおかみ)

豊受大御神
(とようけのおおみかみ)

豊受皇神
(とゆけのすめがみ)

豊岡姫命
(とよおかひめのみこと)

……
上記別名の神々を、すべて同神とする説もあるが、別だと考える説もある。



豊宇気毘売神
(豊受気姫神、豊宇気比女神、
豊宇可乃売神)。

迦具土神が生れてくる際、
母神伊邪那美神が苦しんで吐いたものから
金山毘古・金山毘売、
屎から波邇夜須毘古・波邇夜巣毘売
、尿(ゆまり)より弥都波能売が生れ、
次に和久産巣日の諸神が生れ、
和久産巣日神より豊受氣毘売神が生れた。

豊は美称、宇気は食物を表し、食物の神。


和久産巣日神(わくむすひのかみ)。
この和久産巣日神の子が、
豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)







屋船豊受気姫命は、
延喜式に家屋守護の神と記され、
屋船久久廼遅命と共に信仰されている。

また大殿祭祝詞に稲霊なりとあり、
「俗の詞に宇賀能美多麻といふ」とあって、宇迦之御魂神と同神とされる。







豊宇賀能売命は、
丹後国の比治山の頂の真井に降った八人の天女の一人。
和奈佐老夫と和奈佐老婦が衣を隠したため天に帰れず、地上に留まり、 十年間老夫婦のもとで薬酒を醸して冨をもたらしたが、 老夫婦に追い出され各地をさまよって、
奈具の村に鎮まった。








登由宇気神
(豊受大神、豊受大御神、豊受皇神)。
天孫降臨において、
天津日子番能邇邇芸命に随伴した神で、
度相(わたらい)に座す神。
『止由気宮(外宮)儀式帳』によると、
ある晩雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ
「自分一人では不便で食事も安らかにできないので、丹波国比沼真奈井にいる吾が御饌の神、 等由気大神を呼び寄せ給え」といわれたので、
丹波国から伊勢の度会(わたらい)の山田の原に遷宮し大宮を建てて鎮座したのが外宮であるという。

これによると、
丹波国の天女・豊宇賀能売命と同じ神ということになるが、 外宮の記述は後人の加筆とする見方が強いらしい。









豊岡姫命は、
『陸奥国風土記』逸文に 「白川郡。飯豊山。此の山は豊岡姫命の忌庭(ゆにわ)なり」とあり、 飯豊青尊が御幣を奉った神。
豊宇気毘売神同様、食物神・豊作神である。

食物神・稲霊神であることから、豊受大神を宇迦之御魂神(倉稲魂神、稲荷神)や保食神などの食物神・稲霊神と同神であるとする説もある。








他には、。。


豊鍬入姫命、
初代の御杖代はトヨスキヒメ。
トヨスキヒメは10代崇神天皇の娘です。
トヨスキヒメは『古事記』
で豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)と伝えられている。。


御杖代(みつえしろ)。
御杖代というのは、アマテル神の御神体
(八咫鏡)を身に託され、神を祀り、神の言葉を取り次ぐ巫女のような存在。

またの名を斎王(さいおう)・・・
サコクシロ内宮(全世界の中心宮)で、
アマテル神を守る役目。









また、こういうものも本足跡

 伊勢神宮の内宮所伝本、
『倭姫命世紀』の冒頭に、次のように記されています。

 何よりも大切なことは「ミケツ神である豊受大神〈大宜都比売神〉と
現身(うつせみ〉の天照大御神が、前もってかくれたる契りをむすび、ながく天下を治めた」と記録していることです。
ここに大嘗祭、当夜の穀靈と現身との合体
「かくれたる契り」が、
伊勢神宮「内宮・外宮」のペアという表現と一致しているのです。


大宜都比売、大気都比売神、
大宜津比売神、大気津比売神

オオゲツヒメ、オホゲツヒメ、
オオゲツヒメノカミ、



阿波の穀靈・大宜都比売神






































ちなみに。。にくきゅうmusiclove

京丹後市!ピンクグラといえば!!…キラキラキラキラ







静御前<悲運の英雄に愛された舞姫>

ゆかりの地:京丹後市網野町磯
網野町磯で生まれ、京の都で指折りの
白拍子として有名になり、源義経に見初められました。
義経と頼朝の不仲により義経と共に追われる身となり、吉野山中で義経と別れ故郷の網野町磯に戻り、夫の無事を祈りました。

磯周辺には静御前を祀る「静神社」や
義経が訪れた時にまつわる岩などが残されています。



本に