今日の子どもや若者の主体形成の問題とかかわって,しばしば「自己肯定感」という言葉がキーワードとして用いられる。


それはセルフ・エスティームの訳語として用いられる場合も少なくないが


概ね自己を価値ある存在として評価し尊重する感情として理解され,人権教育などの領域ではとくに重視されている。

先の言葉にひきつければ,
「他人の役に立つ,まんざらでもない自分」に気づく以前に,

自分が
安心してそこに居られる

自分の存在そのものが承認され,受け容れられているという安心感を充分に味わうことが必要な人間がいる

ということである。

その辺の事情を配慮しないで
先のような意味での「自己肯定感」をもつことを期待し要求すると,


「他人の役に立つまんざらでもない自分」であることから隔てられている人間を一層の「自己否定」に追い込むことになりかねない。


  何が問題か         ─現代社会と人の尊厳─

当事者との心理臨床的な関わりからみえてくる深刻な問題は,

これから人生の主人公に 
なってゆくべき人間が

学校や社会から排除された状態に陥るということもさることながら,

それによって彼らが自己存在の否定にまで追い込まれることがあるという問題である。
2008年に開かれたシンポジウムにおいて,筆者は 

人間の尊厳とは
存在そのもの

に価値を置くことだとして,以下のように提起した。 

「社会にでて会社に入り働くことで,自分が役に立っているという『自己効力感』『自己有用感』を得ることは大切なことであるが,

それにとらわれないことも大切だ。


周囲の期待に応えることによって,はじめて自分の存在が許されるかのような気持ちにとらわれる人,         

なにか『役に立つこと』をしていなければ自分の『居場所』がないかのような強迫観念に駆られている人をみれば,そのことがわかるだろう。

 



役に立って認められたり,誉められて『自己効力感』を得る
 
それ以前に,自分という存在が 
周囲に承認されているという手応え,

自分と共にいることによろこびを感じてもらえているという手応えを通じて得られる『自分が自分であって大丈夫だ』という自己肯定感をもつことがまず必要なのだ。


それを欠く人間がたくさんいることを忘れないで欲しい。

それを欠く人間が
社会に有用であることを通じて得られる『自己効力感』『自己有用感』を一面的に求められると,

それは『自分など存在しない方がいいのではないか』という自己否定に追い込まれるリスクに身を晒すことになりかねない。

そういう人々に触れる機会を多く持つ私のような心理臨床家が世の中に注意を喚起するために指摘するべきことはそういうことであろうし,またそれが責務であろうと思う。」


こうした提起を通して
筆者が問題にしたかったことは,

自分が有能さを示したり
誰かの役に立ったりしなければ
自分の存在価値がないかのように思い込み,

存在レベルの自己否定にまで自分を追い込むような人の内面のありようであり,

そうした内面を構築している
価値観や文化,またその背景にある社会構造なのである

人生や人間としての
成熟の過程でのひとつの
「つまずき」

人間はそうした

つまずきに出会うことを通して悩み
その悩みを通して

自分とあらためて向き合い
自分と問答し,
自分の生きるべき道を
見つけ出していく。

その過程そのものが
成熟への道程である。



だから,その成熟への道を励まし,援助するためには,安心して自分と向き合い悩めるように援助し,支えてやることが必要である。

ある子どもは、事態に遭遇してオロオロする母親にこう言った。

「お母さんは私が悩んでいるのを見て後から悩みはじめたのでしょ。お母さんが私以上にオロオロしたら,私は安心して悩めないじゃないの」と。



この子に限らず,いま,多くの子どもや若者たちは「安心して悩む」ことができなくなっている。

それどころか,「つまずいた自分」を「ダメな奴」と否定し,責め,貶し,自分を嫌うような心境にまで追い詰めていく。 

そのことを問題にしたいのである。

 



互いに依存性を隠しもつ
そういう大人同士は

表面的にはチヤホヤし合い
その関係が互いに嬉しく

もちつもたれつ

価値観や気の合う仲間同士であるかのように錯覚して、急速に近づく。

しかし

近づけば近づくほどに
迎合しあえばしあうほどに

無意識の部分を無意識に感じ合い
刺激しあい

隠していた依存心が
失望感を肥大化させて与え合う。


依存心や自分への失望を
隠しもっている人は

口先で何を言おうが
小手先でどう振る舞おうが

相手に対して
優しくなれないからである。



隠された依存心というのは、どうしても相手に感じとられてしまうので、互いにとって負担になるのだ。



大人として
扱われることを
望みながら

隠された依存性を 
満足させてもらいたいと
無意識下で要求する。

ゆえに

隠された依存性をもつ大人をあやすことは、子どもをあやすよりも難しい。

なぜなら


あやされていることに 絶対に 
気づかれない
ように



あやして
あげなければ
ならないのだから






 人間としての尊厳

先のような問題は,人間の尊厳をどうとらえ,人間の存在価値をどこに置くかという問題である。

自分の存在価値を見失い,自分の存在そのものを否定する窮地に追い込まれている。

筆者自身は人間の尊厳とは,自分の存在そのものに価値をおくことができることであると考えている。   

人間の尊厳に依拠する自尊心は,
誰かの役に立つ「いいところ」があるからもてる自尊心ではない。

そこに条件はない。

だがしかし,いま多くの人が自分の存在そのものに価値を置くことができなくなっている。


「自分が自分であって大丈夫」と存在レベルで自己を肯定する安心感をもてなくなっているということである。 

機械やモノはそれを使う人間にとって役に立つかどうかでその価値が決まる

もし機械やモノに意識があれば,オレは使用者の役に立っているのだということで自尊心を持つかもしれないが,

それは人間の尊厳を表す自尊心ではない


人間の尊厳を示す自尊心をもつ人は
使用者の都合によって一方的に価値づけられるようなあり方に,
傷つきはしないが怒りを覚えるであろう。


機械やモノは、それが
使用者にとって役立つ機能を
欠いていれば,無用の長物である。

その機械やモノに期待される機能(能力,特性)に欠陥(ダメなところ)があれば,存在そのものが否定される(まるごとダメ)ものである。

機械やモノに意識があれば,そのことによって深く自尊心が傷つくであろう。

モノのごとく扱われる状況下で,人は自分の部分への否定によってまるごとの自分が否定されるかのような経験をする。

自分の存在そのものを否定されるような経験である。

こうした経験は,

もしその人がまるごとの 
自分の存在そのものを 

承認され肯定される場 

外的には「居場所」
内的には「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感

によって支えられて
いなければ

致命的な
自尊心の傷つきになる。


人間を機械やモノのごとく扱う労働現場で「お前はダメなヤツ」と否定

されたとしても,ほんとうは

その意味するところは、使用者にとって都合のよい機能に欠けるということで
しかない

にもかかわらず,

自分がまるごと否定されたかのように感じて自尊心が深く傷つくとすれば, 

それは


彼自身が
自分自身の存在と
役立つ機能とを
同一視している



ということである。


つまり彼は,弱点もダメなところも含めてここに存在する自分を承認され,肯定される「居場所」や「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感を欠いているのであろう。

だから彼は,極度に失敗を恐れることになる。

失敗は,一つの機能の失敗にとどまらず,自分の全存在の失敗ということになり,「あんた(自分は)は失敗作」だというメッセージになるからだ。

こうしたあり方は,
今日の学校や労働現場に出ていくことを極度に恐れさせることになる。  



ここで問われていることは,


学校や社会に出ていこうとする子どもや若者が,自分の部分的な能力・特性,人材としての自己の価値に自信を持てないことによって,自己存在を否定されるのではないかという大きな不安を抱くという問題である。

こうした感受性がどこから生じてくるのか,

そのことが検討されなければならない。 

今日のような競争社会における子育てや教育にみられるありふれた光景は,他の子どもと比べることによって,尻を叩くやり方である。

比べて,優劣順位をつけることができるのは,人間の部分的な能力・特性でしかない。

ある教科によい成績を取ることが「できる」能力は比べて順位をつけることができる。

しかし,丸ごとの人間を比べて順位をつけることはできない。

競争原理支配され, 
比べ癖のついた目で人をみていると,比べて優劣順位をつけることができる分的な能力・特性しか目に入らなくなる。

そのような目で子どもをみて「成績の悪いダメな奴」「学校に来れないダメな奴」「おとなしいダメな奴」という風に評価する。


「成績が悪い」「学校に来れない」「おとなしい」などは,人間の部分的な特徴でしかない。その部分的な特徴によって,「ダメな奴」と丸ごと否定するような評価に陥っている。  

そうした評価はまさに
「脅し」の評価だと言ってよい。


こうした「脅し」の評価を
受けながら育つ子どもたちの

内面に何が形成されるかが
問われるのである。

ひとつには,競争社会で勝ち残れる能力,特性を備えた「よい子」でないと,見捨てられるという不安であり

ふたつには,

部分を否定されただけで,丸ごと否定されたように感じて傷つき,パニックを起こすような感受性である。

今日の教育現場では,字の間違いを指摘されただけで,パニックを起こすような子どもの現象を指摘する事例に事欠かない。

自分の書いた一字に×をつけられただけで,丸ごとの自分に×をつけられたかのように感じ,自尊心が傷つき,パニックを起こすのである。


ちょっとしたことで傷つき,パニックを起こす子どもや若者たちの現象をとらえて,彼らが豊かな社会のなかで

甘やかされて育ってきており,他者に否定された経験に乏しいことをその原因として指摘する論者もいるが, 

筆者はそれは実態の一面しかとらえていないと考える。

問題は育ちの過程で他者に否定される経験に遭遇しているかどうかにあるわけではない。

むしろ問題は,

部分を否定されることによって,丸ごとの自分が否定されたかのように感じる感受性であり,どうしてそのような感受性が育つのかという問題である。


人間が「人材」として商品化され,機会やモノのごとく性能・機能によって評価され,その評価の高低によって,人間の存在価値が測られるようなシステムと無関係ではない。

そうしてそのようなマクロシステムが,地域・家庭や学校という社会や共同体を支配し,その文化や価値観にまで影響を与え,自己の存在そのものが無条件に承認され,肯定されるという暖かい関係を充分に経験させてやれていないことにこそ、彼らの感受性をもたらした問題があると考える。 





 

素晴らしい女性に年齢は関係ない。。。。


いつも感じていることだが、最近これを実感させてくれる素晴らしい女性が居た。


野田樹潤(のだじゅじゅ)さん 18歳