皆さん、唐突だが「雪解光」という季語についてちょっとご自身なりに解説してみて欲しい。

 実は以前、初心者向けの俳句添削をしていた際に、この「雪解光」での作句例を続けて目にしたことがあった。

 「一滴の雪解光」「雪解光ひとしづく」などというフレーズが見られた。雪が解けて水となりぽたぽた垂れる様を詠んでいるらしい。

 今でこそ雪はあまり降らない仙台だが、四十年ほど前までは子供の膝がすっぽり埋まるほどの雪がたっぷり降った。「深雪晴」という季語さながらに雪がしんしんと降った翌日のおそろしいほどの空の青さや、雪解の頃のたっぷりと光をたたえた眩い光景が今も目に焼き付いている。

 歳時記で「雪解光」という「雪解」の子季語を発見した時、あの雪解の頃の照り返しを伴う鋭い光が思い出された。「一滴」や「ひとしづく」なら「雪雫」と詠めばよい。「雪解光ひとしづく」はことば自体にどことなく詩情がありこれはこれで良いのかもしれないが、実際はどうなのだろう。手元にある十数冊の歳時記を片っ端から調べたが「雪解光」単体の解説のあるものがない。インターネットに頼ると「雪解の頃の蜃気楼のようなもの」などという記述もあった。蜃気楼とは、光の屈折でものが浮き上がって見えたり、はたまた逆さまに見えたり、という現象を指すので私の思っていた「雪解光」とは随分違う印象である。私と同じ疑問を北海道在住の俳人、鈴木牛後氏も持っていたようで、「週刊俳句」上に記載があった。

 

 

 

 春の日差しと雪の照り返しで「雪焼」しそうなほどの強い光、私もそれが「雪解光」だと思っていたので、鈴木氏の疑問にも深く頷いてしまった。

 近所の図書館などで調べてもいまひとつはっきりしないので「雪解光」の謎についてはそのままにしていた。

 ところが、先日とあるところでなんとなくこの「雪解光」の謎が解けた。場所は宮城県の作並温泉郷。四年前から鷹泉閣岩松旅館にて俳句教室の講師をさせていただいているのだが、ミニ吟行さながら参加者の方々と旅館のまわりを散策していた時のこと。滝も見られる広瀬川の上流にかかる「作並橋」から下を覗いたとき、ふわーっと大きな光のかたまりに包まれたような不思議な感覚に襲われた。春疾風で髪の毛の逆立つほど寒い日だったが、まるで光の玉の中に放られたような、浮遊感を伴うような奇妙な感覚に支配された。目をこらしてみるとあたりの建物もうっすら浮き上がり、霞んでいるように見える。ただ「春霞」という妖艶な雰囲気ではなく、あたりはまだまだ雪が残り、風景としては「冬」である。ただ、雪解の音がどうどうと支配する川は、明らかに季節が「春」であることを告げていた。

 ああ、これがもしかしたら「雪解光」なのかもしれないとその時思ったのである。雪解水と春の光の織りなす水蒸気を伴ったこの季節しか見られない現象。ものが逆さに見えたり、見えないものが見えたりすることはなかったが、これもある意味、科学的に言う「蜃気楼」の一種なのかもしれない。

 「雪解光」の季語に疑問を持った時点で、さっさと現地に赴いて確かめれば良かったのだ。宮城県内でも雪深いところは沢山ある。文献のみに頼ったことを恥じた。

 季語についての理解は、現実にそれを目の当たりにしたことで自分の血肉となる。例えば行事の季語などで、遠く離れた地方のまだ経験したことのない祭の句などは想像力を頼りに読むよりないのだが、今回の「雪解光」のように自分の生きている土地で確かめられるものは積極的に確かめた方がいい。

 

 自分の身に引きつけて、呼吸するように、食べるように、飲むように季語を味わい体感したとき、季語が自分の言葉の一部になってゆくのだろう。

 

(「滝」2022.4月号所収)