14、15歳を対象に

採用した最年少の志願兵


もし、長男が

戦中に産まれていたら。。。




医療とか健康は、

感謝とか挨拶と同じように


「いいものに決まっている」と

思われがち


ですが


その先入観にとらわれていると、

期待どおりに機能しなかったときに

やりかたを変えることができません。


さらには、その背景にある

大きな文脈を見逃すかもしれません。






 


「来年、弟がこの高校にくるはずで、弟のほうが俺より頭がいいからよろしく」って言ったら、


先生が「それは、たいしたものだな」って、言ってくれたとか


おにぃちゃんのお友だちが遊びに来たときに「優秀な弟は?」とりくに会いたがったりとか。


これらのエピソードからはおにぃちゃんがうちの兄弟は弟のほうが優秀だと思っていて、そのことを、周囲に惜しげなく漏らしていたらしいことがわかった。


 


「りんご」と発音するのは 
構音機能の発達が遅延しているりくにとっては結構難しく、 りくの発するそれは 陰謀 に聞こえたのだが 

日常生活のなかで

幼児が突然 陰謀の存在 を語りだすことはないわけだから りくが「陰謀」と言ったら「りんご🍎“のことなのだと家族が認識してさえいれば、

その未熟さは、とりたてて生活上の支障に結びつくことはない。

りくが受験した年度の共通テストで、 英語が難化したと騒がれ 

受験生が 「わからない単語が多かった」とコメントする様子が報道されていたので、りくの感想を聞いたら 

「わからない単語は結構あったと思うけど、設問の答えには関係ないものがほとんど」と答えた。

 


機関銃の弾が飛び交い耳をかすめた。当たれば致命傷。それでもかまわず「くたばれ」と叫び、魚雷発射のレバーを引いた。

14歳で海軍に志願し、インドネシア中部に送り込まれた鈴木忠典さん(94)=東京都大田区。

「戦場では
敵だけではなく、

亡くなった仲間への
思いやりさえも
持てなかった。

それが戦争の
むごたらしいところだ。
戦争ほど
惨めなものはない


秋田県横手市出身。6人兄弟の5番目で「特徴も何もない、ぼんくらな子どもだった」という。

そんな少年の心に、海軍艦隊が堂々と隊列を組んで進むニュースが

まぶしく映った。

1943年、14歳のときに
海軍特別年少兵に志願。

海軍横須賀海兵団に入団し、水雷学校の特別訓練科で魚雷の発射方法などの訓練を受けた。



  死ぬことを教える学校だ


 入校式での校長の言葉をいまだに覚えている。

死ぬことを教える学校だ。

君たちには
太平洋の防波堤に
なってもらいたい

鈴木さんは

日本が劣勢であると

気付いたからこそ


「よしやるぞという勇気が余計に出てきた。戦死した、手柄を立てたというようなニュースでいっぱいだから。

いつの間にかそういう雰囲気の中に
入ってしまう」


年末に戦地行きが決まり、3日間の休暇が与えられた。「母親の手を握ってから行きたい」と思ったが、帰るには片道19時間。あきらめた。

故郷へ向かう列車が通る上野駅15番線ホームに立ち敬礼した。

「戦死するかもしれません。
国のための戦死を
親孝行と思ってください」

翌44年2月、インドネシア中部セレベス島マナドの海軍基地に配属された。

ある日、港から25キロ先に敵の艦隊を発見し、鈴木さんにも攻撃命令が下った。

魚雷2本を積んだ小さな魚雷艇に8人が乗り込んで出撃。

敵艦まであと3キロの地点で発見され、機関銃で応戦された。

銃弾の雨の中、
「突っ込め」「くたばれ」と叫んで近づいた。

指揮官の命令で魚雷を発射し一目散に引き返した。

「後ろを見たら、ものすごい火柱が上がって、音がしている。
当たった、当たったと仲間の肩をたたきながら喜んで帰った」

しかし

この日攻撃に向かった8隻のうち、3隻は帰ってこなかった。
24人ほどが戦死したことになる。

それでも
「悲しいとは
特別思わなかった。
いつ自分たちも
やられるかわからない。
戦争っていうのはそういうものなんだね。」

その後、魚雷の補給が止まり、鈴木さんは配置換えで、潜水艦に乗り硫黄島や沖縄に武器や食料を輸送する任務を担った。

終戦を迎えた時、
訓練科で同期だった300人中
219人が亡くなっていた。

翌年、実家に戻った。

「背中を流してやる」と
一緒に風呂に入った母親は、

ぼんくら息子の
背中にしがみついて泣いた。

「くたばれ」と叫んだ話をすると
父親は

「くたばれっていうのは、
人間の言うことじゃないんだ。
そういう心になってしまうのか」

と涙をこぼした。

「戦争ほど惨めなものはないって、

その頃分かったよな」


「私は運良く帰ってきたけど、何万人も亡くなった。」

今、学校などで体験を話す機会がある。
熱心に聞く子もいる一方、

あくびや居眠りをしている子もいる。

「年齢が違いすぎると、ぴんと来ないんじゃないかな。

むしろ

その方が幸せだよな、
戦争を知らない』
ということだから」




粗大運動発達の遅延傾向





首がすわらないことによって
気づかれた
りくのその傾向は

座ること、歩くこと、話すこと

そういうものに
少しずつの影響を与えていた。






「俺よりも、りくのほうが頭がいいよね」
中学生だったあたりの長男はそう言っていたけれども


兄弟それぞれの
乳幼児期の発達具合について

スクリーニング発達指標を
わざわざ使って
評価するなら






おにぃちゃんのほうが、ずっと
順調なのだ。


「りくのほうが
俺より頭がいいよね。」

兄にそう言わせるまでに
りくが成長発達を遂げたのだとするなら


それはおにぃちゃんが自ら志願して

弟であるりくの

踏み台になっていたためであるが、


「りくのほうが
俺より頭がいいよね。」


兄がそう思うようになったのは


それぞれの全人的なところから

学力偏差値だけをわざわざ

切り取って比較してみた結果

なのだろう。



粗大運動・言語発達遅延児だった

りくと療育


難治性頻回再発型微小変化群

小児ネフローゼ症候群を

患っていた長男と医療




ふたりの息子たちは、

同じ母から別々に産まれ


それぞれが

各々のペースで

18年の時を経て

平等に18歳になった頃

同じ身長になり同じ大学に通った。 


彼らにとってたった一人の母親である

私の記憶に残る確然たる違いは、

小、中、高校の通知表に示される


「出席すべき時間」と「出席した時間」の隔たりである。







小学生の頃は、同級生たちから壺井栄の小説「二十四の瞳」になぞらえ、「二十三の瞳」とからかわれ、「つらかった」と振り返る。

親には「なんで僕のような子を産んだのか」と食ってかかり、視力は大人になってもコンプレックスだったという。

最近見つけた小学校の通信簿に、右目の視力は「失明」と記入されていて、当時の嫌な気持ちがぶり返した。 

戦時中、『目の見えない人は、目の見えている人より耳が優れているはずだ』とされ、石川県では視覚障害者が防空監視員の任務についていた。

林さんは、「障害者が戦争に動員されていく過程には、障害者からの積極的な働きかけもあった」と語る。

岐阜盲学校校長は1942年、当時の東条英機首相に宛てて、「全国十万の盲人をして、国防の部門にその機能を発揮せしめられるの光栄を大臣閣下の英断によって与えらるることができ得るならば、まことに幸福の至り」という嘆願書を提出している。

「戦争に協力することによって、自分たちの地位向上を図るという意図もあった」と、林さんは指摘する。

「戦争で失明した
傷痍しょうい 軍人はたくさんいたが、

彼らの社会復帰や職業訓練を、
もともと障害を持っている人たちが積極的に支えていたんです」


 空襲で左目を失った      杉山千佐子さんとの出会い


杉山さんは2016年に101歳で亡くなるまで、空襲で障害を負った民間の戦争被害者への国家補償を訴え続けた。

1945年3月、名古屋上空に飛来した米爆撃機B29の一群が 焼夷しょうい 弾の雨を降らせた。杉山さんはこの空襲で崩壊した自宅の生き埋めになり、左目摘出の大けがを負った。戦後、民間の空襲被害者への補償がないことに憤り、1972年に「全国戦災傷害者連絡会」を設立。失明した人、爆弾の音で耳が聞こえなくなった人、手足をなくして肢体不自由になった人など「戦災傷害者」たちと運動を続けた。


だが、


杉山さんの願いが叶うことはなかった。原爆被災者への補償はあっても、一般の戦争被害者への補償は今も実現していない。