生まれてこの方、こんなに夏を楽しんだ事など俺にはなかった。
尤もそれは夏に限ったことではないのだけれど。
マヤと巡り逢って、季節(とき)の移ろいを知った。
それは哀しみや途方もない切なさを伴ったが、まるで仕事をするためだけに造られた機械のようだった俺の心はマヤに十年という長い時間をかけて作り変えられた。
最初はこの旅を単なる夏のバカンスだと思っていたが、ほとんどの時間をマヤと二人きりで過ごせるこの濃密な時間で、再び俺の心が作り変えられている・・・そんな気がしてならない。
今朝もマヤが先に目覚めた。
けれど彼女は俺が目覚めるまで、俺の腕の中にいてくれる。
マヤに鼻先をツンツン突かれて、俺はゆっくりと目蓋を開いた。
目覚めて最初に目にするものがマヤのとびきりの笑顔・・・なんて幸せなことなんだろう。
「速水さん・・・そろそろ起きて。
今日は島を一周するのよ。」
マヤの目が期待と好奇心で輝いている。
今日もまた、色々なマヤが見られそうだ。
「・・・じゃあ、おはようのキス・・・」
マヤからして欲しいと、俺は軽く目を瞑り、彼女を待つ。
マヤは “しょうがないなぁ” とクスクス笑って、俺に朝の目覚めのKISSをくれる。
マヤもとても幸せそうにしているから、俺もついつい我儘になる。
一回の短いのじゃ満足できなくて、俺はマヤを引き寄せて何度もキスを繰り返す。
「このままじゃ、どこにも行けなくなりそうだ・・・」
俺はそれでも構わないが、マヤががっかりする顔は見たくない。
思い切って俺はマヤと一緒にベッドを出た。
手配されていたのはドライバー兼ガイド付きのSUV車だった。
俺とマヤはその後部座席に乗り込み、早速島内一周の旅に出かけた。
まず最初に訪れたのはマラサダで有名だというドライブイン。
そこで出来立てホカホカのマラサダとコーヒーを食べる。
最近はマヤに付き合って、甘い物も少しは食べるようになったが、グラニュー糖が目一杯塗されたマラサダには若干の抵抗があった。
だが食べて見ると意外にも甘さは控えめで、揚げたてのフワフワ感と香りが芳ばしく、コーヒーと一緒であれば充分に俺でも食に値する味だった。
マヤが俺の唇の端に付いた砂糖を薬指でスッと拭ってくれる・・・そんな何気ない仕草が面映いけれど、胸の奥がとても温かくなる。
マヤ自身は、今日の朝ごはんがわりだと言って、マラサダを3個、ペロリと平らげた。
パクパクとマラサダを胃に収めていくマヤの健康的な横顔を俺はコーヒーを飲みながら愉しげに眺めていた。
腹拵えも済んで、最初に訪れたのはワイピオ渓谷だった。
展望エリアから広大な渓谷の景色を見下ろす。
側ではガイドが渓谷についての説明をしてくれたあと、記念写真を撮ってくれた。
ガイドのカメラとは別に、俺のiPhoneでも撮ってもらう。
ツーショットなんて照れくさいけれど、こんな機会でもなければ難しい。
いつもは舞台の記者会見やビジネスの場で、同じフレームに収まることはあるが、プライベートのオフショットは、思えば初めてだ。
スーツ姿やドレス姿じゃない、カジュアルな俺とマヤ。
俺はマヤが用意してくれたコーディネートで、ネイビーのスニーカーにオフホワイトのチノパン、白いVネックのTシャツの上に、靴と同色の長袖のlinenシャツ姿だった。
マヤはシルバーのスニーカーに踝丈の白いストレッチジーンズ、そして同色のタンクトップの上にコバルトブルーの薄手のパーカーを羽織っている。
「・・・恋人同士に見えるかなぁ・・・」
マヤが俺のiPhoneを覗き込んでくる。
「恋人同士じゃなきゃ、何に見えるというんだ?」
「だって速水さん、素敵なんだもん・・・私じゃ不釣合いなんじゃないかって、今でも時々思うの・・・」
「マヤ・・・」
時折マヤが見せる不安げな顔・・・その翳りの正体はかつて俺の婚約者だった紫織さんに対する劣等感(コンプレックス)だ。
俺に勇気が無かったばかりに、途中で破談にしたとはいえ望みもしない政略結婚で、マヤの心に消えない傷を残してしまった。
俺は何も言えなくて、ただ彼女を抱きしめる。
俺とマヤはどこか似ているところがあって、恋人同士になって尚、不安に怯えている。
俺もやはり、誰かにマヤに相応しい男かと問われたら、一抹の不安を隠しきれないんだ。
この旅が終わる頃には、そんな二人の臆病な気持が消え去っていればいいのに。
そのために俺が出来る事があるならしてやりたい。
俺は目の前の広大な景色を眺めながら、今の自分にできることを考えていた。
その後もハワイ島を巡って行く。
この島はその特異な自然条件により、島の中に幾つもの異なる気候帯が存在する。
最初は背丈の低い草しかないステップ気候のような地域だったのに、気がつけば景色は一変していた。
今俺たちがいるところは、まさに熱帯雨林と言うに相応しい、ジャングルのような森だった。
この奥に大きなラバーチューブがあると言う。
かつての溶岩の通り路が洞窟になっているのだ。
その中にパワースポットがあるらしく、手をかざすと己のOrbが見える人もいるという。
俺もマヤもガイドに教えてもらって、洞窟の天井に向かって手をかざすが、そんな不思議な光は見えなかった。
「なーんだ、全然見えないじゃないのー」
マヤが残念がっている。
「そんなにがっかりするな・・・君は誰よりも特別な光を持っているよ・・・少なくとも俺にはね。」
俺は彼女の肩にそっと手を置く。
するとマヤも俺を見上げて微笑んだ。
その時、俺たちは気づいていないだけだった・・・。
白いような薄紫のような不思議な光の膜に、二人が包まれていた事に。
ハワイ島一周の旅は順調に進んでいった。
お昼にはloco mocoをお腹いっぱい食べ、ハワイ島で有名なショートブレッドの工場に行き、チョコやクッキーも沢山食べて、マヤは終始笑顔だった。
そして黒砂海岸へ行くとマヤの願いが通じたのか、その名の通り黒い砂浜には、何匹もの海亀(ホヌ)が休息をしていた。
それを少し離れたところから眺める。
「あの亀たち、家族みたいだね・・・」
マヤが慈しみの色を湛えた瞳で呟いた。
マヤが遠の昔になくしてしまった光景だ。
そしてそれは俺も同じだった・・・。
いつかあんな風に俺たちも家族になれたらいい。
ふと俺の心に浮かんだ情景・・・。
今はまだ、恋人同士であることに夢中で朧げにしかなかったマヤとの少し先の人生。
俺が本当に求めているのは誰もが羨む成功者の道ではなくて、そんな平凡な男の幸せなのかもしれない。
どんなにビジネスの世界で成功をおさめても、そこにマヤがいなければ何の意味もない。
それに気づいたからこそ、今こうしていられる。
自分の心の中で少しずつ形を成し始めた思いの輪郭がようやく見えてきた気がした俺だった。
マヤが楽しみの一つにしていた、アメリカ最南端のベーカリーで、滞在中に食べるブレッドを沢山買い込んだ。
まるでおもちゃのように可愛い夢のあるショップだった。
明日は一日ヴィラでのんびりするからちょうどいい。
車の後部ハッチにはマヤが買い込んだ、ショートブレッドやチョコレート、コナコーヒーの豆、そしてまた沢山のパンなどが積んであった。
まさにハワイ島を満喫している感満載だ。
そして今日一日を締めくくるのは幻想的な夜の風景。
まずひとつめは、夕闇に浮かび上がる真っ赤な炎。
この星が激しく息づく生命体である事を教えてくれる場所。
キラウエアの火口だった。
今日はマグマが落ち着いているせいか、光が見えるだけだが、日によっては溶岩が弾け飛ぶのが見えることもあるらしい。
俺とマヤはしばらくの間言葉もなく、この圧巻ともいうべき光景に目を見張っていた。
そして今日の最後、俺たちは車で少し山を登って二千メートルくらいの場所までやってきた。
本当はマウナケアの山頂近くへ行ければ良かったが、スケジュール的に厳しいため、今日はここで我慢だ。
それでも東京では絶対に考えられない見事な光景が見られるはずだ。
その証拠に、車を降りたマヤが感動に満ちた声をあげた。
天空一面に広がるミルキーウェイ(天の川)・・・こうしてみると、何故天の川が英語ではミルキーウェイと呼ばれるのかがよくわかる。
まるで夜空にミルクを流したように乳白色をしているのだ。
実は滞在しているヴィラでも、天の川の姿ははっきりとわかるが、やはりここまでの感動は得られない。
それに感動を呼ぶのは天の川だけではなかった。
無数に煌めく星々の光と天空に一筋の光をもたらす流星群。
全てが壮大で幻想的な光景だった。
ガイドが用意してくれたマットに二人で寝転がり星空を見上げる。
この星空の下では言葉など何も意味を成さない気さえする。
だから俺は何も言わずに、隣にいるマヤの手をただ握りしめていた。
こんなにも無数の星がこの宇宙にはあって、その中でたった一つしかないこの地球という星に、俺たちは生まれ落ちた。
何十億年という地球誕生後の時間さえ、この宇宙の歴史から見ればほんの一瞬でしかない。
それに比べたら俺たち人間の一生なんて、星の瞬きにすら満たないほどの、真夏の夜の夢に過ぎない。
けれど、そんな針の先程の一瞬の時、そしてこの壮大過ぎる宇宙空間の中で、この地上に二人巡り逢えたことが、いかに奇蹟的なことであるのか、改めて俺は思い知らされた。
俺はこの奇蹟を手に入れることができたんだ・・・だからこそつまらない不安や迷いで、この幸せを逃してはならないんだ。
「マヤ・・・俺と結婚して欲しい・・・。
これから先の人生を一秒だって無駄にしたくない。」
「・・・ありがとう・・・速水さん。」
マヤが手を握り返してきた。
「貴方は私に本当に色々なものをくれた・・・そして今、また一つ大切なものをくれようとしている。」
マヤの心には今日見た、黒砂海岸での光景が焼き付いていた。
「私・・・家族が欲しい・・・速水さんと私・・・そして生まれ来る私達の子どもと・・・家族になりたい・・・」
俺の心に浮かんだ思いとマヤの思いは同じ形をしていた・・・。
俺達にまたひとつ、奇蹟が起きた気がした。
その夜、部屋に戻った俺とマヤは旅の疲れなど気にならない程に強く引き付け合い、求め合った。
瞼の裏に焼き付いたあの赤い光のマグマような熱で二人は互いを焼き尽くす。
そしてその熱情が静かに引いた後の俺達が見たものは、永遠という宇宙の無限の広がりであった。
そして今夜、新たな奇蹟が俺とマヤの間に起きようとしていた。
その奇蹟は、すでにあのラバーチューブの洞窟の中から始まっていたのかもしれない。
だが、俺とマヤがその奇蹟に気づくのは、まだもう少し後の話となるのだった・・・。
〜Fin〜