今回は、かなりの長編になります_(._.)_
11月20日(土曜日)
自宅を4時に出発。いつもなら明石大橋渡って四国入りするのだが、今回は瀬戸大橋を渡って四国入りw
目指すは別格20霊場 萩原寺
別格二十霊場 第十六番 萩原寺(はぎわらじ)
山 号 巨鼇山(きょごうやま)
院 号 地蔵院(じぞういん)
本 尊 伽羅陀山火伏地蔵菩薩(弘法大師作)
開 山 弘法大師
宗 派 真言宗大覚寺派
院 号 地蔵院(じぞういん)
本 尊 伽羅陀山火伏地蔵菩薩(弘法大師作)
開 山 弘法大師
宗 派 真言宗大覚寺派
略縁起
地蔵院と号し平城帝の大同二年弘法大師の開創であり、朱雀天皇勅願談議所であった。不動明王は大師ご自身で霊験古今に顕著である。のちには細川勝元公の祈願所にもなる。
往古には伊予、阿波、讃岐に多数の末寺を有した。六法憲深方一流の本山としての法灯が伝わり温座護摩は有名である。また、急就章、法華曼陀羅図、銅水瓶、金銅塔鈴、金銅割五鈷杵など寺宝も多く保存されている。
香川県内有数の萩の名所である。「萩寺」とも呼ばれ、境内に24種、約2,000株の萩が植えてあり9月中旬から下旬に、いたるところで咲き乱れる。毎年その頃、当寺院を中心に周辺の、萩の丘公園、雲辺寺ロープウェイなどの会場で「萩まつり」が開催され、本堂で琴の演奏会や本堂前広場で茶会が行われる。
地蔵院と号し平城帝の大同二年弘法大師の開創であり、朱雀天皇勅願談議所であった。不動明王は大師ご自身で霊験古今に顕著である。のちには細川勝元公の祈願所にもなる。
往古には伊予、阿波、讃岐に多数の末寺を有した。六法憲深方一流の本山としての法灯が伝わり温座護摩は有名である。また、急就章、法華曼陀羅図、銅水瓶、金銅塔鈴、金銅割五鈷杵など寺宝も多く保存されている。
香川県内有数の萩の名所である。「萩寺」とも呼ばれ、境内に24種、約2,000株の萩が植えてあり9月中旬から下旬に、いたるところで咲き乱れる。毎年その頃、当寺院を中心に周辺の、萩の丘公園、雲辺寺ロープウェイなどの会場で「萩まつり」が開催され、本堂で琴の演奏会や本堂前広場で茶会が行われる。
大門及び番所
庭で飼われてるw
南門及び土塀
客殿
御詠歌:尊くも 火伏をちかふ 地蔵尊 はぎの御山に 世を救ふらむ
四国88カ所霊場 第67番札所
小松尾山 不動光院 大興寺(こまつおざん ふどうこういん だいこうじ)
地元では大興寺というより、山号にちなむ「小松尾寺」という呼称が親しまれ、近傍一帯の集落を小松尾と呼ぶ。
縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596〜1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。
縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596〜1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。
現在の大興寺は真言宗の寺院であるが、往時真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持つ。そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂とともに、右側に天台宗第三祖智顗を祀る天台大師堂があるという配置にその名残を留めている。また本尊脇侍は不動明王と毘沙門天であるが、不動明王は天台様式である。
山門(仁王門)
仁王像は四国で一番大きい
小松尾寺のクス
手水舎
本堂
大師堂
鐘楼
天台大師堂
ご詠歌 :
植えおきし小松尾寺(でら)を眺むれば
法(のり)の教えの風ぞふきぬる
第68番札所 七宝山 神恵院(しっぽうざん じんねいん)
六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。
開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、後に院号を「神恵院」とし、六十八番霊場としました。
開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、後に院号を「神恵院」とし、六十八番霊場としました。
山門(仁王門):観音寺と共通。
本堂入口
本堂内部
大師堂

回遊式日本庭園「巍巍園(ぎぎえん)」
ご詠歌
笛の音も松吹く風も琴弾(ひ)くも 歌うも舞うも法(のり)のこえごえ
第69番札所 七宝山 観音寺(しっぽうざん かんのんじ)
観音寺が第六十八番・神恵院と同一境内にあり、開基も創建の時期や由縁も同じであることは、前項で述べている。ただ、創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。以来、100年後の縁起からたどる。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山したと伝わる。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣って中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。
桓武天皇(在位781〜806)はじめ3代の天皇の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が住職として45年間務めるなど、寺運は隆盛を誇った。だが、やはり明治新政府の神仏分離令により本地仏を移し、一境内に二霊場となった。本堂は、金堂とも呼ばれて室町時代の建築で国指定重要文化財。朱塗りの柱が色鮮やか。境内には宝物館があり、彫刻としては珍しい「仏涅槃像」(厨子入り、平安〜鎌倉時代)をはじめ、絵画では「琴弾宮絵縁起」(絹本著色、鎌倉時代)、「不動二童子像」(絹本著色、室町時代)のほか、前項で触れた本地仏像など国の重要文化財が数多く収蔵されている。
本堂
大師堂
観音寺薬師堂
ご詠歌 : 観音の大悲の力強ければ おもき罪をも引きあげてたべ
観音寺と言えば 銭形砂絵 「寛永通宝」(琴弾公園)
有明浜の白砂に描かれたこの砂絵。
その大きさはなんと!東西122m、南北90m、周囲345mもあります。
一般には、寛永10年(1633年)に藩主、生駒高俊公を歓迎するために一夜にして作られたと言われており、
この砂絵を見れば健康で長生きし、お金に不自由しないと伝えられています。
その大きさはなんと!東西122m、南北90m、周囲345mもあります。
一般には、寛永10年(1633年)に藩主、生駒高俊公を歓迎するために一夜にして作られたと言われており、
この砂絵を見れば健康で長生きし、お金に不自由しないと伝えられています。
琴弾(ことひき)公園内の山頂展望台から
第70番札所 七宝山 持宝院 本山寺
(しっぽうざん じほういん もとやまじ)
大同二年(807年)平城天皇の勅願として、鎮護国家の為に、弘法大師が創建されたと伝わる。
本山寺は山号を七宝山、院号を持宝院、高野山真言宗の寺院であり四国八十八ヶ所霊場第七十番札所である。
古くは、長福寺という寺号だったが、江戸時代19世紀頃に本山寺と称されるようになった。
約2万平方メートル(坪数6000坪)の広大な境内には、国宝本堂、国指定重要文化財仁王門など多くの堂塔が建ち並ぶ。
本尊は四国霊場唯一馬頭観音とし、脇侍仏に薬師如来、阿弥陀如来を祀る。
明治再建立の風格ある五重塔は遠方からでも姿を見せ、本山寺のシンボルである。
本尊脇侍仏、阿弥陀如来は別名「太刀受けの弥陀」と呼ばれる。
天正年間(1573~92)長宗我部元親の軍勢に攻められた際、住職が兵士たちの侵入を阻止しようとした。
しかし、兵士たちは住職を切りつけ本堂へと入った瞬間、目の前に阿弥陀如来が現れ、その姿は肩から胸にかけて血を流していた。
その姿を見た兵士たちは、恐れ退いて退散し、寺は戦火を免れた。
木々に囲まれた境内には、お遍路さんたちの読経の声が響く。
本山寺は山号を七宝山、院号を持宝院、高野山真言宗の寺院であり四国八十八ヶ所霊場第七十番札所である。
古くは、長福寺という寺号だったが、江戸時代19世紀頃に本山寺と称されるようになった。
約2万平方メートル(坪数6000坪)の広大な境内には、国宝本堂、国指定重要文化財仁王門など多くの堂塔が建ち並ぶ。
本尊は四国霊場唯一馬頭観音とし、脇侍仏に薬師如来、阿弥陀如来を祀る。
明治再建立の風格ある五重塔は遠方からでも姿を見せ、本山寺のシンボルである。
本尊脇侍仏、阿弥陀如来は別名「太刀受けの弥陀」と呼ばれる。
天正年間(1573~92)長宗我部元親の軍勢に攻められた際、住職が兵士たちの侵入を阻止しようとした。
しかし、兵士たちは住職を切りつけ本堂へと入った瞬間、目の前に阿弥陀如来が現れ、その姿は肩から胸にかけて血を流していた。
その姿を見た兵士たちは、恐れ退いて退散し、寺は戦火を免れた。
木々に囲まれた境内には、お遍路さんたちの読経の声が響く。
仁王門(二王門)
鎌倉時代後期建立の仁王門は、国指定重要文化財指定。
また、金剛力士立像は、県指定有形文化財である。
三間一戸八脚門の切妻造り。
小ぶりな門だが、見所はある。側面の屋根、鬼瓦の表情。
仁王門にあるハート形、見つけてください。
また、金剛力士立像は、県指定有形文化財である。
三間一戸八脚門の切妻造り。
小ぶりな門だが、見所はある。側面の屋根、鬼瓦の表情。
仁王門にあるハート形、見つけてください。
洗心場
本堂
正安二年(1300)建立の本堂は国宝に指定。
屋根は寄棟造り。本格的な密教本堂であり。
鎌倉時代建立だが、和様式が多く取り入れられ、奈良興福寺系統の工匠、棟梁、藤原国重により建てられた。
御本尊、馬頭観音、脇侍仏、薬師如来、阿弥陀如来を祀る。
正安二年(1300)建立の本堂は国宝に指定。
屋根は寄棟造り。本格的な密教本堂であり。
鎌倉時代建立だが、和様式が多く取り入れられ、奈良興福寺系統の工匠、棟梁、藤原国重により建てられた。
御本尊、馬頭観音、脇侍仏、薬師如来、阿弥陀如来を祀る。

五重塔
明治43年(1910)再建立。
当時の住職、頼富實毅僧正により、明治29年に斧初めを行い14年間の歳月を経て落慶に至る。
初重部分は総欅であり、高さは約30メーター。
胎蔵会五仏を祀る。
明治43年(1910)再建立。
当時の住職、頼富實毅僧正により、明治29年に斧初めを行い14年間の歳月を経て落慶に至る。
初重部分は総欅であり、高さは約30メーター。
胎蔵会五仏を祀る。
鐘楼
馬像
本尊秘仏馬頭観音は、弘法大師一刀三禮の三面八臂馬頭観音であり、四国霊場唯一の御本尊である。
中門
客殿 庫裡
ご詠歌:
本山に誰か植江(うえ)ける花なれや 春こそたをれたむけにぞなる
別格二十霊場 第十七番 神野寺(かんのじ)
山 号 五穀山(ごこくさん)
本 尊 薬師如来
開 山 弘法大師
宗 派 真言宗善通寺派
本 尊 薬師如来
開 山 弘法大師
宗 派 真言宗善通寺派
満濃池鎮護の寺
弘仁十二年(八二一)、嵯峨天皇(在位八〇九~八二三)の勅命により、決壊した満濃池の修築のため別当に任ぜられ、わずか三ヶ月で完成させました。その功績により天皇から褒賞金を賜り、満濃池鎮護の寺として神野寺を建立されました。その後、天正九年(一五八一)焼失し廃寺となりましたが、昭和九年(一九三四)、弘法大師一千百年御遠忌をむかえ、満濃大師会を結成し、神野寺として堂宇を再建しました。
満濃池の中にはお大師様が護摩法を修したといわれる護摩壇岩が現在も残っています。
満濃池堤防では、日曜・祭日かりん市が開かれ終始賑わっています。
弘仁十二年(八二一)、嵯峨天皇(在位八〇九~八二三)の勅命により、決壊した満濃池の修築のため別当に任ぜられ、わずか三ヶ月で完成させました。その功績により天皇から褒賞金を賜り、満濃池鎮護の寺として神野寺を建立されました。その後、天正九年(一五八一)焼失し廃寺となりましたが、昭和九年(一九三四)、弘法大師一千百年御遠忌をむかえ、満濃大師会を結成し、神野寺として堂宇を再建しました。
満濃池の中にはお大師様が護摩法を修したといわれる護摩壇岩が現在も残っています。
満濃池堤防では、日曜・祭日かりん市が開かれ終始賑わっています。
本堂
満濃大師像
弘法大師像で像高3.3m。香川県出身の彫刻家・小倉右一郎の作
この時点で15時過ぎだったので、今晩の宿を探しに・・・。
次の 弥谷寺に向けて車を走らす。
善通寺市でホテルを見つけ、飛び込むものの満室(;^_^A
が、丁度キャンセルが出て確保^^
善通寺グランドホテルさんにお世話になりましたw
夕食は、ホテルで1杯無料券頂いたので
近くの居酒屋さん吉風(きっぷう)へ
本鮪刺身
寒鰆のタタキ
ポテトサラダ
ホルモン鍋
やわらかハラミグリエ
生ビール2杯と麦焼酎2杯呑んで満足、明日への活力充填w
どれも美味かった(^▽^)/
翌朝、早目の朝食を食べて6時半にホテルを出発(7時から開門)
弥谷寺を目指す^^
後編に続く


















































































































































