↑読んでいません。
タイトルに惹かれてレビュー検索をしたら、まえがきが掲載されていました。


「心の的を射る人」の姿

『まえがき』より



 

誰が見ても頼りなさそうな人が、意外にも商売で成功している。反対に、頭がよくて立派そうな人が必ずしも経営に成功しているとは限らない。


一体そこに、どんな原因があるのか。


それは「人情の機微をつかんでいる」かどうかだと松下幸之助翁は言う。


「人情の機微」とは、目の前の人間のデリケートな辛さや悲しさであり、どんな言葉をかけてもらいたがっているかといった細やかな心情のことだ。


すなわち、分かってもらいたい

気付いてもらいたいという


たった今 

相手がこちらに求めている

切ない心のことである。




私が20歳過ぎの頃にお付き合いしていた映画好きの男性が「映画は監督で選び、本は著者で選ぶ」と言っていたが


インターネット上でも、それは概ね的を射る。


近年はさまざまな情報が氾濫しがちで、その状況が悪しき事態を引き起こしているとの指摘も少なくないが


飛行機や高速道路の利便性が高いのと同じように、ネット活用の効果もまた大きいものと思う。


次男が魚を捌けるのは、ユーチューブのおかげである。



以前、こちらの記事を紹介した。



ネットサーフィンの途中、方向音痴の私がここにヒットしたのは養老孟司先生のお導きのような気がしている。


ブログを書くようになってから、スマホに触れる機会が増えた。


息子たちの巣立ちが時間的余裕を生んだのと同時に


彼らと過ごした時間を振り返ることは、私の半生を振り返ることそのものだったからである。


それは、悔いとか反省といったものではなく、過去の有意義な時間にあった我が子との関係を見つめ直すことが、今後の長いかもしれないシングル人生を豊かにしてくれるのではないかと期待したということである。



「母親であるまえに一人の人間」とか「キャリアか育児か」というような論をみかけることもあるが


一人の人間の時間的に並行した存在に前も後もないし、一人の人間の24時間365〜366日の経験を、恣意的に分けて考える必要性を感じたことは私自身は一度もない。


ただ、成人年齢に達した人間の18年間よりも新生児が18歳になるまでの18年間のほうが、急速に密度の濃い時間がながれているように感じてはいたので、


取り返しがつかないのは「子育て」であるのは明白だと考えていた。


だから、子どもが健やかに育っていけそうな環境をつくる、すなわち母親である自分のために


仕事を変えたり離婚をしたりすることはあっても、仕事や夫のために子どもを変えることはない。


言うまでもないことである。




母子の関係性が、子どもの行動特性に影響を与えることは古くから知られていて


また、子どもの生まれながらの気質も親役割を担うヒトの「子育て観」というのか困難感や幸福感に影響を与えるものであるという。 


だとしたら


卵が先か鶏が先か。

そんな議論もあるのかもしれないが


少なくとも目に見える事象としては、親が先にこの世に存在しており 


目に見えるのは「行動」だけで、「関係」や「気質」は目には見えない。



かといって


「見えないから存在しないかもしれない」といった類のものではないし、哲学や科学を用いることでそれらは見える化されており、妥当性のある分析や考察が可能なものである。


そう考えると


子どもが存在する以前からの親自身のものの見方や感性は、その目に我が子がどう見えて、その心に我が子をどう感じ取るのかというところに強い影響を与えていると思うし、それがいわゆる母子関係の要素になっていると思う。


親による

「うちの子、こういう子なんですよ」

というのは


先に生まれ、すでに発信する術をもっている親が「この子は私の目にはこう見えていて、私の心はこう感じ取っています」という


ある意味


発達途中の我が子に対する上から目線の偏りの大きい一評価にすぎない。



母親による「母子関係」とか「子育て」の話は


先に生まれた者の感性で、まだ言葉を持たない、もしくはおぼつかない未成熟な者との関係性について勝手に語る独り言でもある。



20歳の頃に聞いた「映画は監督で選び本は著者で選ぶ」を体現してみたら


今年はとくに、加藤諦三先生に大変お世話になったので年末になり改めて加藤諦三先生を検索してみた。すると、


 




 心の教育とはどういうことか?(1)

新聞によると、有馬文部大臣(当時)が首相官邸での就任の記者会見で「心の教育の推進に最大の力を入れていく」と語った。


それから久しいがうまく行っているとも思えない。そこで私なりに心の教育とはどういうことかについて書きたい。

 

小さい子が人が持っている飴をほしがる。そして相手の飴をとろうとする。


「その飴、ちょうだい」と言って相手は

「嫌だ」と言う。


そう言われたとき

その子どもは


「ちゃんと、ちょうだいっていっているじゃないか」と怒る。


つまりそう言って

自分のしていることを正当化している。


そして


くれなければ「いじわる!」になる。


そこには相手の現実がない。


「欲しいときにはちゃんと欲しいといいなさい」と形を教えるのが心の教育ではない。


先ずこの子が誰からでもアメを取ろうとすれば心の教育が出来ていないと言っていいだろう。アメを欲しがる子供の側に「この人にならもらって良いだろう」という判断が出来ているかどうかである。




心の教育は

何をするにも

相手との関わりが条件であると

教えることである。



また「あの子には意地悪されたから、アメを取ってやろう」と思うことは


子どもの心理からすれば

自然であろう。



兄弟だからアメをくれるだろうと思っていたら、くれなかった。そこで「許せない」という気持ちになる。


しかし

未知の人にこの感情を持てばおかしい。

 

つまり「誰でもアメを持っていればくれるだろう」と思う子どもは心の教育が出来ていない。


と言うのは


自分と周囲の人との関係が分かっていないからである。人をものと考えているからである。


心とは

関係を理解すること

である。

 

大人が区役所に行っていきなり「年金下さい」と言ったら相手は驚くだろう。


そして「下さい」と言っているんだから!!とその人が怒ったらどうなるだろうか。





 心の教育とはどういうことか?(2)

小さな子供はまたよく「謝っているじゃないか」と怒る。


相手とコミュニケーションの出来ていない子どもだからである。

自分中心だということである。

謝るということに至るまでの時間の経過がない。

 

おそらくこの子の親は何か子どもが悪戯すると「謝りなさい」と言っているのである。こういう母親は上下関係を作りたいのである。こういう母親は威張っているけれども周囲が気になるタイプである。つまり心が触れ合う関係がつくれない。

 

こういう母親は上下関係を作りたいが、同時に、


平等が心の触れ合いと思っている。

父親も子どももない。

けじめがない。


要するに、心のふれあいと言いながらも、周囲の人に無関心なだけなのである。


謝るとはどういうことであろうか。相手の大切なものを壊してしまったとする。「あー、申し分けない」と思う。「どうしたらいいだろう、新しいものを買おうか」と考える。


どのような方法で償えるかを考えるということである。


そこで「詫びておこう」ということで「ご免なさい」とか「申し分けない」と謝る。

 

自分のしてしまったことに対して相手のことを考えるから詫びるのと、謝ればいいでしょうということで詫びるのとでは違う。


謝ることを教えるのが心の教育ではなく、謝るに至る心の過程を教えるのが心の教育である。


その心の過程に相手の現実が出てくる。


そして謝るとは相手の傷ついた感情を宥めると言うことである。「ご免なさい」と謝られたことで、傷ついた心が癒される。この時に「謝った」ということを教えるのが心の教育である。


つまり人間には心がある、人間は「もの」ではないと理解するからである。

 

「ご免なさい」と謝っても、相手の傷ついた感情が宥められないなら謝ったことにはならない。


これを理解させるのが心の教育である。


謝る「べき」だから謝ったというのでは、おそらく相手の傷ついた心は癒されないだろう。


謝る「べき」という規範意識から謝ったというのでは、謝る側に「こころ」がない。

 

人の心を傷つけたら一日二日おいてから謝った方がいいかなと考えることが自然である。そうした謝り方を教えるのが心の教育である。

 

もともと子供は素直な心を持っている。


その心で社会に接することを教えるのである。


素直な心があれば、人を傷つけたときに、心から謝る。

素直さを認めないで、「謝りなさい」

それは心とは関係ない。