石川県金沢市、持ち帰り寿司・弁当の名店、芝寿しは1958年の創業以来、地元の信頼を得ながら北陸三県で外食事業を営み、のれんを育ててきました。

そののれんは、創業者である故・梶谷忠司さんから長男の晋弘さんへ、2014年には三代目の真康さんへと渡されました。

三代にわたり継承される「商人の志」とは何でしょうか。

 

親が背中で教えた商いの心

 

芝寿し二代目の梶谷晋弘さんは、1991年に創業者である梶谷忠司さんから事業を継承しました。

「命懸けで守り育ててきた芝寿しの経営を継がせるには人望が必要。経営のトップが人格者でなかったら会社はつぶれる。トップは人間形成が大事」

そう考えた忠司さんは、息子の晋弘さんを、倫理道徳の研究と心の生涯学習を推進するモラロジーを教育理念とする麗澤大学に入学させました。

そこで二代目は人間の本当に大切な倫理を学び、芝寿しに持ち帰りました。

それは、自分と同じように他人を大切に思いやる生き方です。


芝寿しの存在価値とは何か――それは、「おいしい寿司を提供し、お客さまに幸せになっていただくこと」と、生前、忠司さんはくりかえし伝えました。

誰が食べてもおいしいものをつくって売れば、必ずお客さまはついてきてくれる――そんな創業者の働く姿勢を晋弘さんは幼いころから身近に見て育ちました。


忠司さんは創業時、毎日大変な努力をしていたといいます。

最後の1個が売り切れるまで、夜遅く営業するのは当然のこと。

夜遅い夕食を食べながら、それでも両親が「寿司屋はいい商売だ」と話し合っているのを聞いて晋弘さんは育ちました。

おいしいものをつくれば、すぐにお客さまからおいしいと言ってもらえる。そのお客さまがまたほかのお客を連れて来てくれるーー。

「こんなにいい商売はないと毎日のように両親が会話していた」と晋弘さんは振り返ります。


両親はこれまでさまざまな商売をしてきて、いろいろな苦労をしてきました。

洋装店をしていたときは、流行が終わって季節はずれになると原価割れで売らなければなりませんでした。

電気店は在庫を持たなければならず、ほとんどがローン販売なので売れても現金が入ってきません。

しかし、寿司屋にはそうした苦労はありませんでした。

流行にも左右されず、今日仕入れた米は明日には商品になります。

つまり在庫を持つ必要もなく、売れれば現金収入となるわけです。

それが両親にとってはありがたかったのです。


「両親は“感謝”という言葉をよく口にした」と晋弘さん。

そんな会話を聞いて育ち、そんなにいい商売なら継ぐだけだと、家業を継ぐことに何の抵抗もなかったそうです。

28歳で専務に就任し、実質的な経営を関わってきたものの、40歳で社長を継ぐまで最高責任者である父、忠司さんが上にいてくれました。

30代までは業績も右肩上がりで成長していましたが、好決算を終えても、達成感や充実感がまったくなかったといいます。

また来年、規模を拡大しなければならない――「坂の上の雲」を追い続ける日の連続でした。


「社長に就任して、いったい会社とは何のためにあるのか、社長とは何をする人なのか、20代から商業界ゼミナールで経営を学びながらも、それが分からずもんもんとしていた」と晋弘さん。

いろいろな人に、会社経営のあり方、あるべき社長の姿を聞いたが、ひと言で答えてくれる人はいませんでした。

あるとき、倫理法人会の集まりで出合った本の中に、「経営とは人のためにあるのであり、経営のために人があるのでない」という一文が心に止まりました。

そのとき初めて、商業界精神である「店は客のためにある」という言葉がすっと入ってきました。

そして父が守り続けてきた「仕事や経営を通じてお客さまを幸せにする」という言葉が体を満たすように感じたそうです。

 

古しくて新しきもののみ栄える

 

芝寿しの代表商品である「笹寿し」は、創業者である忠司さんのひらめきから生まれました。

白山比咩神社の参道に売られていた笹もちにヒントを得て、もちをご飯に置き換えたのが、そもそもの笹寿しの始まりでした。

この笹寿しは現在月産200万個、芝寿しの代表商品として揺るぎないものとなっています。


しかし、当初なかなか売れませんでした。

商品開発した忠司さんの笹寿しに対する思いと、当時販売の責任者だった晋弘さんの商品に対する熱意には温度差がありました。

「会社を辞めてまえ!」

毎日販売残数を報告し、笹寿しの生産を抑えるよう説得する晋弘さんに創業者は言い放ちました。

芝寿しの商品は、400年の伝統のある祭り寿司を素にしています。

これをパッケージやデザイン、キャッチフレーズで洗練されたイメージで売り出したことが始まりです。

笹もちにヒントを得た笹寿しには将来がある――忠司さんはそう確信していました。


「古くして古きもの滅ぶ。新しきて新しきもの滅ぶ。古くして新しきもののみ栄える」

商業界ゼミナールでそう学んだ忠司さんには「必ず売ってみせる」という信念がありました。

忠司さんは、その笹寿しの365日分の広告をつくり、地元紙に毎日掲載しました。

結果、爆発的なヒット商品となり、それを原動力に笹寿しは石川、富山、福井の三県で販売網を拡大しました。


「そこに創業者の強い思いを痛感した」と晋弘さんは振り返ります。

「寿司屋という業種は昔からある。関西風の押し寿司も長い伝統がある。弊社は売り方、つくり方、伝え方が変わってきているだけで、商いの精神はまったく変わっていない。それは『とにかくおいしいものをお客さまに提供する』という創業者の一貫した思いがすべてです。食べ物商売はそれに尽きる。

原価率とか自己資本率とか『賢い商売』をするな、と創業者から言われ続けてききました。経営とは、縦軸の『経』、横軸の『営』で成り立つ。経とは経典であり、会社で言えば理念。これがぶれてはいけない。営とは戦略、戦術。それは時代や環境とともに変わっていく。変えなければならないのは、商品であったり価格であったり、時代が要求するもの。変えてはいけないものは信念と理念だと」

晋弘さんは社長在任中、創業者の思いを守り続けてきました。

 

三代目が取り組むべき課題

 

三代目を継いだ真康さんは、大学3年のときには、事業の継承をめぐり、父であり社長である晋弘さんと対立して家出した経験を持ちます。

「大学を卒業するとき、いずれは家業を継がなければならないという覚悟はありましたが、本心では抵抗がありました。それは、会社の規模が大きすぎたため。生来、身の丈の自分の思うままに自由に生きていきたいという願望があった。企業となった芝寿しは背負うものが大きすぎた。つぶすのが怖かった」


真康さんは祖父と父親の背中を見て、「並みの人間では会社経営はできない」と痛感していました。

創業者と二代目は考え方や価値観がぴったり合います。

それは二代目である父が創業者である祖父の意向をすべて尊重し、継承し、血肉としていたからです。

「自分にはその“あうん”がない、と真康さんは言います。


大学卒業後、3年という期限付きでオリジン東秀に入社。

芝寿し創業者である祖父の遺伝子「店は客のためにある」という理念は、幼いころから当たり前のこととして聞かされ続けてきました。

オリジン東秀に入っても、何の迷いもなくその信念で仕事をしていました。

10年分を3年で修行し、芝寿しに入社。

当時社長であった父には、あいさつの仕方から話し方まで徹底的に教育されました。

社員の前であろうがなかろうが、一から十まで厳しい指導を受けたと振り返ります。


「芝寿しに入ると、いつのまにか責任が増し、従業員や会社の利益など、守らなければならないものが自分の中で増えてきた」と真康さん。

そうすると迷いが生じてくるものです。

大事なのは会社か、お客さまかーー。

創業者である祖父はどんなときでもお客の方を向いていました。

それこそ、生きた伝説になるくらい徹底していました。

それが創業者のすごさ、その遺伝子を全身で受け継いだ二代目のすごさ、それが今の自分にはできていない……。


「100年後はこんな会社にしたいという強い思いがないと駄目」と晋弘さんは言います。

「不景気だとか、競合がどうだとか言う前に、その経営者がどれだけ思いがあるのか。そこに道が開かれたり、閉ざされたりする分かれ目がある」

晋弘さんは20代のころ、心を込めて商品をつくり、お客さまのために商売をすれば店は良くなっていくということを、店のご飯炊きの職人に教わったといいます。

米を炊く前に研いだ米を撫でながら、「おいしく炊けてくれ」と強く念じるのです。

すると、本当においしいご飯が炊けるのだと。

そのとき、強い思いがないと経営はできないと悟りました。


百年企業に向けた新しい挑戦はこうして、三代目の真康さんに託されたのです。

金沢を訪れたらぜひ、あなたの舌で“強い思い”を確かめてください。