世代的不遇感に苛まされて

十分あるのにお金の不安を抱え込む

50代間近の友人女性



同年代の離婚男性との出会いが

増えてきたという話の途中の



養育費、学費、年金分割、遺産相続


「自分の子どもの学費を出し渋るような人と、結婚したいと思う?」と聞いたら


「どうかな?」 と

首を傾げた。




いずれにしても


「後添いには関係ない話よね」と

私は言った。









平均以上の子どもを産んで

平均以上の環境で


平均以上の子どもを育てる



その人生は


条件を満たす相手との

結婚によってしか

はじまらないものとの信念をもって



「それが、普通でしょ」

「普通はそう考えるよ」

と言い切りながら


婚活に励んできた彼女が




結婚願望 今はなし

バツイチ子ありの私を前に


「まこちゃんは違うけど」

と、礼を失しないようにか


一言添えてから



離婚家庭は貧困に陥り

「まともな生活ができず

子どもは十分な教育を受けられない」のが

普通なのだと言って



一度家庭に入った女性が

子どもを産んで


離婚したあと


もう一度

稼げるようになることは 

普通はないのだと説いた。






つまるところ



親が離婚しているにも関わらず

学費を支払ってもらえる子どもよりも


親が離婚したことで

「教育を受けられなくなる」子どもの存在のほうが普通で


離婚した母親は

それを覚悟し受け入れるべきとの

見方もある



少なくても彼女が


私と話したその日まで、そう思っていたことがうかがい知れた。



「長年の 婚活女性は 高望み」


そんな話を見聞きする。


が、しかし


「そうではない」

のではないか。




結婚願望のない私には

関係のない話


ではあるものの




「自分の子どもの学費を

出し渋るような人とでも

結婚したいと思う?」


「どうかな?」 



一連の会話を咀嚼しながら

そんなふうに感じていたとき


彼女が、とうの昔に出会い

すでに音信不通になっていたものと


私が思いこんでいた

ある男性との話をはじめた。



ナントカ(婚活ではないと聞いたが忘れてしまった)パーティーで


出会ったというその男性の話を

私がはじめて聞かされたのは

10年近く前だと思う。


ふと連絡が来て

一人暮らしの彼女の部屋を訪れて


帰っていく。


そういう人がいたそうだ。



「私も、きらいじゃないからいいんだけどね」と昔、彼女が言ったとき


私はてっきり


彼女が「私も性交渉は嫌いじゃないのよ」と言ったのだと思い込んだ。


だから

出会い系イベント的なもので知り合ったというその男性との、ほんのいっときの摩訶不思議でユニークな関係を


酒の肴にしたのだろうと思っていた。




けれど


「もう会わない」と彼女が彼に言ったのは、 数ヶ月前のことだった。


「風俗?!そう、風俗みたいなかんじ!」


彼女はそう言い

私たちはうなずき合ったが


本当は

私たちはふたりとも

 

ホンモノの風俗というものを

知らない。






 

◆平均=“普通”じゃない!その数値だけで判断はNG

 統計学、というほどでもないが、数字を分析すると言われて誰もが真っ先に思いつくのが「平均」(算術平均)だろう。

統計学 巷にも「サラリーマンの平均年収442万円」「1世帯当たりの平均貯蓄現在高は1664万円」「サラリーマンの小遣い平均月3万8457円」「平均寿命82歳」といった数字が溢れ、それらと己を比べては上だの下だの、フツーでよかっただのと思ったり。

が、決して、平均が必ずしも普通を示すわけではない、と識者3人は口を揃える。

「平均年齢30歳と聞くと、30歳前後の人がそこに多く存在するように感じますが、29歳と31歳の平均年齢も、0歳と60歳の平均年齢も30歳です。平均とは、ごくシンプルに“均してみたらこうなった”というだけの数字。







自宅で会って

自宅で別れる


この10年の間に


外食もドライブも

片手で数える程度だったと笑い


そのドライブは

本当にドライブ


いまでもよくわからないらしい、彼の用事に付き合うように深夜帯に突然遠出し


24時間ブックオフで、数時間

彼の用事が終わるのを待って


明け方に帰宅したという珍事が

何年も前にあったらしい。



数ヶ月前


「もう会わない」と彼女は言って


「わたしはズルいから

ブロックはしていないの」


この場合のズルいの意は

解明できないままであるが




ひとつきほど前に、また

「家に行っていい?」と彼からいつもどおりの連絡があって


「だめに決まってるよね」と答えたと、さらりと言ってふふっと笑い


「もう、好きじゃないから」と続けた。





たくさんの疑問のひとつを

私は自然に発していた。


「どこが、好きだったの?」


彼女は言った。


「可愛い顔してたんだよね。

目が丸くて。そうねぇ。有吉みたいなかんじ。」


そして 

「彼のいうことが本当なら」の前置きをつけて



安定した仕事で


男女別世代別では

平均的な身長で平均的な年収

だったと言った。




完璧な人生を歩むためには

完璧な男性と結婚する。


「そういうものでもないんじゃない?」

何年も前に私は彼女に

そう言ったけど


彼女の求める完璧さとは

数値的に平均的で

自己主観的に普通



というだけの


ほんとうは、実に

シンプルなものなのだったのかもしれないと思った。




ランチのあと満足そうに

クレープを食べながら

「後悔はない」のだと彼女は

きっぱりと言った。



ほぼ半世紀の人生において一度も貧困に陥ることなく、「教育を受けられないようなかわいそうな子ども」を世に送り出さずにすんだから。



嘘のない目で

そういう意味のことを言って

「とてもスッキリした」と締めくくった。







 


〇〇者自らが●を客観視し、

折り合いを付けて生きていく力を養う

自律性の大切さ


「弱さの情報後悔」
「爆発ミーティング」
「安心してサボれる〇〇づくり」など、

☆☆には窮屈な常識を覆す
ユニークな取り組みが沢山ある。

仲間と共に自分自身を研究し、 
コントロールする。


その過程で
他者との繋がりも取り戻す。

 ☆★は心身の語りであり、
▲で揉み消すのではなく
語りに耳を傾ける。

変えるべきは◆や※※ではなく、
◎◎を取り巻く環境や
常識かも知れない。


婚活とは

ライフワーク






哲学を学問にしたカント 

哲学というものには2種類ある ―― それがはっきりわかったのは、18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントからといっていい。


カント以前の哲学は、ソクラテスでもアウグスティヌスでも、あるいはルソーでも、哲学者自身の人生経験を下敷きにして、「いかに生きるか」を考えるものだった。


換言すれば、

哲学者の生き方そのものが哲学であった。


それは長い間続き、

デカルトまでは、哲学と人間は切り離せなかった。


ところが、

デカルトの後にカントが出ると、哲学は「哲学という学問」として、個々人の生き方から完全に独立したものとなった。


哲学は学問として確立されたのである。


その意味で、カントはアカデミックな哲学の元祖といっていい。


一方で、古代から続く「生き方それ自体が哲学である」という系統も途絶えたわけではなかった。それがアメリカで出てきたエマソンの哲学なのだ。


  「いかに生きるか」を常に考えたエマソン

そのため、今日


日本の哲学者は

エマソンの考え方を

哲学として扱いたがらない。



通俗的だ、というわけだ。


実際、日本の大学で

エマソンを哲学者として教えることもほとんどないと思う。


だが、それは間違いである。


「人生そのものを懸命に生きることが哲学である」という考え方は、ポップ・カルチャーとして今もなお生きている。





エマソンの言葉のつかみがたさは、その思想に内在する緊張関係や二重性に起因する。


エマソンの思想において、


生きるということは自由であると同時に運命づけられたものであり、徹底して個をみつめるものである


と同時に


個を超えて

普遍的なものにつながるもの


そして

自己信頼をよびかけると同時に

自己を超えて他なるものに応答する


といった

二重性をもつものである。


東洋思想の影響をも受けた

エマソンの思想は


受容、忍耐、自己放棄といった受動的側面や



万物の変転、

諸行無常の

はかなさの感覚をも

もち合わせている。



このエマソンの思想性のもつ二重性と葛藤は、本書でも取り上げられている「友情」の思想に如実に現れる。






「友情には、お互いに相手の中に力と同意の存在を挑発するような、


互いに似ているでもない似ていないでもないという珍しい中庸が必要である」とエマソンは述べる(Emerson 1968, p. 232; 本書 p. 151)。


友情によって私が挑発されるものは、相手の中にある似ていることと似ていないこと、力と同意の両方の存在であると言うのである。


エマソンはこの葛藤、対立を解消しようとしないことが重要だと考える、


いや、むしろそれらは緊張関係の中に保たれねばならないのである。


差異と不一致の中にこそ

われわれは


真に


共通のものを見いだせる

というのだ。




エマソンは、

哲学を日常生活に連れ戻す思想家である。


哲学を生活に連れ戻すということは


難解な思想を平板でわかりやすい言葉に置き換えることではなく、


むしろ、


専門哲学による日常性の排斥に抗い、生きることにはらまれる混沌や泥沼に足を踏み入れて


より難しいチャレンジングな思考をすることを意味している。


その意味で、

本書を生み出す過程は、





哲学をいかなる言葉で日常の人々に届ければいいのか、哲学的に伝えるとはどういうことか、という日常言語哲学の根本課題を、自らのことばにおいて試され、


そして

実験する過程でもあった。


エマソンの語る言葉は、


生きることそのものにまつわる、葛藤やパラドクス、答えのない問いに満ちている。



生きることに、ひとつの答えはないからである。



エマソンは「正解」を与えない。


正解を求めて読もうとすると読者は混乱する。


本書において、エマソンの言葉に自らの生き様を照らして格闘する未来も、結局、エマソンから正しい答えをもらったわけではない。


この本の執筆の試みは、まさに、その解きほぐしがたさを維持したままなおかつそれが「伝わるように」解きほぐしてゆくという困難な過程であった。


けれどもこれは

不遜さとは対照的なものであり、


ある種の慎み深さ(humility)(スタンディッシュ 2012)と表裏一体であり、


人間の生が完成を希求しつつも、不完全であることに対する謙虚さに支えられている。


偉才の思想はある意味で

「強い自己」を

呼びかけるものでありつつも、


エマソンの書いたものを読むと、


その強さは、

はかなさと背中合わせであることを

読者は知ることになる。