小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、
それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう?
カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、
自分は持ち前の
おべっか精神を発揮して
おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、
空腹感とは、
どんなものだか、
ちっとも
わかっていや
しなかったのです。
めずらしいと思われたものを食べます。
豪華と思われたものを食べます。
また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。
そうして
子供の頃の自分にとって、
最も苦痛な時刻は、実に、
自分の家の食事の時間でした。
太宰 治
「僕は、褒められて育つタイプなので」
「普通は、みんなそうですよ。」
「小学生くらいの頃には、
そう思っていました。」
「いい意見だね」
「正しいよ」
「すごいね」
そう言われることを
嬉しく感じた当時の記憶が
たくさんある一方で
裏を返せば
相手の期待と違う答えは
「できるだけ
言わないように気をつける」
『日本社会は恥の文化』
正しくない言動をしたときに
『恥ずかしいよ』って言って
やめさせるじゃないですか。
私が研究を始めた頃はゴリラについては知られていないことがまだまだ多く、暴力的で恐ろしい動物、というイメージがもたれていました。
しかし、それは事実とは異なります。
長年のフィールドワークを通して、私は自分の目でゴリラの社会を知ることができました。
私の目に映るゴリラは、決して暴力的でも恐ろしい存在でもありません。
ゴリラは穏やかで遊び好きで子育て上手、群れの仲間のみならず周りの存在とも共存する平和な動物です。
執筆するにあたって念頭に置いたのは、
芥川龍之介の短編
「桃太郎」です。
有名な昔話を鬼の立場から描いたもので「鬼が島」で安穏に暮らしていた鬼たちのもとに、桃太郎が突如として現れる。
逃げ惑う鬼たちを追い立てる桃太郎に、鬼は恐る恐る、自分たちは何か無礼でもしてしまったのかと尋ねます。
すると桃太郎は次のように答えます。
「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
身勝手な言い分で
何の罪もない鬼を征伐する桃太郎と
被害者となってしまう鬼
この構図は、
ヨーロッパ諸国によるアフリカ諸国に対するかつての植民地支配にそのまま当てはめられます。
ヨーロッパ社会はアフリカを「暗黒大陸」と見なし、その「文明化」を大義として武力による制圧を行い、キリスト教を普及させ、植民地支配を進めました。
特に熱帯雨林地域のアフリカは、象牙や金、コバルト、ウラン、銅といった資源が豊富だったため、西洋列強にとっては魅力的でした。
現地の人々がその被害を被ったことは疑うべくもありません。そしてゴリラもまた被害者でした。
その闇に潜む悪魔――
それが西洋社会によって作り上げられたゴリラのイメージです。
植民地支配の陰には、それを正当化するために西洋人によって作られた「物語」がありました。
その「物語」をよりリアルに想起させるために巧妙に使われたのが、「凶暴で恐ろしい悪魔」としてのゴリラです。
「物語」を読み解くとき、作った側の視点ではなく、作られた側の視点から検討することが必要だという思いをこの文章には込めたつもりです。
鬼退治ってのもなぁ。
そもそも鬼に、なんかされたんか?
犬と猿とかキジだとか
こいつら、もっと関係ないやろ。
団子につられて家来になるけど
復讐劇に
関係ない奴
食い物でつって
引き連れてくって
なんなんや?
かぐや姫?
なんで、月に帰るんや。
なんかの罰ゲーム?
にしたってなぁ…
そんなんされたら本人よりも
見つけて育てた
じいさんばあさん
のほうが
かわいそうやろ。
こういう話はなぁ
無駄なフラグがあるだけで
正義も道理も
オチもないってことや。