ノーブルな空間で極上のワインと料理。
そして目の前には婚約者(フィアンセ)が微笑んでいる。
誰もが羨む光景の中に当然のように男もまた静かに微笑む。
「真澄様・・・紫織は幸せ者ですわ。
愛する殿方とあとひと月後には結ばれることができるんですもの。」
「それは僕も同じですよ。」
さらさらと流れるように紡がれる言葉に、躊躇いはない。
自分はこの目の前の女性と結婚するのだ。
その事に何の疑問も不安もありはしない。
だが、どうしてか、心のどこかに感じる歪み。
これは一体何なのだろう?
その正体が分からないまま、真澄は目の前の婚約者を見つめていた。
自分は人を愛するということがよくわからない。
分からなくてもいいと思って今日まで生きてきた。
むしろ愛など知らない方が幸せなのかもしれないとさえ考えていた。
だが、目の前の彼女はこれが愛だと教えてくれる。
これが人を愛しいと思う気持ちなのか。
だとするならば、人を愛するということは然程に難しい事でも苦しいことでもない。
更には世間が騒ぐほどのときめきもなければ、胸の高まりもない、なんと無味乾燥な感情か。
でも所詮、そんな程度のものなのかもしれないと、真澄は深く思いを馳せることはなかった。
小説や映画のような燃え上がる恋情など偶像でしかないのだと。
「真澄様・・・私達本当に愛し合う恋人同士ですよね。」
別れ際に紫織が真澄を見上げる。
「ええ、そうですよ。何か不安でも?」
「こんな事女の方から申し上げるのははしたないとは思いますの、、、でも、、、私、、、」
紫織はまだ一度も真澄と唇を交わしたことがないと言って、キスを強請った。
そんな紫織をしばらく見つめた真澄は、そっと彼女の右手を掬い上げ、その甲に唇を落とした。
「貴女には結婚まで清らかなままでいていただきたい・・・僕の願いです。」
そんな風に優しく諭されて、尚我儘を通せるほど紫織は自分に自信が持てない。
真澄に嫌われてしまうのが怖かった。
紫織は今、自分が薄氷の上に立っているような気分だった。
あとひと月、あとひと月でいい、真澄がこのまま自分だけを見ていてくれれば、自分達は結婚し、法のもとに揺るぎない関係を築けるのだ。
今、無理をして真澄の気持を揺らしてはならない。
真澄からも同じ言葉を聞くことができたなら、こんな不安は一瞬にして解消されるのだが。
紫織が愛をの言葉を紡げは、真澄は微笑って受け入れてくれる、「僕もです。」と。
だが、決定的に足りないものがある。
真澄は自ら「愛している」とは言ってくれない。
男とはそういうものかと、自信を納得させているが、やはり納得しきれていない。
〜兄様にご相談してみようかしら。
もっと真澄様の気持ちを私に向けさせなくては。〜
「真澄様、明日は兄様のカウセリングの日です。
お忘れなく・・・」
紫織は笑って真澄に念を押す。
「そうでしたね。大丈夫、予定は空けてありますよ。」
優しく応えてくれる真澄に、紫織は罪悪感を抱くも、それを振り払う。
真澄は知らない・・・このカウセリングが紫織のためのものではない事を。
紫織は己の心に棲む悪魔の囁きに抗うことはできなかった。
真澄を手に入れるためなら何だってする。
自分の命を盾にしても真澄の気持は紫織に傾きはしなかった。
リストカットを繰り返す紫織を心配した両親が、甥の精神科医である鷹宮博人に紫織を預けたのが始まりだった。
幼少期から紫織を実の妹のように溺愛していた博人が紫織のためにした行為・・・催眠術によるマインドコントロールだ。
そしてその施術の相手は紫織ではなく、速水真澄・・・紫織の婚約者だった。
この婚約をビジネスとしか見ていなかった真澄の意識や感情に蓋をして、新たな意識を植え付けた。
真澄と紫織の間には普通の男女としての恋愛関係が成立していると、真澄の意識に刷り込んである。
真澄自身がまだ自分の本当の気持ちに気づけないままであったのが幸いして博人の術は成功した。
そして紫織は術の効果が消えてしまわないように、こうして定期的に真澄を博人の元に連れて行くのだ。
結婚してもしばらくはこのままでいるつもりだ。
真澄との間に子供ができれば、術を解いて真澄が我に返っても、もう引き返す事などできはしないだろう。
夫婦としての関係は冷え切るかもしれないが、少なくとも真澄をあの女に取られることはない。
北島マヤ・・・彼女はおそらく、どれだけ真澄を愛していても、真澄から愛されようとも、己の欲のために罪なき子供から父親を奪うような真似はしないはずだ・・・そんな確信が紫織にはあった。
だからあとひと月、まずば結婚までたどりつかなければ。
そして速水真澄の妻という座に着き、その子供を一日でも早く身籠らなければならない。
例えそれが真の愛の形でなくても・・・ふと気づけば襲いかかってくる罪悪感と虚しさに、紫織は必死に目を背けて、決して真澄の搦手を緩める事はしなかった。
いつもこうだ・・・紫織のカウンセリングの後、真澄は身体と頭の重さを感じる。
緊張で疲弊しているのだろうか。
紫織のことがそれ程に心配なのか。
紫織のそばにいたり、彼女の事を考えると頭の中に霞がかかったようになる。
不快ではないが、まるで自分が自分ではないような浮遊感に襲われる。
真澄はクリニックで紫織と別れると、そのまま会社に戻った。
「真澄様、お疲れのようですわね。」
秘書の水城が淹れたての珈琲を持って来てくれた。
最近、水城の自分を見る目が気になる。
じっとこちらを観察しているような感じがするのだ。
水城は聡明で心眼で人を見る事ができる。
今の自分でも分からないこの不安定な状況に彼女は何かしら違和感を抱いているのかもしれない。
「紫織さんのカウンセリングに付き合っていたからな。」
隠す事でもないので、真澄は正直に応えた。
「紫織様のご様子はいかがですの?
カウンセリングの効果は、、、」
「もう二ヶ月くらいになるけれど、落ち着いているよ。」
「そうですか・・・」
水城は何処か思案げな顔をしていた。
「どうした、君こそ疲れていないか?
いつものキレがないな。」
真澄は珈琲の香りで寛ぎながらクスッと笑う。
水城はそんな真澄に完全なるビジネススマイルに切り替えて、仕事の話を始めたが、頭の中では拭いきれない懸念を晴らす術を同時に思案していた。
何故かこのまま見過ごしてはいけない気がするのだ。
真澄の心境が変わった・・・では納得しかねる。
主である真澄に鎌をかけるような真似はしたくなかったが、水城は仕掛けにかかった。
これが敬愛する速水真澄を救う事になると信じて。
「この後は月例の経営会議が入っておりますが、本日私は別件がございまして、第二秘書の冨永が同行いたします。」
「珍しいな、、、何か急なトラブルでもあったのか?」
「いえ、トラブルというわけではありませんが。」
真澄は水城が発する言葉の行間を探る。
水城が自ら動くということは、社長直轄案件である場合が殆どだ。
ただ、今はそんな案件は抱えていないはずで、ましてやトラブルも起きてはいない。
いや、ひとつだけこの条件に当てはまるものがあることに気づく・・・。
「・・・マヤか?」
「ええ、間も無く大都芸能との更新期限となりますので、その交渉です。」
北島マヤと聞いて、真澄の胸がトクン・・・と高鳴る。
「彼女が何か難しい条件でも出してきているのか?」
水城は真澄の反応と様子の変化を注意深く見つめる。
慎重に核心に近づけていく。
「いえ条件は特に・・・ただ、次の更新はしないと。」
水城の口から思いもよらない事を聞いて、真澄が詰め寄った。
「どういう事だ、、、俺は何も聞いてないぞ・・・」
「マヤさんは、しばらく海外で演劇の勉強をしたいと言っています。」
理由を聞き、真澄は少し安堵した。
他のエージェントに移籍したいという事ではないからだ。
「ならば、大都と更新をした上で、行けばいい。
留学先もその費用も大都で面倒をみる。」
水城ら小さく溜息を吐く。
「それはもう、私の方から提案済みでございます。
ですが、彼女には受け入れられませんでした。」
「何故だ?」
「全部、、、自分の力だけで頑張ってみたいと。」
そんなマヤの頑なな決心の真意を目の前の上司が理解することはできないだろうと水城は思った。
マヤは真澄が紫の薔薇の人である事をとうに知っていた。
知った上で、マヤは紫の薔薇の人を愛していた。
だが、真澄は紫織の婚約者となった。
この時点で水城は、マヤが近い将来真澄から離れていくだろうと考えていた。
真澄がビジネスとはいえ、紫織との婚約を選んだのだ。
それにマヤは真澄と紫織の結婚が政略的なものである事も知らない。
ましてや、真澄がその自覚もないままに、長年マヤを心の奥底で愛し続けていることも。
しかも最近の真澄は、以前に比べて紫織に多くの時間を割くようになっており、マヤから見れば、真澄の思いは紫織にあって、この縁談に自分が割り込む余地などありはしないと考えても不思議ではない。
それどころか同じ女として、マヤがこの状況から離れたい気持ちでいるのは大いに理解できる。
「水城くん、今日の経営会議の時間をずらせないか?
いや、マヤとの打合せを会議の後にしてもらいたい。
俺が直接マヤと話すよ。」
水城は今夜、二人の運命が大きく変わる事になるかもしれない予感に、緊張と期待で心を震わせた。
「待たせたね。」
真澄は会議が終わるとすぐに自分の執務室にもどってきた。
「いえ。お忙しいのに私なんかのためにすみません。」
マヤがソファーから立って、真澄に深く頭を下げる。
真澄はマヤと対面となる位置でソファーに腰掛けた。
水城もまた真澄の隣の席に座る。
「海外へ演劇留学する話は聞いた。
その費用も留学先の手配も全部大都がバックアップするよ。
だから君はこのまま大都と契約をしてほしい。」
「ありがとうございます。でもそれはできません。」
「何故だ?」
「これ以上、速水さんにご迷惑はかけられません。」
「マヤ、これはビジネスだ。君は大都に十二分な利益をもたらしている。
だから何も遠慮する事などないんだよ。」
「・・・そうですね、速水さんにとって私は単なる商品だから。」
「い、いや、そういう意味で言ったんじゃない。
君は女優として立派にその存在価値を持っていて、何も卑下することなどない事をわかってほしかっただけだ。」
「わかってます・・・わかってます、速水さん。
でも、、、やっぱり無理です。」
我ながらマヤを前にした時の不器用さに呆れる。
昔から真澄はマヤを前にすると調子を狂わされる。
伝えたいことが相手に伝わらないのだ。
そしてその焦りが苛立ちを生む。
「何が不満なんだ?
気に入らないことがあればはっきりと言ってくれ。
君の希望はできる限り善処する。」
マヤはただ黙って俯いていた。
「どちらにしろ、俺は君を手離す気はない。」
「速水さん、それは執着です。
貴方のお父様と同じ、紅天女への執着です。
そんなに紅天女が欲しいなら、上演権を貴方に渡しても構わない。」
「紅天女の事などどうでもいい。
君の演らない紅天女になど、何の価値もない。
・・・君は俺のものだ。」
頑是ないマヤを慮る余裕のない真澄が言い放った言葉に、マヤの心が悲鳴をあげた。
全てをぶち撒ける訳には行かないが、それでも言いたい事はある。
「速水さん、、、私は貴方から離れたい。
貴方が私を女優ととして認めて下さっている事は有難いと思います。
けれど、貴方は一人の人間としての私を否定した・・・一ヶ月前のパーティーで、貴方は私を信じてはくれなかった。
それが全て・・・そんな人のもとではもうやっていけない。
・・・速水さんじゃなければ飲み込めた、水に流せたかもしれないけど、もう無理。」
真澄はマヤの言葉を聞き、鮮やかに記憶が蘇る。
あるパーティーで、マヤと真澄が偶然同席する事になったのだが、真澄に同伴した紫織がサファイアの婚約指環を無くしたと言い出して、マヤを疑ったのだ。
実際にはその指環は拾った人がクロークに預けてくれていたのが後からわかったのだが、真澄は事実確認もしないままに、マヤを責めた。
今となっては何故あの時に、そんな事になってしまったのかよくわからないが、紫織の言葉が真澄の中で重くのしかかってきたのだ。
マヤは違うと訴えていたのに、庇うどころか、紫織と一緒になってマヤを疑ってしまった。
その後、指環が出てきて、紫織と共に謝罪をし、それで全ては解決した気になっていた。
今、マヤに言われるまで、忘れていたのだ。
マヤを傷つけておきながら、その事を無かったことにしていた自分が信じられない。
「あの時のことは本当にすまなかった。」
真澄はマヤの不興の原因を知り、再び謝罪をした。
「君を疑うなんてどうかしていた・・・」
マヤが怒るのも無理はないと納得する。
だが、この時の真澄は二人の間の問題の本質が理解できないままだった。
「もういいです。謝ってほしいわけじゃない。
とにかくもう、速水さんとは離れたい。
別に私がいなくても、大都が潰れる訳じゃないし、もう私の事は放っておいてください。」
その方が紫織さんも安心しますよ・・・その言葉だけはどうにか腹に飲み込んだマヤだった。
俯いたマヤをやるせない瞳で見つめながら、自分でなければ許せたかもしれないと口走ったその意味を考えた。
それ程にマヤは自分を憎んで、恨んでいるのだ。
マヤが自分から離れていく・・・突然襲った焦燥感は恐怖に近かった。
マヤを失うと思ったら胸が締め付けられるような痛みや苦しさを感じた。
彼女を失うことは己の半身を失うようなものだ。
いや、それだけじゃなく魂の片割れを無くすが如きだ。
彼女が自分にとってどれだけ大切なのか、初めて心で気づいた瞬間だった。
「待ってくれ、もっとちゃんと話そう、マヤ。
俺は、・・・っっ」
急に真澄が顳顬を押さえて蹲った。
「真澄様っ!」
「速水さん!」
「だい・・・大丈夫・・・だ・・・」
そうは言うものの、真澄の苦痛はますばかりだった。
いつからだろう、、、マヤのことを深く考えたり、彼女に気持ちを寄せようとすると頭の中に黒い靄がかかったようになって、それでも更にマヤを思うとズキズキと頭痛を覚えて、気持ちがささくれ立つ。
思えばあのパーティーの時も。
マヤに嫌疑がかけられても最初はそんなはずはないと否定していたし、もっとマヤを庇いたかったのに、途中からまるで自分が誰かに操られているみたいになった。
結果自分はマヤを理不尽な刃で酷く傷つけた。
そして、また同じ過ちを犯すのか、このままでは自分はまたマヤを傷つけてしまう。
自我が何者かに奪われてしまいそうになるその前にこの呪縛から解き放たれるにはどうすればいいのか。
真澄は朦朧とし始める意識の中で、あたりを見回した。
マヤと水城が心配そうにこちらを見ている。
何かないか、、、何か。
そしてマホガニーの執務机上にある銀色に光る物に目を止めた。
ペーパーナイフだ。
真澄はふらつく足取りでそこまで行くと、ペーパーナイフを握り、自らの太腿に突き刺そうとした。
痛みで正気を取り戻そうとしたのだ。
その行動を咄嗟に察知したマヤが真澄の両手を掴んで必死に止めた。
「ダメっ、動脈傷ついたら死んじゃうっ。」
「真澄様っ、お気を確かに。」
水城とマヤふたりがかりで真澄を押しとどめて、ペーパーナイフを取り上げると、真澄はグッタリとソファに倒れ込んだ。
「・・・マヤ・・・」
力なくその頬に手を伸ばし、彼女の名を呟いて、真澄は気絶する。
「速水さん!」
マヤが必死に真澄を呼び覚まそうと何度も声をかけた。
水城は真澄の呼吸がしっかりしている事を確認し、真澄の様子をみる。
「何かおかしい・・・水城さん、速水さん何か変ですよ。」
マヤが不安そうに水城を見つめる。
「ええ、仕事中はあまり変化はないのだけれど、確かに尋常じゃない。」
水城はここ最近の真澄に抱いた違和感が、気のせいでなかった事を確信した。
その違和感とは、真澄のマヤと紫織に対する態度の変化だった。
マヤの話になると急に情緒不安定な様子を見せることがこれまでもあった。
パーティーでの出来事もこの変化何か関係しているに違いない。
あらゆる可能性を頭の中で探ってみる。
「まさかとは思うけど・・・」
水城がひとつの疑いを口にした。
マヤは水城が出した推論に驚愕のあまり瞠目した。
「そんな・・・マインドコントロール?
そんな事ができるんですか?」
「私も専門外だからわからないけど、精神科医にら心当たりがあるから直ぐに連絡をとってみる。」
そこからの水城の行動は早かった。
同日中に水城の知り合いの精神科医が営むクリニックに時間外で飛び込んだ。
水城の直接の知り合いではなかったが、藤堂の高校時代の同級生で、産業医として一時期大都に関わってもらっていた女性医師だった。
名を尾崎涼華(りょうか)という。
藤堂の友人という贔屓目を差し引いても、涼華は人間性も能力も申し分ない。
今では水城にとっても大切な友人の一人となっている。
実は水城自身、真澄とマヤのことに心を痛めて、時折話を聞いてもらっていた。
なので、今回のことも話は早かった。
涼華は直ぐに診ると言ってくれて、水城とマヤは二人で暫くして覚醒した真澄に付き添ってきた。
診療の妨げにならないように、二人は少し離れたところで見守ることにした。
診療室は普通の病院とは違って、普通のリビングのようだ。
カルテ用のパソコンはあるものの、それ以外には医療を感じさせるものは何もない。
涼華も白衣は身につけず、シンプルな白いブラウスと淡いグレーのパンツ姿だ。
そんな涼華の前に置かれた背もたれの大きなソファーのような椅子に真澄はゆったりと座っていた。
そして静かに二人の会話が続いていた。
その会話は少し離れたマヤ達にも聞き取る事ができた。
1時間ほどして、涼華が真澄の目の前に手をかざした。
「速水さん・・・目を瞑って下さい。
今度貴方が目を開いた時、貴方の心にかかった霧は全て綺麗に無くなっていますよ。」
真澄は静かに目を瞑り、涼華の声に耳を傾けていた。
そしてゆっくりと目を開いた。
目の前には先程と変わらず涼華がいる。
本当にこれで自分は元に戻ったのだろうか。
正直よくわからない。
それを察したように涼華は真澄に言った。
「速水さんは二つの暗示にかかっていました。
ひとつは他人からかけられたもの、、、恐らく速水さんの愛情をコントロールして、自分に向けさせようとしたものですね。
これは簡単に解く事ができます。
もう既に速水さんはその暗示から自由になっています。
そしてもう一つの暗示、これが一番貴方を苦しめているものです。」
涼華は一息おいて、再度説明を続けた。
「貴方が貴方自身にかけた暗示・・・それは貴方の中にある深くて強い願望を否定し、打ち消そうとする力が貴方の心にかかっていました。
でもその暗示からも、今、速水さんは解き放たれています。
もう貴方は自由なんです。思いのままに生きていいんです。
さあ、自分を解放して。」
涼華は再び真澄に目を瞑らせた。
− 貴方は何に苦しんでいるのですか?
「・・・愛してはいけない人を愛している。」
− 何故愛してはいけないのです?
「許されない事をしました。彼女の大切な人の生命を奪ってしまった。」
− その人は今も貴方を恨んでいるのですね?
「わからない・・・確かめるのが怖い・・・永遠に彼女を失うのかもしれないと思うと、怖くて何もできない。」
− 貴方はもう何も恐れなくていいんですよ、貴方は貴方の中にあるその恐怖を乗り越えられます
「・・・はい」
− 今いちばん貴方がやりたい事は何ですか?
「あの子に逢いたい・・・マヤに・・・」
− わかりました・・・次に貴方が目を開けた時、その人は貴方の前にいます。もう貴方は自由です。
自由になった貴方は強い・・・それを信じて正直な気持ちを伝えて下さい。
「・・・」
しばらくして真澄が静かに目を開けると、そこには本当にマヤがいた。
「・・・マヤ?」
わかっていても、思わずその名前を呼んで、存在を確かめずにはいられない。
マヤは静かに頷いた。
まだ何も話していないのに、ただこうして見つめ合うだけで、ひたひたと心が満たされて行くのを感じる。
真澄の意識がマヤでいっぱいになる。
もう以前のように思考が鈍ったり、頭痛を引き起こす不快さは全くない。
あたりには自分とマヤ以外誰もいない。
マヤと二人きりだ。
「マヤ・・・」
もう一度名を呼ぶ。
「はい、私はここにいます。ちゃんと速水さんの前にいます。」
目の前のマヤの存在に安堵すると同時に、途切れていた現実も一気に押し寄せてきた。
マヤが大都を去って、自分から離れていく。
何をしてもしなくても、早晩自分はマヤを失うのだ。
止められるのか、、、止めてもいいのか、、、いや、そうじゃない。
止めたいんだ、止めなければならない。
真澄は言葉を紡ぐよりも先に、込み上げる感情のままにマヤを引き寄せ、思い切り抱きしめた。
「行くな、、、何処へも行かないでくれ。」
「速水さん、、、」
マヤの言葉に拒絶は感じられない。
「君を・・・君を愛している・・・」
一度封を切ってしまった思いは、もう止められない。
「許してくれなくていい・・・俺を憎んだままで構わない・・・それでも俺は君に、、、君のそばにいたいっ。」
真澄の切実な心の叫びに、マヤの頑なだった心もまた解れ始める。
「もう恨んでないよ・・・速水さんのせいじゃない・・・母さんを死なせたのは私・・・貴方は何も悪くない・・・」
「・・・マヤ・・・」
真澄の心にグサッと刺さったまま血を流していた贖罪の杭がゆっくりと消えてゆく。
何もなかった事になどできない事はわかっている。
一生背負っていく罪だということも。
それでも自分はマヤからは絶対に離れられない。
マヤが言ってくれた言葉に真澄は勇気づけられ、救われる気がした。
「・・・そばにいてもいいか?
俺は・・・君のいちばん近い場所にいたい・・・誰よりも近くにいる存在になりたい。」
その気持ちを初めてマヤに曝け出せば、彼女もまた気持ちを返してくれた。
「私こそ貴方のそばにいてもいいの?」
「いいに決まってる・・・俺の、俺だけのそばにいて欲しい・・・俺を愛さなくてもいい、から・・・。」
マヤは切なくなった。
どうして愛されていないと思うのだろう、、、こんなに愛しているのに。
真澄にははっきりと言葉で伝えないとダメなのだ。
「愛されなくていいなんて・・・私はそんなの嫌。
愛した人から愛されたい・・・ずっとそう願ってきたわ。
だから私は速水さんから離れようとしたの、、、叶わない願いを抱えたまま、貴方に会うのが辛くなったから。」
マヤはずっと秘めていた心の内を吐露した。
どうにか真澄を楽にしてやりたいと思ったからだ。
ビジネスの為と言いながら、心のどこかでマヤを諦めようとして紫織との縁談を受け入れた真澄、そんな真澄を諦めようと大都を去ろうとしたマヤ。
不器用な二人の哀しい過ちに、今二人は同時に気づくことができた。
「・・・俺達は同じ間違いをしていたんだな。
そしてどちらも鈍感で臆病だ・・・。」
真澄は抱きしめていたマヤの身体から少し離れて、彼女の顔をじっと見つめた。
「マヤに・・・愛されたい・・・君の心が欲しい・・・」
やっと言えた・・・そう思った瞬間、真澄の瞳から涙が一筋流れ落ちた。
長い間、気づかないふりで、抑えつけてきた思い。
欲しいものを欲しいということさえ許されなかった日々に訣別する。
真澄の頬に流れた涙にマヤがそっと唇を寄せた。
その行動に真澄は一瞬驚くも、すぐにその衝撃は歓喜に変わった。
「マヤ・・・」
真澄がゆっくりとマヤに顔を近づけて、そっと口付けた。
その唇は切なくなるほど震えていて、マヤの唇もまた震えた。
そして真澄はもう一度胸の奥深くにマヤを抱きしめた。
「速水さん・・・私も貴方が好き・・・愛してます。」
「・・・マヤ・・・ありがとう・・・」
実直なマヤらしい、飾らない愛の言葉が何よりも真澄の心に沁みた。
その後、真澄とマヤは真澄の所有するマンションに二人で戻った。
この部屋の存在は水城と腹心の聖しか知らない。
真澄の極秘プライベート空間だ。
「俺の唯一の逃げ場所だよ。」
「シェルターみたいだね。」
真澄はマヤを部屋に通す。
「涼華先生がとにかくゆっくり休みなさいって。
この部屋ならゆっくり休めますよね、速水さん。」
マヤの言葉に真澄はゆっくりと首を横に振る。
「たとえこの部屋でも、俺に安らぎはなどなかったよ・・・」
英介によって幼き頃から帝王学を叩き込まれ、若くして日本経済界の寵児と言われるまでになった真澄だが、仕事で成功をすればするほど、心のどこかで虚しさを感じた。
どれだけ水を注いでも満たされないひび割れたガラスのようだった。
そんな心の隙間を埋めてくれたのが北島マヤだった。
マヤを月影千草の正統な後継者として一流の女優に育てること。
いつしかその事に夢中になっていた。
だがあの頃の真澄はそれをビジネスの為と思っていた。
でも本当はそうではなかったと今ならばわかる。
あの頃の自分に教えてやりたい・・・お前はあの時初めての恋に落ちたのだと。そしてその気持ちこそが愛と呼ぶ感情なのだと。
愛という感情を知り、自覚した真澄が辿り着いた真実はたったひとつ・・・。
「君がいない所には、安らぎも幸せもありはしないんだよ。」
「速水・・・さん・・・」
マヤはいつになく弱々しく見えた男の肩にそっと手を添えた。
そんなマヤの優しさに真澄の心の鎧が音を立てて壊れた。
まだ二人の間には解決すべき問題は残っている。
でも今だけは何もかも忘れたい。
真澄はマヤの胸に顔を埋め、その背中に腕を回した。
小さな子供が母親に甘えるように。
「今夜は何も考えず、君に抱かれて、ただ・・・静かに眠りたい・・・」
「いいわ、ずっとそばにいて、貴方を抱きしめていてあげる・・・さあ、眠って・・・」
After the story...
自身の真実にようやく辿り着いた真澄に、もう何の迷いもなかった。
英介や鷹宮の抵抗がどれだけ激しくとも、それに怯むことなく、真澄は紫織との婚約破棄と政略結婚に伴う事業提携解消に尽力した。
大都としても全くの無傷ではいられなかったが、想定していたよりも遥かにその傷は浅く済んだのは幸いであった。
それもこれも真澄が血の滲むような思いで駆けずり回った結果である。
もちろんその後ろには常に北島マヤがいた。
彼女の存在が、どんな辛い状況下に晒されようとも真澄を支えたのだ。
二人で掴み取った未来はこの先、決して誰にも奪う事はできないだろう。
ある日曜日の昼下がり。
二人の才女が街角のカフェテラスで静かにお茶を楽しんでいる。
「人は愛によって強くも弱くもなるものなのね。
精神科医なんて仕事を生業にしていても、未だに不思議に思うことは沢山あるわ。
人の心は本当に不思議で難しい。」
涼華の言葉に大いに同調する水城が、少し疲れた様子で言った。
「そうね、、、特によく効く心のブレーキを持った人とかは。」
「その後のお二人はどうなの?
貴女、妙にお疲れのようだけれど、あの二人にまた何か問題でも?」
「いいえ、順調そのものよ、お陰様で。
でもそれはそれで大変なのよ、貴女。」
「何が、、、」
「私もあの方に長年お仕えしてきたけど、あんな風になるなんて、、、」
「あんな・・・? どんな風よ、、、?」
「溺愛系、ビジネス界の帝王。」
一見対極にあるようにも思える形容だ。
だが、恋も仕事も一生懸命なら問題はないように思うのだが、何か違うのだろうか。
「溺愛って、、、例えば?」
「あれ以来、マヤさんへの独占欲が半端ないのよ。
映画やドラマで、キスシーンやラブシーンなどあろうものなら大変よ。
全力でその企画を潰しにかかろうとなさるのよ。」
「あらあら・・・芸能プロダクションとしては不味いわよね、それ。」
「でしょう?
今や真澄様は、大都(ほんまる)のCEOよ。
毎回、宥めすかして、まーるく治めるのにホント苦労するのよ。
まあ、結局のところ、マヤさんに説得されて、呆れられるのが怖いから、渋々受け入れては下さるのだけれど、そこに行き着くまでが、まるで駄々っ子。」
涼華はクスッと笑う。
「可愛いじゃない。」
「他人事と思って、、、」
水城が本気ではないものの、涼華を恨めしげに睨む。
「もういっそのこと、さっさと結婚なさればいいのに、まだマヤと恋人関係を楽しみたいとか言っちゃって。
オフを合わせるスケジュール調整も楽じゃないのよ?」
水城の苦労もよくわかるが、じっと彼女を観察していると、別の一面も見えてくる。
なんだかんだと言いながら、水城がどこか嬉しそうなのだ。
「貴女も難儀な性格よねぇ、苦労性というのか、、、お節介というか、、、」
苦笑いを浮かべてお茶を口にする涼華は思った。
こんなほのぼのとして、呑気で幸せな愚痴ならいつでも笑って聴いてあげるわと・・・。
Fin