角川『俳句』二〇二二年五月号「特別座談会 季語の冒険者たち」(宮坂静生、井上弘美、山田佳乃、堀切克洋、神野紗希)は大変読み応えのある座談会だった。

 この中で私が最も着目したのは、<つわり悪阻つわり山椒魚どろり 神野紗希>といった句における季語の扱いに神野紗希、堀切克洋両氏が言及した箇所だ。

 神野の「妊娠、出産、育児は、人間が長い歴史の中で営んできたことではありますが、その感覚を季語を通して言語化するということは、実はまだ発展途上のジャンルではないか」「共通認識としての季語を通して表現できる個別の感覚があるのではないか」という指摘は、現代における季語、また現在から未来における俳句の持つ「可能性」といったものを十分に示唆したように思う。

 また「…隠された苦しみをオープンにシェアしていこうという動きは、格差にせよ差別にせよ、社会的にも広がっている。だから紗希さんが悪阻の私的感覚を共感的に描こうとするのは、季語の冒険でもありつつ、社会的な冒険でもあるんじゃないでしょうか」という堀切の発言も、現代において俳句が向うべき一指針を示したと言えるのではないだろうか。

 両氏の発言から、私は詩人、谷川俊太郎のこんな言葉を思い出した。谷川は詩人の立場として①「宇宙的(コスミック)」であること②「社会的(ソシアル」であることの両面があると述べる。谷川は「詩人がなぜ詩を作るか」という問いに対し、まず「つくりたい」という気持ちがある。それは詩人の「情熱」のなせる業で、「宇宙的な生命のあらわれ」であるという。また詩人は「つくらねば」の気持ちを持つ。これは自身の「道徳(モラル)」が根底にあり、詩人の「社会的な人間のあらわれ」であるという。そして詩はこの「宇宙的」な「つくりたい」から「社会的」な「つくらねば」を経て完成を迎えるのだと。

 「俳句」を実に大雑把に定義するならば、「季語」を用い、時に伝統的な切れや切字といった手法を使い、自身の身辺やひいては取り巻く自然を詠む文芸、と簡単にはいうことが出来る。そのもって生まれた体質から必然的に「社会」を詠むのには少し工夫のいる詩型といえるのかもしれない。しかし、季語を介して自身の身体の「苦しみ」や「違和感」「動揺」「逡巡」「もがき」もしくは「心地良さ」「快感」といったものを表現したとき、それは巡り巡って「社会」を表現することにつながるのではないか。

 「季語」という多くの日本人のDNAに刻まれた、凝縮され、また一方でキャッチーな言葉で自身の内面を描くという作業は、人々への共感性を得るのに非常に便利だし、また俳句によって「現代社会を見る」ひとつの窓になるのではないか。

 「…一回、自分の体を通すということ、紗希さんの〈鯨〉の比喩とか、まさに好例だと思うのですが、季語を一回、自分の体というフィルターに掛けて通すことによって、その人の見えている世界が生まれてくるのが、俳句の面白さ」(堀切)。

 「…反復するものを一回きりのこととして、体を介する、私を介して季語と触れる。季語のもともと持っている反復性に私の一回性を加えていく。そのことによって、季語がそのたびに詠まれ直し、生まれ直していくのかなと」(神野)。

 この二人の発言は実に力強い。いわゆる「古い」言葉である季語を常に新しくしてゆくのは私たちの「体」であり、そこに詠まれた感覚を共有することで人は時に「生きにくさ」を感じる社会においても、見知らぬ人々とも見えない手を繋ぐことが出来る。

 季語は借り物の言葉ではなく、歳時記も教科書ではない。言葉に血肉を注ぐのは今を生きる私たちである。

 季語を用いて自身の私的な、肉体的経験を詠むとき、それはいつしか小さな風となって社会に吹き込むことがあるかもしれない。

 その時、俳句は「宇宙的」な存在と「社会的」な存在の両方の価値を身にまとい、現代社会において詩として完成を迎えるのかもしれない。

 

(「滝」2022.6月号所収)