一方で、
日本仮名で情報を得れば
事足りることも多い。
無論、才のある者には
横文字も読ませる。
各専門分野ごとに実践的な知識を身につけ、その道において物事の理を理解し、現代の要請に応じるべきだ。
これが一般の人が身につけるべき実学であり、誰もが身分に関係なく理解すべき基本的な心得である。
この心得を持ち、
個々が自らの仕事に、
力を注ぎ、
家業を営み、自立し、
最終的には国家全体も
独立すべきである。
学問に取り組む際には、 分別を理解することが肝要だ
人は天から生まれてきて、
束縛されず、
男は男、女は女で、
自由に生きるべき
存在である。
しかし
ただ自由だけを主張して分別を知らなければ、わがままで放蕩に陥ることが多い。
分別とは、天の道に基づき他人の妨げにならず、他人を尊重しながら自分の自由を実現することである。
自由とわがままの違いは、
他人に妨害をかけるかどうかにある。
例えば、自分の金銭を使って何かをすることは、たとえそれが酒や遊びに溺れることであっても、自由に生きることに似ているようであるが、
それは必ずしもそうではなく、
自己の放蕩が他の人たちの手本となり、
最終的には
社会の風紀を乱し、他人の教訓に障害を与えることから、その金銭を使うことは罪であって許されない。
また、自由と独立は個人だけでなく、国家にも関わるものである。
日本はアジア州の東に位置する島国で、古くから外国との交流は少なく、自国の産物だけで生計を立て、不足を感じたことはなかった。
しかし、嘉永年間にアメリカ人が来航し、外国との交易が始まり、その後も開国後には様々な議論があり、鎖国攘夷といった主張もあったが、
その視野は非常に狭く、諺に言うところの「井の底の蛙」で、その議論は取るに足りないものであった。
日本も西洋諸国も同じ地球上にあり、同じ太陽に照らされ、同じ月を見上げ、海や空気を共有し、共通の文化を持つ人々である。
ここに余るものは彼に分け与え、彼に余るものは我がものとし、お互いに学び合い、誇りを持ちつつも互いに助け合い、幸せを祈り合う。
天の理と人道に従ってお互いの交流を築き、正義のためにはアフリカの黒人奴隷に畏れ入り、道義のためにはイギリスやアメリカの軍艦にも臆せず、国家の恥辱があれば、
日本国の人々は一丸となって国の威光を保ち、一国の自由独立を守るべきである。
しかし、
我が国以外に他国が存在しないかのように、外国の人を見ると一括りにして「夷狄(いてき)」と罵り、四つ足で歩く動物のように見下し、軽蔑し、自国の実力も計らずに勝手に外国人を追い払おうとする行為は、国の枠を越えており、個人の言動としては自然の自由を理解せずに我儘で放蕩なものと言えるだろう。
今後は
日本国の人々において、
生まれつきの身分や地位
といったものはなくなり、
むしろ
その人の能力や徳に応じて
地位が与えられるようになるだろう。
重要なのは
その人の能力と徳によってその職務を遂行し、国民のために国法を遵守することであり、それによってのみ尊敬されるべきである。
かつての幕府時代には、東海道でお茶壺が通行するだけで、一般の人々が避けるような扱いを受けたことはよく知られている。
また、御用の鷹や馬には通行する旅人ですら避け道を選んだ。
これらはすべて、「御用」という言葉がつくだけで、石でも瓦でも恐るべき貴族のように見え、何世紀にもわたって人々はこれに嫌気が差し、その風習に慣れてしまったものである。
しかし、
これらは法の尊さでもなく、物事の貴さでもなく、単に政府の権威を利用して人々を恐れさせ、自由を妨げるための卑怯な手段に過ぎない。
今では日本全国で
このような卑しい制度や風習は
なくなっており、人々は安心している。
もし何か政府に不満があれば、
それを抱えたままではなく、
穏やかにその問題に取り組み、
慎重に議論すべきである。
天理と人情に合った方法であれば、自らの命を捨ててでも争うべきである。
これこそが一国の人々にふさわしい分限の在り方である。
前述のように、一人の人間も一つの国も、天の法則に基づいて不可侵で自由なものである。
もし国の自由を妨げる者がいれば、それに対抗するのは世界中の国々を相手にするほど怖れるに足りない。
同様に、一人の個人の自由を妨げる者がいれば、政府の官吏ですら躊躇うことなく対処されるだろう。
特に最近では、農民・手工業者・商人・士族といった社会の四つの階級が平等である基本が確立されたことから、誰もが安心して生活でき、ただ天の理に従って自分のやりたいことを存分に行うべきだと言える。
ただし
人はそれぞれの
身分に応じて
その身分に相応しい
能力や徳を
持たねばならない。
才徳を身につけるには、物事の理を知ることが不可欠である。
物事の理解を深めるためには、文字を学ぶことが必要である。
これが学問の緊急な必要性である。
最近の様子を見ていると、農民、手工業者、商人の三つの社会階層は、その身分よりもかなり向上し、いずれは士族と肩を並べるくらいの勢いになってきている。
今日でも、この三つの階層に属する人物がいれば、政府の役職に採用される可能性もある。
だからこそ、自分の身分をよく見つめ、自分の立場を大切にし、品行の良くないことは避けなければならない。
無知な文盲ほど同情すべき存在はなく、また非難すべきものはない。
知恵のない極みは
恥を知らないことにつながり、
己の無知が原因で貧困に陥り飢餓に直面するときは、
己が身を責めずに
無理に傍の裕福な人を恨んだり、極端な場合には仲間を結びつけて乱暴になることがある。
恥を知らないとでも言うべきか、
法を恐れないとでも言うべきか。
天下の法度を頼りにして自分の安全を保ちつつ、家族の生計をたてながらも、都合のいい部分だけを頼りにして、己の私欲のためには法を破ることもあるだろう。
たまたま裕福で身分が確かである者であっても、お金を蓄える方法を知りながら子孫にそれを教えない場合がある。
教えられない子孫であればその愚かさは怪しいものであり、最終的には遊び惰れて先祖の家督を一朝の煙とする者が少なからずいる。
このような愚かな民衆を
統治するには
理路整然として
諭す方法がなければ、
単に威圧するしかない。
西洋には「愚民の上に苛き政府あり」という諺があるが、
これは
政府が厳しいのではなく、むしろ愚かな民衆が自ら不幸を招いているからだ。
愚かな民衆に対して厳しい政府があるならば、賢明な民衆には良い政府があるというのが理屈である。
したがって、今の日本でも人民がこれにあたり、政治も存在している。
もしも、
人々の道徳や美徳が今よりも衰え、無学で文盲が広がることがあれば、政府の法も一段と厳格になるであろう。
逆に、人々が学問に志し、
物事の理を知り、
文明に向かうことがあれば、
政府の法も
寛容で大らかなものとなるだろう。
法の厳しさや寛容さは、
結局は人々の徳と不徳によって
自然に調整されるものである。
誰しもが苛政を好み、良政を嫌う者はいないし、本国の富強を祈らない者もいない。外国の侮辱を許す者もいない。
これは人としての常識である。
今の時代に生まれ、国のために尽くす心を持つ者は、必ずしも自らを苦しめ、思いを焦がすほどの心配はない。
ただ、
人情に基づいてますます一身の行動を正し、学問に熱心に励み、広く知識を深め、各自の身分にふさわしいほどの知徳を備え、
政府が政策を実施しやすくなり、国民もその統治を受け入れて苦しむことなく、共に国家の平和を守ろうとすることのみである。
今、私が勧める学問も主としてこの一点を趣旨としている。