美男美女の多い『平家一門』を問わず、
当時の『宮廷』にあって
『光源氏の再来』と称された
『平氏一門の嫡流』・平維盛 ‼。。


 美貌の貴公子だったそうで、
「今昔見る中に、ためしもなき」
「容顔美麗、尤も歎美するに足る」
などと評されていたらしい。

後白河法皇50歳の祝賀では、
烏帽子に桜と梅の枝を挿して
『青海波』を舞い、あまりの美しさから
『桜梅少将』と呼ばれた。

本足跡




維盛少将出でて落蹲入綾をまふ、
青色のうえのきぬ、
すほうのうへの袴にはへたる顔の色、
おももち、けしき、
あたり匂いみち、みる人ただならず、
心にくくなつかしきさまは、
かざしの桜にぞことならぬ。 

筆
























『平家物語』…【平維盛の入水】
 
 さて、『熊野三山』を詣でた平維盛
(たいらのこれもり:1158年~1184年)の一行……

 『熊野三山』の参詣を無事にお遂げになったので、
『浜の宮』と申す『王子』の御前から一葉の舟に棹さして、万里の蒼海にお浮かびになる。
遥か沖に山成(やまなり)の嶋という所がある。
それに舟を漕ぎ寄せなさって、岸に上がり
大きな松の木を削って、中将の名札を書き付けられた。
「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海(じょうかい)、
親父内大臣左大将重盛公、法名浄蓮(じょうれん)、
三位の中将維盛、法名浄円(じょうえん)、
生年27歳、寿永3年3月28日、那智の沖にて入水す」
と書き付けて、また沖へ漕ぎ出しなさる。

 決心していたことではあるが、今際のときになったので、気が滅入るようで悲しくないということはない。
頃は3月28日のことなので、海路は遥かに霞わたり、
あわれをもよおす類いの景色である。
ただ大概の春でさえも、暮れ行く空は物憂いものだが、ましてや今日を限りのことなので、気が滅入ったことであろう。
沖の釣り舟が波に消え入るように思われるが、
さすがに沈みはしないのをご覧になって、
自分の身の上はと思われたのであろうか。

 雁が北国を目指して飛んでいくのを見ても、
故郷の妻子への便りをことづけたく、また蘇武が雁に手紙を託した悲しみに至るまで、思いやらないことはなかった。
「これは何事か。今なお妄執が尽きないとは」
と思い返しになって、西に向かって手を合わせ、
念仏なさる心のうちでも、
「すでにただ今が自分の最期のときであるとは、
都ではどのようにかして知っているだろうし、風の便りの言づても、今か今かと待っていることだろう。
自分が死んだことは最期には知れることだろうから、この世にないものと聞いて、どんなにか嘆くであろう」
などと思い続けられなさったので、
念仏を止めて、合掌の手を崩して、『聖』
(※滝口入道。
もと、平重盛に仕えていた武士、斉藤時頼。
恋人・横笛への思いを振り切るために出家し、
女人禁制の高野山で修業を積み、大円院第8代住職となった。※)に向かっておっしゃった。

 「嗚呼、人の身に妻子というものは持ってはならないものであるのだな。この世でものを思わせられるだけでなく、後世菩提のさまたげとなる口惜しさよ。
ただ今も思い出しているぞ。このようなことを心中に残せば、罪が深いと聞いているので、懺悔するのだ」

 『聖』も哀れに思われたけれども、自分まで気が弱くなってはできなくなるだろうと思い、涙をこらえ、
そのような様子は見せずに相手して申し上げた。

 「まことにそのようには思われましょう。
身分の高い者も低い者も、恩愛の情というものは人の力でどうこうできないものなのです。
なかでも夫婦は、一夜の枕を並べるのも
五百生の宿縁(※ごひゃくしょうのしゅくえん
:500度生まれ変わる前から結ばれている縁※)
と申しますので、先世の契りが深いのです。
生者必滅、会者定離は浮き世の習いでございます。

 末の露(もとのしずく)のためしもあるので、
たとえ遅い早いの違いはあっても、遅れ先立つ御別れを最後までしなくて済むというようなことがございましょうか。
かの離山宮での玄宗と楊貴妃の秋の夕べの約束も、
ついには心を悲しませるきっかけとなり、
漢の武帝が甘泉殿に妻の生前の姿を描かせたというが、その恩愛の情も終わりがないということではない。


松子・梅生(※しょうし・ばいせい
:ともに漢の仙人※)にも死の悲しみはある。
等覚・十地(※とうがく・じゅうじ
:等覚は菩薩の中の最上位、
十地は等覚に次ぐ菩薩の位※)
でもやはり生死の掟には従う。
たとえ長生きの楽しみをお誇りになるとしても、
このお嘆きはお逃れになることができない。
たとえまた百年の齢をお保ちになるとも、
このお恨みはただ同じことと思われましょう。

 『第六天の魔王』という外道は、欲界の六天を我が領土とし、なかでも欲界に住んでいる衆生が生死を離れて悟りを得ようとすることを惜しみ、あるいは妻となって、
あるいは夫となって、これを妨げようとします。

 三世の諸仏は一切衆生を我が子のように思われて、
再び他の世界に戻ることのない極楽浄土に進め入れようとなさるが、妻子というものは限りもない遠い昔からずっと生死の世界に流転する絆となるがゆえに、
仏はきつく戒めになるのです。

 妻子が恋しいからといって気弱にお思いになってはなりません。
源氏の先祖の『伊予の入道』、頼義
(らいぎ、よりよし)は、
勅命によって奥州の安倍貞任(あべのさだとう)
・宗任(むねとう)を攻めようとして、
12年の間に人の首を斬ること1万6千人、山野の獣や川の魚が他の命を絶つことは幾千万か数はわからない。
そうでありながら終焉のとき、一念の菩提心を発したことによって、往生の願いを遂げたと受けたまわっています。

 なかでも出家の功徳は莫大であるので、先世の罪障はみな滅びるでしょう。
たとえ人が高さ三十三天まで届くまでの七宝の塔を建てようとも、1日の出家の功徳には及びません。
たとえまた百年千年の間、百人の『羅漢』
(※阿羅漢(あらかん)に同じ。最高位の修行者※)
を供養したとしても、その功徳は1日の出家の功徳には及ばないと説かれています。
罪の深かった頼義は心強く道を求めたので往生を遂げました。
さほどの罪業がおありでないのに、
あなたはなぜ浄土へお参りにならないのですか。

 そのうえ、当山の権現は本地阿弥陀如来でございます。
阿弥陀如来はその四十八願の第一願「無三悪趣」の願から第四十八願の「得三宝忍」の願まで、一々誓願していらっしゃるので、衆生化度の願が叶わないということはない。
なかでも第十八願では
「もし自分が仏になったときに、十方の衆生が真心をもって自分を信じ極楽に生まれようとして念仏を10遍唱えてなお極楽に生まれることができない者があれば、
自分は正しい悟りを開いたといえない」
と説かれたので、1度ないし10度の念仏で極楽往生できる望みはあります。

 ただ深く信じて、ゆめゆめお疑いにならないように。
2つ都内真心をこめて、あるいは10遍、あるいは1遍でもお唱えになるならば、
弥陀如来は六十万億那由他恒河沙の無限大に大きな体を縮めて1丈6尺のお姿で現われ、
観音勢至の2菩薩以下の無数の菩薩が百重千重に弥陀を取り巻き、音楽詠歌を奏して、ただ今極楽の東門を出て来迎しなさるので、御身は蒼海の底に沈むとお思いになるとも、紫雲の上にお上りになるのです。

 成仏得脱して悟りをお開きになれば、娑婆の故郷に立ちかえって妻子をお導きになることもできます。
少しも疑ってはなりません」
と言って、鐘を打ち鳴らして進め申し上げた。

 中将は今が極楽往生の絶好の機会だとお思いになり、たちまちに妄念をひるがえして、
声高に念仏を100遍ほど唱えつつ、
「南無」と唱える声とともに、海へお入りになった。
兵衛入道も石童丸も、
同じく御名を唱えつつ、続いて海へ入った。

与三兵衛重景(よそうひょうえしげかげ
:平維盛の乳母子)と石童丸(いしどうまる)は、
『屋島』の陣中から逃亡したときから連れていた従者。
『高野山』で維盛とともに出家しています。
 維盛は享年27。兵衛重景は享年26~27。
   石童丸は享年18。
若き命が『熊野の海』に沈みました。

 維盛が『熊野の海』に『入水』したことは都にも伝わり、親交のあった建礼門院右京大夫はその死を悼み、
歌を詠んでいます。


春の花 色によそへし 面影の
むなしき波 のしたにくちぬる


悲しくも かゝるうきめを み熊野の
浦わの波に 身を沈めける


📕 筆








那智の沖。。『山成島』


『那智』…「補陀洛山寺」の裏山には、
「維盛」と
『壇ノ浦』で安徳天皇を抱いて入水した
「平時子(二位の尼)」の
『供養塔』が建てられている。 

本足跡

















平家きってのイケメン
・桜梅の少将 平維盛 ‼

「平 維盛」 (たいら の これもり)

はじめに
平維盛は1159年に、
平重盛の嫡子として生まれます。

父の重盛は、あの平清盛の嫡子です。

維盛は立ち居振る舞いの優美なイケメンで、
『桜梅の少将』というあだ名もありました。

どれほどのイケメンだったかというと、
なんと『光源氏の再来』とまで言われたほどです。

【誰もが認めた美男】
1176年の3月、18歳の維盛は
後白河法皇の50歳を祝う宴で、
『青海波の舞』を披露します。

維盛の舞う姿を見た人たちが絶賛していたことが、『建礼門院右大夫集』に書かれています。

「(維盛の美しさには)
花ですら圧倒されてしまいそうだ」

この文章から、維盛が誰もが認めるイケメンだったということがよく伝わってきます。




【武人としての維盛】
美男として名をはせた維盛ですが、
彼は源平最初の全面衝突となった
『富士川の戦い』において大将を務めています。

『平家物語』や『吾妻鏡』では、
源頼朝が率いる軍勢が維盛率いる軍勢を退けた戦いとして描かれていますが、
頼朝は戦場に間に合わなかったので、
実際は『甲斐源氏』と維盛率いる軍勢の戦いです。

 

『富士川の戦い』が始まる前。

陣を構えた時点で、維盛軍からはすでに数百名が投降していました。
現地の平氏勢力は『甲斐源氏』に二度敗北し、
維盛軍の士気は低くなっていたのです。

そのうえ維盛軍は『駆武者』を多く抱えていました。
『駆武者』とは
仕える家への奉公のために戦う武士と違い、
あちこちから集められた戦闘要員のこと。

そのため、意欲が欠けている者が多かったのです。

駆武者たちが次々と離脱するなか。
『甲斐源氏』の軍勢が行動を起こし、
驚いた水鳥が一斉に飛び立ちました。

すると、その音を聞いた維盛の軍勢は、
大軍の襲来だと思って大混乱に陥ります。

その結果、戦わずに退却することとなり、
『富士川の戦い』はあっけなく終わりました。

そして、後の『倶利伽羅峠の戦い』でも、
維盛は敗北しました。

 



『富士川の戦い』⚔️






『倶利伽羅峠の戦い』⚔️








1183年。
平家は『都落ち』し、維盛は妻と子と別れます。
維盛の妻は、藤原成親の娘で、いわば仇敵でした。
なので別れたのは、一門からの風当たりを考慮してのことでしょう。

この際、有力郎等も離反してしまい、
その結果、維盛は平家内での居場所をなくしてしまうことになります。

 



【那智の海に散る】
翌年、九州まで落ち延びた平氏一門ですが、
維盛は妻と子への恋しさで『屋島』を抜け出し、『熊野』へ向かいます。

そして『熊野参詣』の後、
『那智の海』で命を絶ってしまいます。

『光源氏の再来』と言われた維盛ですが、
武人として名を挙げることは叶いませんでした。

しかし、『建礼門院右大夫集』に、
「平家の公達はどの人も素晴らしいけれど、やはり維盛様は格別に思う」とあります。

『桜梅の少将』と呼ばれた維盛が、権勢を誇った平氏栄華の時を華々しく彩ったのは、
間違いないことでしょう。

本足跡








清盛 。。。 重盛 。。。 維盛 。。。






序盤の‼…大事な【二大決戦】!!✨⚔️

そこで大将を務めるも‼…続けざまの大敗!!

ゆえに …。。。
『無能なイケメン』などと、揶揄されることに
。。。














『源平合戦』が激化するにつれて、
都に悲報が次々に届きました。
維盛が『熊野で入水』したと聞き、
建礼門院徳子の女房右京大夫は
言いようもなく悲しく思い、
彼の見事な舞姿を回想し
『建礼門院右京大夫集』に記し留めています。
この家集の215と216番の長文の詞書によれば、
安元 2 年(1176)3月4日から6日にかけて、
後白河院の五十歳を祝う(長寿の祝)宴
が法住寺殿で催されました。
賀宴の最終日、18歳の維盛が
『青海波』(せいがいは)を舞う姿に
『源氏物語』の【紅葉賀】(もみじのが)
を思い浮かべた人々は、
その姿を称賛しあまりの美しさに
『光源氏の再来』ともいいました。








その頃の平家は栄華を誇り、
居並ぶ平家の公達の華やかで
優雅なさまや大がかりな『垣代』(かいしろ)が維盛の舞をさらに盛りあげました。
『垣代』とは、
『青海波の舞』の時、舞人と同じ装束で笛を吹き拍子をとりながら、
垣のように舞人を囲んで庭上に立ち並ぶ
40人の楽人のことで、
院政期にはとくに選ばれた公卿の子弟が
担当しました。

維盛の晴れ姿は当時の語り草であったようで、
『平家物語・巻10・熊野参詣』に
那智籠りの僧の述懐が記されています。
「『屋島の陣』をひそかに抜け出し3人の従者とともに高野山に赴き出家した維盛は、
かつて『小松家』に仕えていた滝口入道
(斎藤時頼)に導かれ、父重盛が崇拝していた『熊野』に参詣しました。
那智籠りの僧の中に維盛を見知っている者がいて、後白河院の『五十の賀』で
桜の花を頭に挿し『青海波』を舞われた時は、
露に濡れてあでやかさを添える花のようなお姿、風にひるがえる舞の袖、
地を照らし、天も輝くばかりで、内裏の女房達に深山木の中の桜梅(やまもも=楊梅)のようなお方などといわれたお方でした。
と仲間の僧に語り、
そのやつれ果てた姿に袖を濡らしました。」
維盛は『青海波』を舞って以来、
『桜梅の少将』とよばれたという。

維盛が右少将成宗(藤原成親の次男)と
『青海波』を舞い、
人々に称賛されたことは
藤原隆房の『安元御賀記』にも見え、
九条兼実はその日記『玉葉』に
「相替り出で舞ふ ともにもって優美なり
なかんずく維盛は容顔美麗、
尤も歎美するに足る」と
維盛の舞に深く感動したことを記しています。 

平安時代中期に紫式部によって著された
『源氏物語』は、
その後の日本文学に絶大な影響を与え、
この物語に影響を受けた文学作品が次々と生み出されました。
鎌倉時代末期に成立した『平家物語』も
その影響を受けた作品です。

『源氏物語』紅葉賀の巻に
光源氏が『青海波』(舞楽の曲名)を舞って
人々が感激の涙を流し、絶賛したという記述があります。
藤壷が光源氏との不義の結果妊娠したことを知らぬ桐壺帝は、
藤壷の懐妊を大層喜び、藤壺が
朱雀院の50歳の式典に参加できないのを残念がり、試楽(リハーサル)を催し、
光源氏は頭(とうの)中将とともに
『青海波』を舞いました。

本足跡




























『平維盛の木像』

平安時代末期の武将。
平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。
平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には『光源氏の再来』と称された。
『治承・寿永の乱』において大将軍として出陣するが、『富士川の戦い』
・『倶利伽羅峠の戦い』の二大決戦で
壊滅的な敗北を喫する。

父の早世もあって一門の中では孤立気味となり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、
『那智の沖』で入水自殺したとされているが、
芸濃町河内には維盛がこの地に移り住んだという伝説がある。
維盛は53歳まで生き、「成覚寺」には
『維盛の墓』と『木像』が伝わる。


本足跡















































✨✨













本州最南端近く、和歌山県那智勝浦町に
「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)
という名刹がある。

『うつぼ舟』と呼ばれる小さな舟に
わずかばかりの食料と水を積み込み、
南方海上にある観音浄土を目指す。
そこは百花百村(びゃっかひゃくそん)、
色鮮やかな花が咲き乱れる楽園だと言う。
悩みや苦しみの多い此岸(現実世界)から、
彼岸へと旅立つ『補陀落渡海』である。

「補陀洛山寺」に携わっている
「那智山青岸渡寺」の高木亮英副住職に話を聞いた。
「熊野の地は蘇りの聖地です。
補陀落渡海も擬死再生なんだと思います。」
しかし、『補陀落渡海』は
命を懸けた修行である。
「物理的に考えるとナンセンスですが、
宗教というのは心の内面の世界。
観世音菩薩様の前に行きたいと思うのは、
極めて純粋な気持ちだったのでしょう。」
と語る。 

 しかし、中には黒潮の流れに逆らい、
沖縄にまで辿り着いた渡海上人がいた。
16世紀に『補陀落渡海』を試み、
沖縄県金武村の海岸に漂着した日秀上人だ。
『那智の浜』を旅立ち1100キロ彼方の沖縄に辿り着いた時は、デイゴの花咲くこの地こそ『観音浄土』だと思った事だろう。
その後、当地に『補陀落院観音寺』を建立し、
那覇市にある【琉球八社】の一つ『波上宮』(なみのうえぐう)などを再興し、
精力的に『熊野信仰』を広げたという。
擬死再生。まさしく、海の彼方で擬死再生を得たのだ。
『琉球王朝』と『熊野』を結ぶ物語は
今も静かに続いている。

『那智の浜』にて上人を思い手を合わせる
熊野修験の導師でもある高木副住職。
渡海の初期は上人だけでなく多くの同行と連れ立って『補陀落』(ポータラカ)を目指した。


本足跡









霧がかった熊野 。。。











『熊野』。。を感じられる

神々をすごく感じられる 。。。

霧がかった この風景 …。。。✨


























「補陀洛山寺」

世界遺産にも登録。
南方に『補陀洛浄土』を目指し
渡海する上人達の出発点。


『補陀洛渡海』とは、
平安時代から江戸時代にかけて、
小さな船に閉じこもり30日分の脂と食糧をたずさえて、生きながらにして南海の彼方にあると信じられていた観音浄土を目指すというもので、「補陀洛山寺」は
『補陀洛渡海』の出発点として知られる寺です。

本足跡

































「補陀落山寺」






「補陀洛山寺」

【所在地】
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348

【位置】
北緯33度38分41.01秒
東経135度56分3.97秒


【山号】
熊野山

【宗派】
天台宗

【本尊】
三貌十一面千手千眼観音

【創建年】
伝・仁徳天皇治世(4世紀)

【開基】
伝・裸形上人



【文化財】
木造千手観音立像(重要文化財)

【世界遺産】
補陀洛山寺
境内は国の史跡『熊野三山』の一部。
ユネスコの世界遺産
『紀伊山地の霊場と参詣道』
(2004年〈平成16年〉7月登録)の
構成資産の一部。




『沿革』
仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて
人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で
那智の浜から旅立った宗教儀礼
『補陀洛渡海(補陀落渡海とも)』
で知られる寺である。

江戸時代まで『那智七本願』の一角として
大伽藍を有していたが、文化5年(1808年)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。
その後長らく仮本堂であったが、
1990年に現在ある室町様式の
高床式四方流宝形型の本堂が再建された。

隣接する『浜の宮王子社跡』には
「熊野三所大神社」
(くまのさんしょおおみわしゃ)が建つ。





【文化財】
重要文化財

木造千手観音立像
(三貌十一面千手千眼観世音菩薩) - 本尊。
像高172cm、一木造、平安時代の作。
1982年(昭和57年)6月5日指定。



【史跡】
熊野三山
 - 補陀洛山寺境内は
国の史跡『熊野三山』の一部である
(2000年〈平成12年〉11月2日指定、
2002年〈平成14年〉
12月19日分離・追加指定・名称変更)。




【和歌山県または那智勝浦町指定文化財】

銅花瓶 1口
 - 享禄2年(1529年)3月18日の陰刻銘あり。
県指定有形文化財
(美術工芸品、
1971年〈昭和46年〉3月22日指定)。

銅仏餉鉢 1口
 - 天正5年(1577年)祐善が寄付。
県指定有形文化財
(美術工芸品、
1971年〈昭和46年〉3月22日指定)。

那智曼荼羅 1幅
 - 町指定有形文化財(美術工芸品、
1971年〈昭和46年〉3月26日指定)。

梵天立像1躯
 - 町指定有形文化財(美術工芸品、
1985年〈昭和60年〉8月1日)。

帝釈天立像 1躯 
- 町指定有形文化財
(美術工芸品、
1985年〈昭和60年〉8月1日)。


補陀洛山寺の渡海舟の板絵 2枚
 - 町指定有形文化財
(絵画、
1991年〈平成3年〉2月13日指定)。





【その他】

渡海船遺物 - 享禄4年(1531年)に
渡海した足駄上人の渡海木礼、渡海上人位碑、
渡海船の部材が現存する。


脇侍 - 持国天・広目天像(平安中期)


「日本第一補陀洛山寺」の勅額
(伝文武天皇と一条天皇の宸筆)



『平維盛 供養塔』
『平時子 供養塔』



【祭礼・行事】
1月27日 『立春大護摩供星祭祈祷会』
5月17日 『春祭り・渡海上人供養』
7月10日 『土用護摩供・先祖供養』








『補陀洛渡海』
『補陀洛』は『華厳経』では
インドの南端に位置するとされる。
またチベットのダライ・ラマの宮殿が
『ポタラ宮』と呼ばれたのもこれに因む。
中世日本では、遥か南洋上に『補陀洛』が存在すると信じられ、これを目指して船出することを『補陀洛渡海』と称した。
記録に明らかなだけでも日本の各地
(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から
40件を超える補陀洛渡海が行われており、
そのうち25件がこの「補陀洛山寺」から出発している。





『渡海船』
船上に造られた屋形には扉が無い。
屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されるためである。
その屋形の四方に4つの鳥居が建っている。
これは
『発心門』『修行門』『菩薩門』『涅槃門』
の【死出の四門】を表しているとされる。

渡海は北風が吹き出す旧暦の11月に行われた。
渡海船は伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。
もちろん、船の沈没前に渡海者が餓死・衰弱死した事例も多かったであろう。
しかし、船が沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない。



『補陀落渡海船』。。。

【『補陀落渡海船』の復元。
詳細データはないが、
絵巻を元に復元された和船。
内部は約1畳あり入室後は釘で閉ざされた。】














“ 捨て身 ” の修行 …。。。





















「熊野三所大神社」



『浜の宮王子社跡』




浜の宮 の 大楠 !!































『神武天皇頓宮跡』








『渚の森』






『若宮跡』












「熊野三所大神社」
 (くまのさんしょおおみわしゃ)


『熊野詣で』が盛んだったころには、
『浜の宮王子』とも
『渚宮王子』、『錦浦王子』とも呼ばれ、
『熊野九十九王子』のひとつで、
【中辺路】・【大辺路】・【伊勢路】
の分岐点となっていました。
那智山参拝前にはこの王子で
『潮垢離』(しおごり
:海水で身をきれいにすること)を行って、
身を清めたといわれています。



旧社格:村社


【主祭神】
夫須美大神(ふすみのおおかみ)
家津美御子大神(けつみこのおおかみ)
速玉大神(はやたまのおおかみ)















丹敷戸畔 。。。

三狐神 。。。


























『補陀落渡海上人の墓』







『補陀落渡海』 。。。

『渡海上人』 …。。。




【渡海者と金光坊】
渡海者たちについて詳しく記した資料は残っていないが、初期は信仰心から来る儀礼として『補陀洛渡海』を行っていたと考えられている。
平安・鎌倉時代を通じて6名が渡海したと、「補陀洛山寺」に建つ石碑に記されている。
これが戦国時代になると
60年間で9名もの渡海者が現れたという。
この頃になると、『熊野三山』への参詣者が減少したことから、
『補陀洛渡海』という捨身行によって
人々の願いを聞き届けるという形で宣伝され、勧進のための手段としての側面が現れたとされる。

16世紀後半、金光坊という僧が渡海に出たものの、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こった。
後にその島は『金光坊島(こんこぶじま)』とよばれるようになり、またこの事件は井上靖の小説『補陀落渡海記』の題材にもなっている。
江戸時代には住職などの遺体を渡海船に載せて水葬するという形に変化したようである。






 「金光坊」の出家は十代半ばでした。
住職の座に就くには
程遠い若さであった金光坊には
切り去ることの出来ない記憶がありました。

三代前の住職が『渡海』の当日、
普段に増して静かな表情で小船に乗り込みました。
その「裕信上人」を見送ったのが
金光坊27歳の時でした。
「裕信上人」が同じ『田辺』(田辺市)の出身だったことがより親しみを持たせ、
日頃から読経に没頭している物静かな姿に『僧』としてめざす自身の理想を見ていたのです。

もう一人はその10年後に『渡海上人』として船出した「正慶上人」。
61歳になる住職は小柄な体格でシワの多い顔は随分年上に見えていました。
普段からの気さくな応対に本山僧・住民からの信頼は絶大なものがあり『渡海』当日、
集まった大勢の住民に囲まれ、
溢れんばかりの笑顔で接する「正慶上人」、泣いているのは見送りの住民たちだったのです。

「裕信上人」は静かな表情、
「正慶上人」は離岸の時まで笑顔で手を振りながら没して行った。
確実な『死』に対するこの差は何だったのでしょう。

この27年後、「金光坊」61歳は
「補陀洛山寺」の住職として『渡海』の日を迎えました。
が、結果「脱出」することになり
役人たちに殺されてしまうのですが、
逃げた「金光坊」の選択を
許したい気持ちで一杯になってくるのです。




























『平維盛の供養塔』
『平時子の供養塔』



『二位の尼 (平時子 )



『二位の浜』







平 維盛 ‼ 。。。











✨✨✨









































✨✨































「潮崎本之宮神社」
 (しおざきもとのみやじんじゃ)


和歌山県東牟婁郡串本町串本1517 



【神紋】
三つ巴

式内社 紀伊國牟婁郡 海神社三座
旧郷社


【御祭神】
底筒男命 中筒男命 表筒男命




串本町、潮岬の付け根にあたる。
串本高校の西に鎮座。
拝殿脇に、
見事な柏槙(びゃくしん)の巨木がある。

式内社・海神社の論社の一つ。
元禄十年の『由緒』によれば、
当社の建立は応神天皇によるもの。

天明八年の『縁起』では、
応神天皇が
「南海に船を浮べ大水門浦へ御船を寄せさせ給ふ其時此社を建てさせ給ひ三神の大神を
祭り給ひて海神社御本宮と号す」とある。

通称、『元の宮』と呼ばれ、境内からは
弥生式土器なども出土し、近くには笠島遺蹟がある。

大正十四年郷社に昇格した。

質素な拝殿の後方に、
南向き・権現造の本殿がある。
境内は広いのに、社殿は窮屈な場所にある感じだ。




潮岬本之宮神社 旧郷社
西牟婁郡串本町

祭神 
底筒男命 中筒男命 表筒男命 

例祭 
一〇月一五日 

『由緒沿革』
神功皇后の御時、坂、忍熊の二王の 
不軌を計るに遭い給うたので皇后は
武内大臣をして皇子(応神天皇)を奉じて
紀伊に赴かしめ、大水門浦に御船を寄せさせ給せ、住吉の大神を祭られたと云われている。

大正一四 年郷社に昇格す。
境内に柏槙の老樹あり珍木 として有名である。


『神社名鑑』。。本足跡








『神功皇后』と『住吉大神』‼。。。






















トルコのお守り『メドゥーサの目』



国道42号線を南下し、海中公園を過ぎてしばらく車で行くと371号線との分岐を過ぎて
JRの線路から離れて走るようになってすぐの右カーブのところの左手の道路際に
不思議な円盤状のものが見えます。


これはトルコでよく見られる
『ボンジュック』と呼ばれる
トルコブルーの目玉のお守りです。
ガラスや陶器などいろいろな材質で作られ、
形は円盤状のものが多いようです。

毛髪は毒蛇で、見た物を石にすると言う
ギリシャ神話のゴルゴン3姉妹の末娘
「メドゥーサ」の『目』であると言われています。
英雄ペルセウスに退治された
「メドゥーサ」のこの『目』は、
他人の邪悪な目や悪意からこのお守りを身につけている人を守ると信じられています。
芝桜の季節には、このあたりの道路は
『芝桜ロード』と呼ばれ、この目玉のまわりも芝桜のピンク色になってとても美しいようです。

本足跡





































トルコブルー









まぐトル



『まぐトル』
…串本町のマスコットキャラクター


『串本町』内で
養殖が盛んなクロマグロをモチーフにし、
トルコの民族衣装を着ています。
胸にはトルコのお守り
『ナザール・ボンジュウ』をつけています。

本足跡















『ナザールボンジュウ』 



【目のお守り、ナザールボンジュウとは?】


『ナザール』は、
邪視や災い、悪魔の視線

『ボンジュウ』は
ビーズと言う意味


『ナザール・ボンジュウ』は
「邪視のビーズ玉」という意味です。
実際、英語では Evil eye と呼ばれています。

 

そんは名前とは裏腹に
【魔除け】としてトルコでは圧倒的な支持を誇っています。

青いガラスに中心から青色・水色・白色の着色で目玉が描かれていて、
邪視から災いをはねのけてくれると信じられています。

割れたり紐が切れると、身代わりになって守ってくれたと考えるそうです。


要するにトルコの国民的な
魔除けのお守りみたいなものですね。

トルコでは代表的なお土産で、
どこのお土産屋にもだいたい大量の
『ナザール・ボンジュウ』が並んでいるそうです。






【どういう風に使われているの?】

かわいい赤ちゃんが生まれた時や車、家、
お店など、人が羨むようなものには
悪魔が悪さをするとされています。

そのため『ナザールボンジュウ』を
身に付けたり、飾ったりします。
これで悪魔が来ても「凶眼の魔力」により
悪魔を追い払うのです。


トルコでは普通寝室に飾ったり、
玄関に飾ることの方が多いようです。
日本ではブレスレットタイプのものが人気なので、トルコの人からするとアクセサリー的に身につけている『ナザールボンジュウ』を見ると
「あれっ?身につけている…!?
珍しい…!!」って思うらしいです。

偏ったトルコ人の意見かもしれませんが…笑





【ナザールボンジュウばかり
ぶら下がっている木とは?】

『ピジョンバレー』にある
『ナザールボンジュウの木』だそうです。
ビザンチン時代に建てられた地下都市で有名な『カッパドキア名物』の一つでもあります。




この木は『ギョレメ国立公園』の中の木で、
この一帯の建物と木によって侵略者から
都市を守ることが出来たという言い伝えも。

外からの侵略者の影を感じて生きていたため、
標的にならないように
『ナザール・ボンジュウ』をたくさん飾って祈ったのでしょう。


『ナザールボンジュウ』♪。。
魔除け云々は置いておいても
エキゾチックで可愛いですよね。

本足跡

















ぁ。。この辺りの近くだね…。。。✨








『ニシキトベ』