文學の森『俳句界』からこの度「三世代俳人」としての原稿の依頼があり、祖父須ヶ原樗子(すがわらちょし)の作品を振り返る機会を与えられた。
須ヶ原樗子は、明治四十三年生まれ。昭和十三年〈朝焚火日傭ひの身の温もりぬ〉の一句を機縁に「雲母」に参加、飯田蛇笏に師事した。山蘆門となるが途中の第二次世界大戦にて野戦六年、昭和二十一年に復員の日まで長く日本の俳壇を離れることとなる。しかし満州、シンガポール、フィリピンと戦線の最中にありながら、句作を続けた。
樗子は生前、五冊の句集を残している。その第四句集『歩哨』は戦中の作品のみを集めたものである。
折しも、ロシア軍によるウクライナ侵攻の続く中、「戦争」と「俳句」及び「詩作」のかかわりの一端を樗子の句集からも垣間見ることが出来た。
「馬の手綱を片手に、馬と一緒に歩きながらまとめた俳句を忘れないように、手の甲に書いたり、腕に書きとめて置いた。夜が明けて宿営すると、腕や手の甲に、いっぱい走り書きした俳句を思い出し、まとめて句帳にうつすのであった」
という巻末におさめられた作句の仕方が生々しい。
樗子の長男である菅原鬨也の手元には、樗子が頭上に括りつけて「南方の海を泳いで逃げた」という「ベビ漢和辞典(至誠堂)」があった。手の平にすっぽりと収まる大きさのころんと分厚い漢和辞典。紙が灼け、潮水も被ったであろうその本からは本物の汗と血の匂いが立ち上るようだった。句作は樗子にとって恐怖から逃れる唯一の方法だったのかもしれない。
屍あり旱天に巨き足投げ出し
油田燃ゆ炎そびらに歩哨立つ
旱天にただ定めなく砂丘撃つ
マラリヤの唇くろく乾きけり
このような戦地の記録ともなる句があるが、傾向としては少ない。多くが戦禍のものと前置きがなければそれとは感じさせないものだ。誤解を恐れず表現すればエキゾチックな匂いの漂う極彩色の句群、とでも言おうか。
密林の冷えひしひしと仏法僧
ドリヤンの甘ぬくき香に眠りけり
パパイヤの花咲き乙女日語言ふ
椰子の花散らし極楽鳥飛べり
椰子を割る女カンナを髪に挿す
句のみの印象は明るく、南国の果物の香りの立ち上ってきそうな印象。
水被る裸野猿に見られゐる
野猿来てまた顔うつす泉かな
バナナ喰ふポケット猿を膝の上
野猿たちに向けるユーモラスで優しいまなざし。
アラカンの星冷え冷えと象吼ゆる
この句はまぎれもなく実景なのだろうが、「虚」のダイナミズムに繋がるような不思議な味わいに仕上がっている。
降る雪の一片唇にふと甘し
煙草の火貰ふ睫の雪しづく
満州一面坡にての作。淡いリリシズム。
白鷺の翔ちたるあとの田水沸く
これなどは大変日本的な光景でもあり、シンガポール戦線の真っただ中の句とは気づかないのではないだろうか。
「一瞬にして移りゆく戦場での句作には熟考も推敲も拒否された。したがってありのままの異郷への挨拶であり、会釈でしかなかったことは十分承知している。しかし、単に記録や紹介を越えた時点にあることも自負している」(あとがきより)。
その「熟考」「推敲」がままならなかった中にも、俳句が詩であるという矜持を忘れてはいない。激しい戦闘の中にありながら、樗子の人間性を保ったのは甘いドリアンの香りであり、パパイヤの花の中で日本語を話す少女の美しさであったのだろう。
「非常に過酷な現実に対しての詩情の力っていうものが、非常に微小な力だけれども、暴力、財力、権力という強大な力に対抗する、ひとつの「よすが」になる」(谷川俊太郎『詩を書くという事―日常と宇宙と』)。
樗子の心は戦禍を潜りぬけつつ、単に戦争を詠むということを越えて普遍的なポエジーを希求し続けたと言えそうだ。
権力者、独裁者は人間を操るが、人間の奥底にある根源的な優しさや、詩情を求める気持ちまで操ることは決して出来ない。樗子の戦時下の句からその思いをより一層新たにした。
(「滝」2022.5月号所収)