率直に申し上げますが、結局のところ2025年問題を乗り切る上で大きなカギとなるのは、団塊世代の死生観の形成だと思っています。
下の世代から「こうあるべき」といった口出しをしたり、死生観を誘導すべきではないでしょうね。
彼らは高度成長の担い手というイメージですが、思想的にも優れた世代だったと思います。
たとえば
橋本大二郎
中沢新一
沢木耕太郎
上野千鶴子
橋本治
村上春樹
内田樹
あるいは
小田和正
北野武
彼らに共通しているのは、自分自身の「生き方」をぶつけながら思想を論じる名手であることだと思います。
現役世代の私達にできるのは
団塊世代の豊富な社会経験を活かしつつ、もう一度社会化を進めるための仕掛けをしておき、正しい情報提供に努めながら
思想形成を待つということ。
そこから先は
信じるしかありません。
余計なことはしない。
高齢者の胃瘻造設を判断していただくとき、ご家族の揺れのようなものを感じることが増えてきました。
まぁ、「施設の看護師に言われたから」といった安易な要望が減っているのは良いことだと思います。
昨今の政治家による「エイリアン」「チューブ人間」といった失言効果もあってか、胃瘻についての社会的認知度が高まり、ある種の「躊躇」のようなものが定着しつつあるのでしょう。
ただ、一つ気になるのは
その躊躇が「本人や家族の価値観」に基づくというより「社会からの無言の圧力」が作用しているように思われることです。
「延命治療は自己満足」
「社会にとっては医療費の無駄」
そんな視線の中で、判断が求められるようになってきたのかもしれません。
とすれば
医療者サイドとしては胃瘻を選択すること自体は無駄ではないし、いわんや「過ち」ではないことをご家族に伝えゆく責任があるように思います。
実際「自然死」には相当に解釈の幅があります。
胃瘻に限らず栄養の方法、そのメリットもリスクもさまざまです。
口から食べることが生きがいの人もいれば、むせてばかりで面倒だから管で栄養して、残された時間を有意義に過ごしたいという人もいるでしょう。
私は胃ろう推進論者ではありませんが、その選択をした人が「後ろめたい思い」をしないよう「配慮」したいと思っています。
寝たきりでも発語不能でも、尊厳がないと誰が言えるのでしょうか。
コミュニケーションができることは、「生命の要件」ではありません。
穏やかに眠り続ける、静謐な生命があっても良いと私は思うのです。
倫理の観点から考えると
なんらかの医療介入について考える時、「思考による立場交換」というものがあります。
たとえば「自分だったら」「家族だったら」
極端には「連続殺人犯だったら」といった実験的な思考をすることもあるでしょう。
これによって
「公平」や「判断の一貫性」をチェックすることができるのです。
倫理的に普遍性があるならば、立場を変えても狂いがないはずで、もし
人によって
異なる方針が
立ってしまった場合には
その介入には
検証すべき課題が残るということを
認めなければならないでしょう。
(倫理的課題の検討において)
この立場交換は、きわめて有効に作用する可能性があります。
「自分だったらしないよな。それを人に勧めているのは倫理的に正当化できるのだろうか」
実は失言する政治家しかり
だいたい、胃ろうにも
批判的な人というのは
この段階にあると私は感じています。
そして、この段階にいる人の「直観」はそれぞれに正しい。
失言が叩かれるのは
公人だからですが
ほとんどの医療従事者を含めて
職務上特別な義務を負う人は、
「自分だったら」レベルで思考停止した発言は慎むべきかと思います。