人生には、「不確かなこと」が

たくさんあって、


「存在しないIfの世界」が存在する。



もし、両親が離婚したら?

バーチャル・ワールド
リアリティ・ゲーム


りくは、こういう風にはなるなよ。

そこが自分の家なんだから。
そこで、楽しく暮らすことを考えればいいんだよ。

こういう奴はさ、おかあさんがいるときは「おとうさんがいない!おとうさんがいない!」って泣いて、

おとうさんがいるときは「おかあさんがいない!おかあさんがいない!」って泣くんだよ。




小学1年生のときの担任は

「長男くんは、賢い子ですよ。」

頭の使い方が、お利口さんではないだけです。

と言い



中学3年生のときの担任は、卒アルに

「君は、生きる天才だ」と書き


高校のときの担任は

「ヤキをいれておきました。」と言った。





前記事についたコメントは

子女名優



子は、親の心を実演する

名優である。





起きぬけの頭に、

「そんなことないですよ。」と

なぜか、謙遜の言葉が浮かんだ。


瞬時に、長男と私が

「褒められた。」と思ったのである。





これは、自己肯定感なのか?

自己満足なのか?




長男くんは立派ですね。




コメントのどこにも、そう書かれてはいないのに、そう言われたように感じたのは


コメンテーターの人間性は

然ることながら 


私自身が、そう思っているからに

他ならない。





15年前


こんな年齢で、

こんなことを言うなんて…



両親の離婚とは

やはり子どもにとって

残酷なものである



そんなふうに、思いながら





置かれた場所で、咲きなさい

今あるものへの感謝の心


ないものねだりは、ナンセンス



小学2年生の長男は、このマインドを

「どこで学んできたのだろう。」と思ったのだ。




思考は言葉をつくり

言葉は行動になる。


行動は習慣になり

習慣は性格をつくる。


性格はいつか、運命となる。

↑これは、私の座右の銘

だから

置かれた場所で、咲きなさい

今あるものへの感謝の心


こういったことを、

自分の子どもに語ることは決してない。



          

これらを語るということは、

時間と距離と速度について

「はじきの公式」を用いて説明するような

つまらないことだからである。




言葉が思考をつくるのではなく

思考が言葉をつくるのならば



もちろん、これは

原因結果の一方向ではなく


双方向的だったり

循環的なものとは思うが。



日常会話と意思の疎通がある程度 

言葉を介してできるようになった段階の


自分の子どもに、精神論は語らない。




私にとって、我が子とは

他人である。


すなわち、自分の存在よりも大切な、他人であるのだけれども


単親家庭を子どもの立場から見た場合、たったひとりの親の存在は、子ども自身の存在を揺るがすほどの、脅威的存在になり得る。



彼らの衣食住 生命と健康が

ひとりの親の手に、委ねられているからである。



母子密着

依存と支配



その関係は

きわめて容易に、形成される。



小学2年生にとって

シングルマザーの言葉とは


マザーテレサの言葉以上の

キョウイになるのかもしれない。



だから、私は語らない。


子どもの言葉を

オウムの言葉にさせないために。

その行動を、お猿の真似にさせないために。







言葉を道具として使う 


それは、人として生きるマインドを形作る、重要な営みである。




そこが自分の家なんだから。

そこで、楽しく暮らすことを考えればいいんだよ。

こういう奴はさ、おかあさんがいるときは「おとうさんがいない!おとうさんがいない!」って泣いて、

おとうさんがいるときは「おかあさんがいない!おかあさんがいない!」って泣くんだよ。




このときの私には、まだ不確かだった。



この言葉の源も

この言葉の先にあるものも。




それゆえに


肯定でも否定でもなく

小学2年生の率直な「母子家庭男子論」として、受け止めるしかなかったのだ。



だから、彼らが大人になった今


「おりこうだったね。」

「頑張ったね。」と


当時の彼らを褒めてあげたい。


そんな気持ちになったのである。