本屋で文庫本を買い、電車の中で読み、下車する駅が近付いてきたのでしおりを挟もうとして、しおりが無いことに気付く。しおりのかわりにレシートをページに挟んだ瞬間、大学生の頃のことを思い出した。あの頃は、講義の出席カードをしょっちゅうしおりのかわりに使っていた。講義の終わった教室で、窓際の席に座っていつまでも本を読んでいた。懐かしい。

遠い昔のことだ。
昨日の真夜中、何となく本棚に並ぶ本をぼんやり眺めていて、ふと、ジョージ・オーウェルの「一九八四年」を手に取った。

確か、二、三年前に読んだ小説だったと思う。「ビッグ・ブラザー」率いる党が支配する全体主義的近未来が舞台。主人公のウィンストンは心理省記録係に勤務する党員で、歴史の改竄が主な仕事。彼は以前から完璧な屈従を強いる体制に不満を抱いていた。そんなある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に興味を示すようになるが、それが彼の人生を大きく変えていく。

作中にとても印象的な台詞があるので、引用しようと思う。

主人公のウィンストンが党に捕まって延々と拷問を受けるくだり。拷問する側のオブライエンの台詞。

以下に。

「(前略)われわれはとても引き返せないほど徹底的に君を叩き潰すことになる。これから君は、たとえ千年生きたところで元に戻ることが不可能な経験をするだろう。普通の人間としての感情を二度と持てなくなるだろう。君の心のなかのすべてが死んでしまう。愛も友情も生きる喜びも笑いも興味も勇気も誠実も、すべてが君の手の届かないものになる。君はうつろな人間になるのだ。われわれはすべてを絞り出して君を空っぽにする。それからわれわれ自身を空っぽになった君にたっぷり注ぎこむのだ」


当時、読みながら恐ろしくなったことを覚えている。そのことを妻に話したけれど、何が恐ろしいのかイマイチ理解できないようだった。

「その小説のどこが面白いの」と妻が訊ねた。「心臓を鷲掴みにされたみたいに苦しくて怖いところ」と僕が答えても、妻はやはり理解できないようだった。

無理はない。言葉で説明するのは難しい。うすら寒いというか、なんというか、自分の理性までウィンストンと一緒にひねり潰されたような錯覚に陥るのだ。今まで自分の信じてきたものを根本から覆されるような恐怖を感じる。

この手のことは出来れば誰かと話し合いたいのだけれど、当然のことながら、身近に本書を読んだことのある人間がいない。うまくいかないもんだぜ笑
大学一年生の時、本厚木駅構内の箱根そばでバイトしていた。
当時、学生は私と、私と同い年の東海大学生と、どこの大学だったかは忘れたけれど、大学三年生の先輩の三人しかいなかった。
私たちは趣味嗜好がバラバラだったので、特に仲が良いわけではなかったけれど、とりたてて仲が悪くも無かったので、遅番でシフトがかぶると、終電で帰るまで三人でジュースを飲んだり、煙草を吸ったりしながら話して時間を潰すことが多かった。
その夜も、遅番でバイトを終え、駅の外で私と東海大学生はジュースを飲み、先輩は煙草を吸っていた。
ミロードの前の広場ではストリートミュージシャンの女の子がギターの弾き語りをしていた。カバーなのかオリジナルなのか分からないけれど、彼女は声を張り上げて歌っていた。誰も彼女の歌を聴いていなかったし、まばらに歩く人々も彼女に一瞥をくれるだけで誰も立ち止まらなかった。足元に置かれたギターケースには誰かが投げ入れたであろう小銭と、彼女のプロフィールやらホームページやらが書かれているであろう冊子が束になっていた。
「あのストリートミュージシャン、ジュディマリのユキに似てるな」
私が言うと、東海大学生は「確かに」と同意した。先輩は何も言わなかった。
「ナンパする?」と私が軽口を叩くと、東海大学生は「無理」と笑った。
私と東海大学生はしばらくそのストリートミュージシャンをネタに軽口を叩き合った。その間、先輩は黙って煙草を吸っていたけれど、突然、口を開いた。
「俺、ああいうの嫌いなんだ」
そのあまりにはっきりとした物言いに私は驚いた。東海大学生が「どうしてですか」と訊くと、先輩は「ああいう奴等って、音楽で世界を変えられる、とか、平気で言うから」と答えた。
「愛とか恋とか、身の回りの小ちゃいことを歌ってるくせに、音楽には世界を変える力があるとか、デカイことを言うじゃん。それがムカつく。どんな大物のミュージシャンがピースピースって平和を歌っても戦争も民族紛争も無くならないし、爆弾で死ぬ奴も減らねぇんだよ」
先輩は煙草の火を地面に押し付けて消し、私と東海大学生を見た。東海大学生は「そうですね」と同意した。私は先輩から目をそらし、何を言うべきなのか考えた。私は先輩に「それは違います」と言いたかった。けれど、何がどう違うのか説明できなかった。ただ漠然と「そうじゃない」と思うだけで、誰かを納得させられるような意見を持っていなかった。私はそれが悔しかった。「じゃあお前、ああやって誰も聴いてないのにあんなに一生懸命歌うガッツあるのかよ」と言おうとしたけれど、論点が違うな、と思い、黙っていた。それに、私とてさっきまで彼女の歌う姿を見て散々軽口を叩いていたのだ。先輩に対して何を言う資格があるというのか。胸の内側がじりじり焦げていくような気がした。
「そろそろ行くか」
先輩が言った。「お前ら、ナンパするならしてこいよ」
東海大学生は笑って首を横に振った。私も「俺もめんどくさいから帰ります」と笑った。
帰りの電車の中で、私は先輩の言葉について一人で考えてみたけれど、答えが出るわけもなく、バカバカしい、と思って考えることをやめてしまった。

その夜以来、彼女の姿を見ていない。歌うことをやめてしまったのか、歌う場所を変えたのか、分からない。世界は、先輩の言う通り、何も変わらずに回り続けている。残念ながら。

みたいな感じ。
仕事中に後輩の女子社員に話しかけられた。
「安保法案、可決されたみたいですよ」
私が「安保法案って何?」と訊ねると、彼女は絶句した後、「知らないんですか?」と驚いた顔をした。「テレビで散々やってるじゃないですか」
私は、俺ってテレビ観ないから、と言おうかと思ったけれど、そういうレベルの話ではないのかな、と思って黙っていた。
学生の時にも、同じようなことがあった。
私は二十一歳で、文学部に所属していた。同じゼミの女の子と二人で学食で話していた時のこと。衆議院と参議院の違いとか、与党と野党の違いとか、よく覚えていないけれど、確かそんなような話題を振られたんだったと思う。
私が「分からない」と言うと、彼女は笑って「中学生でも分かるよ」と言った。「もっと世の中のことに興味を持ったほうがいいよ。興味って言うか、常識だよ」と。
私はその女の子に好意を抱いていた。二人で話しながら、私は彼女の表情が変わるのを楽しく見ていた。目の前にいる女の子が私だけのために微笑んでくれたら素敵なのに、と思った。
その彼女とは、しばらくして付き合うことになったけれど、大学を卒業する前に別れてしまった。結局、世の中のことを何も知らない奴と付き合っていてもつまらなかったのかもしれない。

そんなことを思い出してみたりして。
今、中村文則の「遮光」を読んでいる。

中村文則には少しだけ思い入れがある。

二十歳の時、諸用で山形県に一週間ほど滞在しなければならなくなった。
持ってきた本を東京駅に向かう電車の中で読み終えてしまい、仕方なく東京駅のキヨスクで買ったのが中村文則の芥川賞受賞作の「土の中の子供」だった。荷物になることを考えずにハードカバーを買って後悔したことをよく覚えている。
新幹線の中でそれを読みながら、俺はこの先どうやって生きていくのだろうな、と思った。
友達とか、恋人とか、生活とか、そういうものが今と変わらずに在り続けるなんて信じられないな、と。
当時、付き合っていた女の子は僕にしょっちゅう「もっと大人になりなよ」と言って呆れていた。彼女のその表情も、いつかは遠い日の思い出になることが怖かった。

山形県に滞在中も、荷物になることも構わずたくさんの本を買ったけれど、何を買ったのか、中村文則以外はよく覚えていない。中村文則の文章には人の心にうねりを与える得体の知れない力がある。そういう作家に巡り合うために僕は本を読むのかな、と思ったり思わなかったり。