君はきっと来る・・・。
アンナカレーニナのこの舞台に。
卑怯だとは思った。
君を舞台のチケットで釣るような真似をして。
でも、どうしても、俺は君に会いたかった。
開演直前に俺は座席に座る。
今日のスケジュールは秘書に言って、無理やり空けさせていた。
だから、もっと早くに劇場に行けたのに、俺は行かなかった。
俺の顔をみたマヤに逃げられるのを怖れていたから。
君が愛しているのは紫の薔薇の人・・・俺なのに俺じゃない別の男。
紫の薔薇と愛に溢れた言葉は俺の偽りない真心なのに、速水真澄の心としては君には届かない。
だから、こうして俺は君の前に立つしかない。
憎まれても嫌われても、大都芸能の野心家社長として。
俺が座席に座った途端、君は席を立った。
それを予測していた俺は、即座に君の手を掴んだ。
~逃がさない~
俺の心を彼女に読まれてはいけない。
俺の心を知ったら、彼女との繋がりは完全に消える。
速水真澄は北島マヤを愛してはいけない男だから。
それでも俺はマヤの傍にいたい・・・。
どうすることもできず、俺は彼女の手を握ったまま、緞帳の下りた舞台を無表情で見つめている。
「帰ります・・・離してください。」
「・・・女優として成功したいなら、利用できるものは全て利用しろ。
それが例え憎い俺であってもだ。」
「貴方は私を女優として利用したいんですね。
自分の野心のために。」
「・・・君がどう思おうと構わない。
俺は君を女優として成功させる・・・それだけだ。
この舞台もやがて君の血となり肉となるはずだ・・・それがチケットを贈った理由だ。
・・・だから、座れ。」
マヤが何か言い返そうとした時、開演のブザーが鳴り響き、ホールが暗転した。
マヤはタイミングを失って、座らざるを得なくなった。
マヤは観念したように席に着いたが、俺はマヤの手を離さなかった。
いや、離せなかった・・・。
「速水さん・・・手を離して下さい。」
マヤがそう言うたびに、マヤの手を握る俺の手に力が入る。
どうしても離したくない・・・言葉にはできないけれど、この想いを殺すことはできなかった。
マヤが諦めたように舞台に意識を向けた。
舞台の幕が上がる・・・。
マヤはやがて俺に握られた手のことなど忘れてしまったかのように、舞台にのめり込んでゆく。
この娘はいつでもそうだ。
舞台の前では、ありとあらゆるものが霞んで見えているのかもしれないな。
俺は舞台など二の次で、マヤの横顔を見つめていた。
けれど、彼女はそれすら気づかないほど、芝居に熱中している。
俺が傍にいることなど、もう眼中にない。
~妬ける・・・~
そんなことすら嫉ましく思えてしまう狭量な俺。
一度は緩めた手に、また力を込めた。
それに気付いたマヤが俺を見た。
~俺を見て欲しい~
俺の眼はそう訴えていたに違いない。
マヤの瞳が明らかに戸惑いを見せていた。
今の君に俺はどうやって見えているのだろう・・・。
マヤが再び握られた手を意識した。
振り払われることを恐れて、俺の心が緊張する。
けれど、君は何の反応もないまま、再び舞台に意識を戻してしまった。
反応なし・・・無視。
これほどダメージを受ける仕打ちはない。
言葉で「嫌い」と拒絶されるよりも、傷ついてしまう。
流石に辛くなってきた。
心がやるせなさと哀しみで震えだす。
もうこの手を離して、席を立とう・・・。
そう思った瞬間、俺は信じられない経験をした。
マヤの手が俺の手の中で180度回転し、彼女の指と俺の指が交互に重なりあった。
俺は驚いてマヤを見つめた・・・けれどマヤは舞台を見つめたままだ。
理由はわからない。
舞台の主人公に自分を重ね合わせただけ・・・?
でも目の前の物語はまるで違う状況だ。
俺は戸惑った・・・けれど、このチャンスを見す見す逃すものか。
俺はマヤの手が離れていかないように、手のひらをぎゅっと握り込んだ。
そう・・・恋人のように・・・。
マヤと二人で手を繋いで舞台を観ている。
たったそれだけのことなのに、俺の心は震えていた。
この時間が永遠に続けばいい。
けれど無情にも舞台は終わる。
緞帳が下り、何度目かのカーテンコールで、ホールに公演終了のアナウンスが流れる。
周囲の人々が一斉に席を立ち、出口に向かう。
俺たちは最後まで席を立たないでいた。
手も繋いだまま・・・。
「速水さん、帰りましょう。
もう手を離して下さい。」
「・・・この後、俺に付き合ってくれると約束してくれるなら、手を離すよ。」
「えっ?」
「君に不快な思いはさせないと約束するから・・・承知してくれ。」
マヤは俯いて、ゆっくりと頷いた。
公演はmatinéeだったから、時間はまだ4時前だ。
「何処へ行きたい?」
「急にそんなこと言われても・・・。」
「欲の無いお嬢さんだ。
じゃあ、まずはお茶でもするか。
君の好きなケーキが食べられるところがいいな。」
俺は劇場から歩いてすぐにある帝都ホテルのティーサロンにマヤを連れていった。
高層階にあるティーサロンには個室があり、ガラス張りの壁面から東京の街が見渡せる。
俺は彼女にアフタヌーンティーをオーダーした。
三段トレーには、フィンガーサンド、焼き立てのスコーンとクロテッドクリーム、色とりどりのプティフールが盛られていて、マヤを喜ばせた。
「あまり食べ過ぎると夕食が食べられなくなるから程々にな。」
俺はコーヒーを飲みながら、マヤに忠告した。
「大丈夫ですよ。
甘いものは別腹です・・・。
夕食は適当に済ませますし。」
「何言ってる・・・。
今夜は俺に付き合ってくれるんだろ?」
俺は当たり前といった風で、彼女を誘う。
「ええ?
お芝居にハイティー、それにお夕食までなんて、私そんな図々しいことできませんよ。」
彼女は驚いて、夕食を拒否する。
「別にいいだろ?
俺が強引に誘ったんだから。」
彼女の警戒を紛らわすため、悪戯っぽく笑ってみせる。
「何か企んでません?」
「バレたか・・・。
今から買収しておくんだ。
もし君が、亜弓君を負かして紅天女の正式な後継者になった時に、大都芸能と専属契約を結んでもらうためにな。」
「やっぱり・・・速水さんは、仕事虫の冷血漢ですね。」
今日は不思議と、互いの言葉に棘が無いような気がする。
マヤも今では結構リラックスしているように見える。
スコーンを頬張りながら、今日の舞台の事を楽しそうに話してくれる。
俺はそれが嬉しくて、楽しくて、時々言葉を挟みながらマヤの話を聞いていた。
「今度の舞台・・・楽しみにしているよ。
『忘れられた荒野』・・・君の狼少女。」
マヤの表情が一瞬硬くなる。
俺は焦った・・・知らず知らずのうちに彼女の地雷を踏んでしまったのか。
「・・・速水さん、ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「亜弓さんのパーティーで、私を嗾けて、狼少女を演らせたのは・・・私達のためだったんですか?
あの後、興行元と劇場がトントン拍子に決って。
あそこにいたマスコミを上手く利用してくれたんですよね。
水城さんが、速水さんは結果を考えずに行動する人じゃないって。」
「そうだな・・・。
確かに俺の目論見通りに事は運んだようだ。」
「どうして?」
「観てみたいと思ったからだ・・・君の狼少女を。」
俺は素っ気なく答えた。
マヤの狼少女が観てみたいと言ったのは嘘じゃない。
「理由はそれだけ?」
「他に理由が要るのか?
どんな理由なら君は満足する?」
「べ、別に他に理由が欲しい訳じゃないです。」
マヤはちょっと不機嫌そうにケーキを突いている。
~全部君のためだよ~
そう言ったら、君はどうする?
喜んでくれるか?
きっと君は疑心暗鬼な瞳で俺を見るだろう・・・「何を企んでるの?」と言わんがばかりにね。
マヤは俺を・・・速水真澄という人間を受け入れていない。
俺とマヤの間には、いつまでたっても渡れない橋がある。
それは、華奢な綱でできた吊橋のようなものだ。
渡ればきっと切れてしまう。
そして、崩壊した橋は二度と元には戻らず、俺は谷底に真っ逆さまに落ちてゆく・・・マヤの愛する紫の薔薇の人も一緒に。
俺にはそんな勇気はない。
マヤとの関係を完全に断つ勇気なんてない。
これ以上、何も言わなければ、しなければ、マヤの心の一番深い所に、たとえ紫の薔薇の人としてでも俺の居場所が保たれる。
それだけは絶対に失いたくないんだ。
だから・・・真実の事は何も言わない、言えない。
「・・・ごめんなさい。」
唐突にマヤが謝ってきたから、俺は驚いた。
「どうした?急に謝って・・・。」
「手・・・速水さんの手。」
マヤの視線が悲しそうに、俺の右手に注がれる。
狼少女になりきったマヤが噛み付いた時の傷が今も生々しく俺の手に残っている。
「ああ、これか。
確かに痛かったが、気にすることはない。
嗾けたのは俺だしな。」
「でも・・・」
「俺に申し訳ないと思うなら、この後の食事に付き合ってくれ。
12時までには、君の家に送ると約束するから。」
魔法が解けるのは午前零時と決まっている。
それまではせめて夢を見させて欲しい。
自分のいじらしさに呆れてしまい、自嘲的な溜息が零れてしまう。
「わかりました。お付き合いします。」
「ありがとう、うれしいよ。」
思わず本音を口にしてしまった。
「速水さん、私なんかといて、嬉しいんですか?」
「君には迷惑か?
俺じゃなくて紫の薔薇の人だったらよかったな。」
自虐的な言種を止められない。
「迷惑ではないです。
それに私、速水さんと紫の薔薇の人を比べたり、重ねたりしていませんから。
最近、時々思うんです。
速水さんは、私が思ってたような酷い人なんかじゃないかもって。
紫の薔薇の人はホントに無償の愛情を私に注いでくださっているけど、速水さんも打算だけじゃないような気がします。
私、都合よく騙されてますかね・・・。」
「フッ、君も少しは大人になってきた・・・と言いたいところだが、俺の術中に嵌っているぞ。」
「やっぱり、そうですかぁ。」
「怒らないのか?」
「ハハ、今更ですよ、速水さん。」
マヤの言葉は、俺を迷わせた。
食事の間もマヤの一言一言に俺は一喜一憂することになった。
こんなにも長い時間をマヤと穏やかに過ごせるとは思わなかった。
マヤと二人でいるだけで、ワインの味も料理の味も極上のものに変わった。
食事を楽しむという事を初めて知った気さえする。
けれど、もうすぐです魔法が解ける時間だ。
マヤのアパートの前に着いてしまった。
もう、彼女を引き留める術はない。
「『忘れられた荒野』楽しみにしているからな。」
「観に来てくれるんですか?」
「ああ。」
「私、速水さんに褒めてもらえるように頑張ります。」
「もう部屋に入りなさい。
おやすみ、マヤ。」
「おやすみなさい。
速水さんも気をつけて帰って下さい。」
マヤがアパートの中に消えて尚、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
こんな風に君と繋がっていられるなら、このままでも俺は耐えていけるのかもしれない。
でも、そんなのは幻想だ。
間も無く俺は、鷹宮令嬢と婚約披露をする。
こんな風にマヤと時間を過ごすことなど許されない身となるのに。
この先俺たちはどうなっていくんだろう。
マヤへと続く吊橋を渡れる日は来るのだろうか。
その僅かな希望に縋っていなければ、俺の心は燃え尽きた白き炭のように死んでしまうだろう。
この時の俺は・・・いや、マヤもまだ知らなかった。
『忘れられた荒野』が二人の運命の歯車を大きく動かすことになることを・・・。
~To be continued~