令和6年1月1日、 次男りくは年越しそばを食べ終え、0時を過ぎてまもなく元朝参りにでかけていった。 


保育園〜中学までを共に過ごした地元の友人たちと連れ立ち、一刻も早く神に感謝をお伝えする。


それだけでは物足りなかったのか。


元日に相応しい「まねきねこ」というカラオケボックスにまで出向いたという。


朝5時に帰宅したようだが

私は熟睡中だった。




1月3日〜4日は高校時代の友人宅に総勢6名で宿泊し、そのまま空港に向かうと話しており


予定通り飛び立ったらしい。




りくを含む男子たちは大人になった今も、とても仲が良い。  


帰省時にはなにかと集まる機会があるし、進学のために全国に散らばった高校時代の友人たちとは、それぞれの学びの地を観光しながら渡り歩くこともある。


今回は帰省していない長男も、長く安定した友人関係のなかで育ってきたので、これには地域性もあるのだろう。


と思っていた。


しかし、最近

その良き風潮に翳りがみられるという話を耳にした。



長男と次男の出身高校の雰囲気が

あまり良くないらしい。


何人かの親の立場の人から聞いた

それらの話には共通点があった。




ある特定の地域から通学してくる男子生徒の振る舞いや言動が気になり


「耳に入ってくる会話を聞きたくない」

「顔をあわせたくない」

「教室に入りたくない」

「学校に行きたくない」


という五月雨登校、不登校の生徒が

例年にない多数になっているのだそうだ。



田舎の公立

なんちゃって進学校


そこにわざわざ

人里離れたところから片道1時間以上かけて通ってくる生徒たちの出身中学校は、一学年10名前後のこともあるし、さらに少ないこともある。


少数精鋭

大手進学塾は存在できず団体競技は試合成立最低人数に満たない年間出生数
生まれいづるのは
地域を挙げての少人数個別指導


彼らは小中時代から「勉強ができる」だけではない。


地域に根ざす

スポーツクラブ等で


長年に渡って

数少ない子どもたちを率いてきた

熱きベテラン指導者たちとともに


闘魂を燃やし


見事なまでの

地域結集型自然発生的教育力に導かれ、育てあげられてきた。





すなわち、そこで育つ子どもたちは個人競技スポーツやピアノなど文化的なお稽古ごとの経験歴が驚くほど長く、かつ実績が伴っているということである。




15歳までを

少数ですごしてきた彼らは

高校進学とともに


数百分の数人にはなるが、それでもなお良くも悪くも強い影響力をもつ。



現役高校生の父親である

知人男性(50)は


「うちの息子が自分に自信がもてないから、そういう男子たちの自信ある振る舞いに萎縮するということなのかなと。被害妄想だと思っていた」と語り


べつの知人男性(49)は

「娘には、気にするなと言っているんですけどね。そういうタイプの人ってどこにでもいるわけで。」と話した。



 

↑3年前のことである。


コロナ禍で卒業式を迎えるりく達を、自宅に招いてくれたお宅のお父さんが言った。



息子がね、みんなともう少し一緒にいたかったって言うんです。

だけど高校を卒業しても、俺には全国の旧帝大に友達がいるって。

みんな、自慢の友達だって。

だから、呼んであげたかったんです。
コロナ禍ですが(笑)


高校2年生 修学旅行


 

おばあちゃんが、「グループにうまく入れていなかった子はいないの?」ってきいたら

       

「いないよ」


「最初からみんなのことをみんなで考えながら決めるから、そういうことは起こりえないんだよ」


グループ分けって

自分が誰といたいのか

どこに入りたいのかを

考えるんじゃないんだ。





どうしたら

みんなが楽しめるか



みんながみんなのことを

先に考えてるんだよね。りくたちは。


   

普段はわりと無口なりくがたまに

ぼそっと言う短いセリフ


しばしば心に響くことがあります。







卒業アルバムの最後のページ

優秀な人間が努力をしている姿をみるとモチベーションが上がります。

能力のある人は色々な人に色々なことを求められて大変だとおもうけど、そんな存在がみんなのレベルを上げているのだということに誇りを持て。


文武両道、誰よりも努力。
才能ってそういうことなんだと思う。ゲームは俺は絶対負けない。

頭がいいよな。
イケメンだよな。
ひとはそういうかもしれないが
お前の1番いいところは
優しいとこだと俺は思う。



18歳男子って
そういうことを考えるんだ。
そんなふうに認めあっているんだ。
そんな言葉をエールに送るんだ。

男の子って…
こんなにすごいの?

当時の私が
そんな感情を抱いたことを思いだした。

なかでも

とりわけ深い感銘を受けた

「ありがとう」


 

最後の共通テスト

おまえに負けたことは本当は

すごく悔しかった。


でも、それだけおまえが頑張ってきた成果だと思えたから、負けを認める。


そんな自分は、以前の自分に勝てたと思う。

ほんとに、ありがとう。

これを書いたのは


国内最高偏差値大学の最高学部を目指しながら、共通テスト当日にマーク段違いという恐るべし困難にあい、それでも他大学の希望学部に現役合格を果たして邁進している凄井君(仮名)。



だから、りくにこう言った。


りくたちの学年は、はるばる遠い街から来ていた中に凄井君がいたからかなぁ。


凄井君を差し置いて威張ったり 人を萎縮させる振る舞いは誰もできないよね。



すると、りくが言った。


そうだね。俺達の頃は

あの高校のあの学年で


凄井が

いちばん

謙虚だったからね。


凄井のようにトップに位置づく人が謙虚だと、そういうことは起こらないんだよ。




 

 



謙虚なリーダーは、自信や才能を持っているにもかかわらず職場の静かな少数派だ。





多くのリーダーは、謙虚な人は他者の言いなりになるものだと考えているため、なかなか謙虚になれない。

自分は謙虚だと主張する大半のリーダーが、傲慢(ごうまん)さや自尊心を強さだと考えて、こうした態度で指導してしまう理由もここにある。

最も気をつけるべきなのは
謙虚なふりをして、実は自尊心が強いだけのリーダーだ。

こうした人は自分の謙虚さについて常に自慢していて、簡単に見分けられる。こうしたリーダーには、共感や思いやり、人間性が明らかに欠けている。

米マーケティング代理店キングダム・ソーシャル・メディア(Kingdom Social Media)でコーチ、教授、講演者を務めるデービッド・サイモンズは、「建前だけ謙虚なリーダーの下で働けば、そのリーダーは人を操るのが得意でチームプレーヤーではないと気づく場合が多い」と述べた。

ここでは、本当に謙虚なリーダーが持つ3つの強力な特徴を挙げる。



本当に謙虚なリーダーは
それぞれの人が組織にもたらす価値を理解している。

謙虚なリーダーは自分の支配力を強調するのではなく、各チームメンバーが自分の姿や声、価値を認識され尊重されていると感じるようなインクルーシブ(包摂的)な環境を作る努力をする。

謙虚なリーダーは、 
許容範囲となる口調や行動基準を設定するのが自分だと知っている。

そのため、こうしたリーダーは従業員を鼓舞するロールモデルとなり、前向きな行動を示して、全員が安心し歓迎されていると感じられる環境を作ることを主な目標としている。

消費者に情報を提供する企業クエリスプラウト(QuerySprout)の経営者であるマーケス・トーマスは、「謙虚なリーダーは、自分のことを地位が高くて権力がある存在ではなく、部下の横に並ぶ労働者と考える人だ」と述べた。

「こうしたリーダーは批判を聞き、従業員の懸念を心に留め、人からの提案や意見に大いに敬意を払う。リーダーが謙虚な場合はチームも同様に振る舞い、コミュニケーションをきちんと取るよう促される」(トーマス)

逆に、謙虚なふりをしたリーダーはストレスの増加や従業員の自尊心の低下、有害な職場環境を招き、職場での燃え尽き症候群を増やしてしまう。




本当に謙虚なリーダーと
見せかけだけ謙虚なリーダーには


間違いを認めてそこから学ぶ能力に格差がある。




トーマスは、リーダーが
誇らしげに謙虚さを見せつつも

無意識に

自分の素晴らしさを自慢し、人の話を聞くふりをしながら自分が正しいと思うことをする場合は危険だと説明した。

従業員はこれにいら立つだけでなく、見せかけの謙虚さに気づくことで、隠し事をせず正直に振る舞うのを思いとどまってしまう。

マーケティング企業ボックス・アウト・マーケティング(Box Out Marketing)のタイラー・ガーンズ最高経営責任者(CEO)は

「謙虚なリーダーは話の聞き方を理解している人だ。こうした人は聞くことにより、リーダー、そして部下としても役に立つ新たなアイデアを吸収できることを理解している」と述べた。

私はかつて、常に自分の謙虚さを自慢するCEOの下で働いた。彼は、経営陣の意見を聞いてその専門性やフィードバックを考慮することを拒み、誰かが意見を言えば、自分の方がはるかに知識があると述べて相手を黙らせていた。

彼が、自分に同意する人だけを周囲に集めたいと考えているのは明らかで、最終的には経営チームは辞職してしまった。


批判を受けることは、公式に書かれていないリーダーシップのルールだ。リーダーシップには批判が、そして批判には説明責任が付いてくる。

本当に謙虚なリーダーは、批判において大切なものは改善と学びだと理解している

本当に謙虚なリーダーは常に進化を続け、自分の視点の先を見ている。

人材あっせん企業サミット・サーチ・グループ(Summit Search Group)のマネジングパートナーであるマット・エアハートは

「自尊心に突き動かされたリーダーは 自分の欠点を理解しておらず他者からの批判を受け入れるのに苦労する」と述べ、

「こうした人は
自分の傲慢さが見えず
そのことを他者から聞きたがらないため、

自分は十分謙虚だと思っていると語った。

私の上司だった先述のCEOは、反応が反射的で、建設的な批判を受け入れられないことで知られていた。

彼は批判を改善の機会ではなく、自己の人格に対する攻撃と考えたのだ。その結果、経営陣は常に人が入れ替わるようになった。

PDF編集ツールを提供するココドク(CocoDoc)の共同創業者アリーナ・クラークは
「有害なリーダーは、他者のせいにしたり単に責任を逃れたりして、自らの間違った行動を一部正当化することが多い。

こうした人は

自分には批判に対処する能力があると主張することが多いが、批判されると考えただけでも腹の虫が収まらず、憤慨するものだ」と述べた。




人間の歴史は暴力と破壊と残酷の記録に満ちている。他の動物と違って人間だけが何の理由もなしに生命を破壊することに快楽を覚えるようにみえる。

人間には人間独自の
潜在的破壊性があるのだろうか。

このような問いから出発する著者は、まず最初に、人間がすべての動物と共有する、防衛的で反射的な「良性の攻撃」と、人間に特有な、破壊性や残酷性を伴う「悪性の攻撃」とを峻別する。


フロムは
破壊性と残酷性は本能的動因ではなく、人間の全経験に根ざした情熱である。
という。

それは人生の意味を理解する方法の一つでもある。

破壊性と残酷性は
そもそもの本性によって
人間的条件”に根ざしているので

動物の中には存在せず、また存在し得ない。

本能主義者たちが犯した主たる誤りは、
 - 本能に根ざす動因
 - 性格に根ざす動因
この二種類の動因を混同したことである。

自分のサディズムを発揮する機会を待っているサディスティックな人間は、”せきとめられた本能”という水力学的なモデルに合致するように見える。

しかし

サディスティックな性格を持つ人びとだけがサディスティックに行動する機会を待つのであって、

それはまさに

愛情深い性格を持つ人びとが、彼らの愛を発揮する機会を待つのと同じことなのである。

(『破壊』参照)