「優生学」とは「人類の遺伝的素質を改善することを目的として,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」だとされている。


 この言葉を善意に解釈すれば,


 たとえば,何らかの疾病を引き起こす遺伝子が特定されたとして,それを,

どうすれば親から子に遺伝しないようにできるかを研究したりすることであり,

そこにはどのような「悪」の匂いもしない。


 「病気になって地獄のような苦しみを味わいながら死んでいきたい」


 「自分が持っている疾病の遺伝子は,なんとしても子どもたちに引き継いでいってもらいたい」


などと考えている人など

いないからだ。


 だが 

こうした「純真無垢」な思想は

たやすく暴走する。



<海軍特別年少兵

(特年兵)>


1942~1945年に旧日本海軍が中堅幹部の養成を目的として


14、15歳を対象に

採用した

最年少の志願兵


4年間で約1万7000人が入隊し、5000人余りが命を落としたとされる。


映画「男たちの大和/YAMATO」

(佐藤純弥監督)の題材にもなった。




 太平洋戦争中、「特別年少兵」と呼ばれた最年少の志願兵がいた。


黒川さんは1928年、10人きょうだいの9番目として生まれ


年少兵となったのは、

14歳の時だった。



戦争により、ジャガイモやサツマイモを混ぜた麦飯を大家族で分け合う


ひもじい日々が続いていた。


国民学校高等科2年だった42年

当時の町職員が学校に

特年兵の案内を持ってきた。



 「このまま過ごしていても、


20歳で徴兵に遭う。

軍隊に行けば

食べ物には苦労しないだろう」。


そんな考えが頭に浮かんだ。


食料は

軍隊が優先された時代だ。


「自分がいなくなって

その分

家族が楽になるなら」


との思いもあり、志願した。


父に意思を伝えると

当初は返事もしなかったが、


最後に

「行ってこい」

とだけ

言ってくれた。


脳卒中で意識不明になっていた母とは、今生の別れとなってしまった。


43年、神奈川県横須賀市の海兵団で、国語や数学など現在の高校3年までの基礎科目を学んだ。


成績が悪いと「軍人精神注入棒」と呼ばれた木製バットで尻を強くたたかれ、真っ赤になった。


「怖くて

必死に勉強した」


1年間の課程を終え、同県藤沢市にあった電測学校に配属された。


レーダーで敵の飛行機を捉え、距離や角度を予測。この情報がラジオで流す空襲警報の基にもなった。


半年後、マリアナ諸島に移り、兵隊を運ぶ輸送船を護衛する任務に就いた。


しかし輸送船は、敵の魚雷や戦闘機からの攻撃で、どんどん撃沈された。


沈みゆく船から、

助かろうと必死に海に飛び込む

仲間の姿も目にした。


「離れた場所から

見ることしかできずつらかった

と振り返る。



敗色が濃くなり、輸送する船もなくなると、今度は茨城県鹿嶋市にあった神之池(こうのいけ)航空基地へと移された。 


人間が操縦して体当たりする

特攻機「桜花」の訓練が

行われていた場所だ。


特攻隊員が出発前日に酒を飲んだり大騒ぎしたり、親に手紙を書いたりしていた姿は今も覚えている。


「見送るたびに、心が苦しくなった」


「10代の若者が『国のために』と死んでいった事実を知ってほしい」


「何で戦争なんかしちゃったの?」
ひ孫(15)にこう聞かれたことがある。

「あの頃は
自由がなかった。

いつ死ぬかも分からず 
今では考えられないことを
してしまっていた」
と返すしかなかった。

10代半ばで見た戦場

記憶を呼び起こすたびに
強く思っている。

 「二度と戦争を
してはいけない」




 

幸せに生きて、ちゃんと

育っていかなきゃいけないんだよ。


幸せに育てて

大人にしなきゃいけないんだよ。


生きてるだけでいいなんて、

そんな育て方はないんだよ。


小児科医師はそう言って


「一粒のぶどう」の父娘を知っていると言った看護師も、それに同意した。



昭和40年代〜50年代

医療技術の急激な進歩の真っ只中


それ以前には「助からなかった命」が

それ以降には「助かる命」になっていった。



超低出生体重児や早産児の生存記録が次々と塗り替えられ

 

そこに立ちあい尽力することが

喜びや達成感、やりがいに繋がったことは想像に難くない。


だけれども


何gで産まれた子どもが親に抱かれ

〇〇病を克服した子どもが

親と手をつなぎ退院していった。


それは、必ずしも

幸福な家庭に帰っていったことを意味するわけではないし


同年齢の子どもたちと同じように学校生活をおくったり


年齢相応の発達課題と向き合い、克服しながら大人になっていくことが


約束されたわけではない。


長期の闘病を経験した人たちに

最も苦悩し不安を抱えていた時期を訊ねると


「診断がつく前」にならんで

「退院するとき」だったと述懐することは、そう珍しくはない。


生まれは奇跡 

歩めば軌跡 

 いろんな人生 みな貴石 


 我ら鬼籍に入るまで



 

そんな話をしたことを

忘れかけていた頃に


長男がネフローゼ症候群を発症し
寛解と再発を繰り返しながら

微小変化群頻回再発型
難治性ネフローゼ症候群という

長い診断名がついて

誰もが認める
長期欠席児童になっていた。


そんな折、ある女性が言った。
「まこさんちの長男君って
一昔前に産まれていたら
院内学級適応だよね。」


「昔は寛解していても
ステロイド内服中は
退院できなかったりもしたから」

「昔は、そんなに頻回再発だったら
退院する間がなかったの」


昔、むかしと言うけれど

それは私が子どもだった頃の話で

川で洗濯をするおばあさんや、赤ちゃんをおぶって登校し、石板に字を書く小学生は、すでに日本中から姿を消していたはずである。


母に抱かれた新生児まこは
カラー写真だし

昭和の造りの社宅には浴室もあり
シャワーも付いて
三種の神器も揃っていた。

でも もし長男が
昭和時代に産まれていたら。。。



平成半ば、

頻回再発型ネフローゼ症候群を

わずらっていた長男は


14歳の時


ステロイド療法から、免疫抑制療法に切り替えたところだった。





19世紀ごろまでの戦争では、

戦闘による死者よりも、


戦地の不衛生で過密な生活環境により

感染症で死亡する兵士が多い

ということがよくありました。


その点で、抗菌薬ペニシリンの発見は重要でした。


第2次世界大戦ではイギリス・アメリカがペニシリンを安価に大量に製造できたことが有利な要素のひとつになり、


敗戦国でもペニシリンが簡単に手に入るようになったのは、


終戦後でした。


現代医学の大きな成果であるワクチンも戦争に利用されたことがあります。


いまもポリオが残るパキスタンで、2010年代にアメリカの機関がテロ組織指導者のオサマ・ビンラディン捜索を目的に、ワクチン接種と偽って子供の血液を採集しました。 


そのことがワクチン不信にもつながっています。


さらに、

環境を改善することで

病気を防ごうとすること、


つまり現代で言う

公衆衛生の手法が発達したことも

戦争と関係があります。



有名な例が1853年から56年のクリミア戦争です。このとき従軍したフローレンス・ナイチンゲールが、傷ついた兵士たちの置かれたひどい環境を見て、当時広まりつつあった統計学を駆使して衛生状態の改善を訴えました。


同じころのアメリカは南北戦争の前後にあたります。このとき


軍隊や解放奴隷となった黒人、移住させられた先住民の大規模な移動によりコレラが広まっていく様子が研究されました。


クリミア戦争の時と同じように

戦争によって

公衆衛生の発達が促されたのです。


注意するべき点として

公衆衛生は


兵士の病気を

減らそうとするものでしたが


「そもそも戦争をなくせば兵士が死ぬこともない」

といった前提には立ち入りませんでした。


戦争のほかにも


公衆衛生の確立には

奴隷貿易や植民地支配が深く関わっているのですが、


公衆衛生の当時の役割

「奴隷を死なせずに輸送できる方法」を考えることであり、


「奴隷制はよくない」と

考えることではありませんでした。


抗菌薬もワクチンも公衆衛生も、

人の命を救って完結するものではなく


より大きな

社会的文脈の中で利用されました。


それはときには 

自軍を助けて ときには

もっと敵を殺すためだった

かもしれないのです。


1978年にソ連のアルマ・アタで開催された国際会議により、「2000年までにすべての人に健康を」という有名なスローガンを盛り込んだアルマ・アタ宣言が採択されました。


開催国のソ連は77年から88年のオガデン戦争に参戦し、79年にはアフガニスタンに侵攻したのですが、


本当に

「すべての人に健康を」という

高い理想を実現しようと

思っていたのでしょうか? 



健康という言葉政治的に利用されているようにも見えます。


医療とか健康は、


感謝とか挨拶と同じように


「いいものに決まっている」と思われがち


です




その先入観にとらわれていると、

期待どおりに機能しなかったときに

やりかたを変えることができません。


さらには、その背景にある

大きな文脈を見逃すかもしれません。










14、15歳を対象に

採用した最年少の志願兵




もし、長男が

戦中に産まれていたら。。。