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数学科という学問が
たいへんなスリルをともなったもの
であることがおわかりでしょう。
1920年に博士は、国際数学者会議で「相対アーベル体の理論」という講演をしたのですが、聞き手に人を得ず残念ながら反響はありませんでした。
しかし5年後の1925年、高木博士50歳のときに、ハルレ大学教授のヘルムート・ハッセが「類体論の最近の発展について」という講演を行った際に、博士の業績を紹介して以来「高木の類体論」は世界的なものになっていきました。
オスロー大学から名誉博士の称号を贈られ、チューリッヒで開かれた国際数学者会議の類体論の部会で、出席者全員の尊敬を集めたのは57歳。
1936年に東京帝国大学を停年退職されたあと、文化勲章を受けられたのは1940年、65歳の時でした。
当時、フロベニウスは年も一番若く,講義はガロアの理論や整数論で,内容は別段変ったことはないが,講義振りは実にキビキビしたもので,ノートなんか持たない,本当に活きた講義といったものを生れてから初めて聞かされた.
日本人を軽蔑するフロベニウスであるから,フロベニウスの処へ行くなら,その積りで,よく覚悟をして行くがよかろうと,まあ大いに
しかし実際行って見ると,そんな怖いこともなかった.私が何かある問題を持って,先生に訊きに行ったことがあったが,その時先生は,それは面白い,自分でよく考えなさい,Denken Sie nach! といっていろいろな別刷などを貸してくれた.
この「自分で考えなさい」も,思えば生れて初めての教訓であった.
当時フロベニウスは群指標の理論をやっていた最中であったが,そんなことは講義には少しも出ない.セミナリでも,コロキウムでもちっとも出ない.
猿に近い日本人ばかりでなく,ドイツの学生でも,つまり相手にしないわけである.
そんなものはちゃんと
秘蔵というか
学生なんかに
公開しない.
その頃のヒルベルトのやったことを承け継いでいるのはクーランである.ちょうどそういう時代であったから,ヒルベルトの側にいたけれども,直接には何等の指導も受けなかった.
1914年に世界戦争が始まった.
それが私にはよい刺戟であった.刺戟というか,チャンスというか,刺戟ならネガティヴの刺戟だが,つまりヨーロッパから本が来なくなった.その頃誰だったか,もうドイツから本が来なくなったから,
学問は日本ではできない――
というようなことを言ったとか,言わなかったとか,新聞なんかで同情されたり,
そういう時代が来た.
西洋から本が来なくなっても
学問をしようというなら
自分で何かやるより
仕方が無いのだ.
恐らく世界戦争が無かったならば,私なんか何もやらないで終ったかも知れない.序でにその頃の事で思い出したことがあるから,御話するが,ある人がこんなことを言ったのを記憶している.それは
「大学教授を十年もやっていて,神経衰弱にならないのは嘘だ」
私は大学教授を十年はやっていなかったかも知れないけれども,別に神経衰弱の徴候も無かったが,
神経衰弱はどういう意味かといえば,
頻りに本が外国から来る.丸善などには毎月多数来る.
どんな本が新規に来るかを注意して看過されないようにするだけでも大変である.
又そんな本をみんな買って来て,
買って来るのも大変なんだが,それをみんな読まなくてはならないから大変だというのだ.
それが神経衰弱の原因だという.
本を書く奴は大勢いる.
それを一人で
読まなければならないと思って,
神経衰弱に成るなどは,
あまり賢明ではない.
私なんか
幸いに生来不精で,人の書いたものをあまり読まないので,神経衰弱を免れた.
同様の意味で,諸君に神経衰弱の予防を勧告したいと思うのである.
「回顧」の話が永くなって「展望」の時間がなくなったが,展望などと言っても,固より予言をする訳ではない.
私は今青年諸君の花々しい活動を傍観して,日本数学の将来に大なる期待を持ち得ることを無上の喜びとするものである.
歴史は反復するというが,第一次世界大戦の後二十年にして,再び世界的の大戦争が始まった.これは
反復よりも,むしろ継続
でもあろうが,
学術上の書物や
雑誌の輸入杜絶の時代が再び来た.
将来如何に発展するかは,固より予測を許さないけれども,既に今までにも,相当清新にして愉快なる成果を挙げていることは,争うべからざる事実と言わねばなるまい.
1945年には、戦災にあわれましたが、当時はまだまだお元気で、東京帝国大学の数学教室が疎開していた長野県長地村へもたびたびみえられました。


