子どもの問題に、
なにか「いい方法」を使って解決できないか
という発想にとらわれて
子どもと向き合う親は
子どもとの
共感的な関係を結ぶことが困難である。
合理的知性によってサイエンス・テクノロジーを発展させ、それをさらに発展させるための
一面的な知的能力開発に
力を入れる教育は
競争原理の侵食とあいまって
子供の心への配慮と共感を失わせている。
早期から子どもを客体として
値踏みするまなざしによって
比較し駆り立てるような「脅し的きびしさ」に侵食されている。
子どもの心に共感するよりも、子どもの出来具合を評価することに力を入れる傾向に陥っている。
子どもをロボットのように客体化し
操作することによって
子どもを主体としてとらえそれと共感的な関係を結ぶことを困難にさせている。
そういう子どもとの向き合い方は、自分という「小さな個体」のなかに局限された「頭の良さ」や「有能さ」によって、自分の値打ちに誇りを感じる類の「自己肯定感」を、
運が良ければ
身につけさせる
ことはできても
「大きな存在」に身を委ねる安心感のような「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感を与えることはできないのである。
自己肯定感の文化的差異
「自己」というとき、
アメリカや西欧の「自己」と日本や東洋の「自己」とは意味内容が相当違っている可能性がある。
文化心理学の知見によれば
アメリカや西欧では「相互独立的自己感」があり、日本や東洋においては「相互協調的自己感」があるという。
自己に対する見方あるいは感じ方が、ずいぶん違うというわけである。
違いを持った「自己」を肯定するときにも、その仕方や性質は当然異なってくるであろう。
日本の場合は
「これができる。あれができる」というよりも「私は周囲を信頼している。ありのままを受け入れてもらっている」という感じの自己になりそうだ。
私がこれまで日本の子どもたちに大切だと言ってきた「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感は
「評価による自己肯定感」ではなくて「共感による自己肯定感」であり、「相互協調的自己観」にもとづく自己肯定感といってもよいだろう。
外側からの評価的理解は
共感的理解とは異なる
カール・ロジャーズ
(アメリカの心理学者)
ほかの人の自分に対する評価は、その人の個人的な意見であり、自分の評価そのものには、関係しない。
他人からの評価は、あくまでその人の個人的な考えです。
自分自身の評価とは、無関係であることを理解しましょう。
アルフレッド・アドラー
オーストリアの精神科医、精神分析学者、心理学者。
西欧でいう「セルフ・エスティーム」と、その訳語としての「自己肯定感」は違う。
日本の子どもの自己肯定感の 何が問題が
日本人の伝統的な人間関係のいいところは、至らない未熟なところを素直に、謙虚に認めてそれを共感し赦し合えるところにある。
そういう関係を基盤にして「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感ができているのだ。
ところが、アメリカ流の
「競争原理」の侵入のなかで
そういう関係がこわされ、人の至らない点や未熟な点を責めるような関係に変質しているのではないだろうか。
「セルフ・エスティーム」の国際比較調査の結果を解釈するときに、ここで言われている文化心理学的な知見を加味して解釈しないと、その意味を読みまちがえてしまう危険がある。
いくつもの国際比較調査から「日本の子どもは誇りがなく自分に対する自信がない」ということが指摘されている。
たとえば、数学や理科のテストはトップレベルの成績であるにも関わらず、「得意ですか」という問いには肯定的回答が飛び抜けて少ない。
その原因を、
社会教育学者は「自分はこれがわかる。できる。ということでは自分の能力と成長を実感することができない。他人と比べてどうなのか。上下比較においてしか、自分の力を実感できない」と述べている。
文化心理学的な国民性の違いが、この回答に反映している可能性がありその指摘は当たっていると考えられる。
「相対比較」にしばられた
「自己否定感」から開放されるためには
競争システムの無批判な導入の改善策が考えられねばならないだろう。
しかし同時に
この国際比較で問題
になっているのは
「セルフ・エスティーム」であって、私のいう「自己肯定感」ではない。
日本人は
アメリカ流の「セルフ・エスティーム」という意味での「自己肯定感」が高くなくても、
必ずしも自己肯定感が低いわけではない。
ところが
「セルフ・エスティーム」の訳語
としての
「自己肯定感」ばやりで
日本人はそれが低いからだめで
それを高くしないといけない
かのような論調で
盛んに「自己肯定感」「自己肯定感」
褒めて育てろ
競争させるな
と言われているとすれば
それは一面的にもほどがある。