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問題


部分を否定されることによって,丸ごとの自分が否定されたかのように感じる感受性であり,どうしてそのような感受性が育つのかということである。


現代社会の万能感


現代人は相当の「万能感」に取り憑かれているように思う。


敗戦によって傷ついた国家レベルの「自己愛」をカバーするかのように、「経済大国」になり


テクノロジーの発展によって、たいがいのことは可能になった。


そういう環境で生きていると、いつのまにか、なんでも思うようになるという「万能感」をもつようになる。


大雨で電車がストップするようなことでイライラし「できないことはない」「なんでも可能」という気分に支配される。


そんな社会に「適応」する人間たちは、知らず知らずに「誇大性」を共有するようになる。


しかし


その裏には自信のなさ、安心のなさ、虚しさや抑うつが隠されている。



見棄てられる


自己肯定感をもてぬ不安を

「しゃかりきに」頑張ることによって、覆い隠そうとする。


膨れ上がった自己像を

支えるために

「有能な人材」を

必要とする。


それが現代社会の

支配的価値である。


もし


そういう見方が当たっているならば、そういう社会の状態が私には怖いのだ。









それまで、人々の暮らしは身体による、すなわち五感によるつながりで保たれていた。


衣食住は文化の具体的な表現であるが、家族や共同体によってその色合いや形式が決まっている。


それを身体化することで、

人々は  


無意識のうち

一体感、連帯感、信頼感を


紡いできたのである。


また、それは将来の担い手である子供たちをともに育てる行為によって醸成されてきた。


実は、 

ジェンダーは


その地域文化を身体化する過程で、人々の意識の中に深く埋め込まれてきた歴史を持っている。


狩猟採集文化も農耕牧畜文化も


食料採集や食料生産をする過程で男女の役割を分化させ、


男と女を家族に平等に振り分けることによって暮らしを成り立たせてきた。


服装は役割の分化を明確に示し、家は家族の単位を際立たせる装置だった。  


そして食は共同体が責任と義務を負い、子供たちを共同保育するために欠かせない日々の要素だった。


食の恵みは、

お祭りという形で皆が祈り祝ってきた。


「村八分」という罰は、こういった身体的なつながりから特定の者をはじき出す掟であった。


近代の通信情報機器の発達は、こういった身体的なつながり、因習的な関係から人々を解放し、共同体の外の人間とのつながりを拡大した。

衣食住といった五感を用いて人々のつながりを作る仕組みも大きく変わった。


服装が自由になって、年齢や性別を表さないファッションが普及した。


冷凍食品や電子レンジなど、自ら食

材を集めて調理しなくてもいい技術が登場し、コンビニエンスストアや中食の普及によって、いつでもどこでも好きなように食事ができるよ

うになった。


それまで大工、左官屋、畳屋など

さまざまな職人が集まって造っていた家は、建築会社がデザインから建築まで一切を受注し完成させるようになった。おかげで


家は


建築会社と家主との話し合いによって決まり、隣人たちはそれを見ることも口出しすることもできなくなった。


家々は独立して存在し、都会ではもはや隣人たちの顔も知らないことが当たり前となっている。









「自分はダメだ」       に隠されたもの



無意識のうちに

取り憑かれた「万能感」




「できて当たり前」のことが

「できない」


ただそれだけのことが負い目になり

罪悪感となってのしかかる。



できる人間でなければならない。


そういう脅迫観念は、少しでもできないことがあると自己愛的な(美しさや万能感に依存した)肯定感に傷をつける。




自己嫌悪に取り憑かれている人は、自己愛に取り憑かれている。


ということでもある。




自己評価の低い

クライエントと向き合うと


時折

奇妙な逆転の印象を受ける。



そんな些細なことで

自分はダメだと思い悩むのか。


自分を何様だと、思っているのだ。