サッカーでも、音楽でもないとしたら・・・さらにマンチェスターの歴史を調べてみます。14世紀、オランダの織物職人達の移民によって毛織物の生産が行われるようになったことがきっかけで、その後、定期的にマーケットが開かれる商業都市に発展したそうです。マンチェスターが劇的に変化したのは18世紀後半。1785年に紡績機に蒸気機関が導入されることによって、大量生産が可能となり、一気に工業化が進みます。いわゆる産業革命と言われている時代を経て、街の人口は爆発的に増加し、経済は急成長を遂げました。1830年には、西方50キロ離れた港街・リヴァプールとの間に、世界で最初の鉄道が開通したことで、今まで以上に、原料の綿花、燃料の石炭の輸送が円滑になり、マンチェスターで生産された綿織物は、リヴァプールを経由して世界中に輸出されました。
一般的には、奴隷貿易で大きな富を蓄えたリヴァプールの商人達が、マンチェスターの綿工業に投資をしたことで、マンチェスターは工業都市へと大発展したとされています。工場労働者は農業従事者よりも高い賃金を手にすることができるようになりましたが、その反面、工場から排出される煤煙で街中は灰色の空気に覆われ、さらに長時間労働や住環境の悪化によって、結核に罹患する人も多かったと言われています。伝染病の蔓延もあり、工業地帯の労働者達は、その賃金との引き換えに、劣悪な環境での労働を強いられていたわけなのです。1850年頃のイングランド、ウェールズの平均寿命が50歳と言われているのに対し、マンチェスター、リーズ、リヴァプール等、工業都市が集中しているイングランド北部 の平均寿命は、39.9歳とかなり低く、乳児の死亡率は1861-1900 年までを通じて、他の地域に比べて際立って高かったと言われています。特に、マンチェスターの労働者階級では乳幼児の 57%が5歳になるまでに死亡していたと言われています。
1900年(明治33年)、夏目漱石、33歳の時、文部省よりイギリス留学を命じられます。
期間は2年間、目的は英語教育法の研究で、主にロンドンに滞在しておりました。その間、ロンドン滞在日記を残しているのですが、その日記の一部を記します。
1月4日 倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ真黒なる塊りの出るに驚くべし何百万の市民は此煤煙と此塵埃を吸収して毎日彼等の肺臓を染めつつあるなり我ながら鼻をかみ痰するときは気の引けるほど気味悪きなり
(ロンドンの街をぶらぶらしとって、試しにペーッと痰、吐いてみたら、なんや知らんけど、真っ黒けの塊が出てきてやな~、そらもう、びっくりや! 何百万人もいてはるロンドン市民の皆さん、毎日この煤煙と粉塵を吸うて生活してはって、肺なんか、さぞかし真っ黒けっけになってしもうてるんとちゃうやろか。気味悪うて、鼻かんだり、痰吐くのも嫌になるくらいですわ)
江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)生まれ、バリバリの江戸っ子の漱石が、何故、大阪弁なのか理解に苦しむとこですが、この「倫敦日記」、森鴎外の「独逸日記」に比べると愚痴のオンパレードだそうで、ロンドンの空気の悪さを愚痴り、自分の容姿の悪さを愚痴り、しかもひどいノイローゼもあって、あまり楽しそうでないのが伝わってくる内容だそうです。漱石が体験した、当時のロンドンでさえこんな様子でしたので、北部ランカシャー地方、マンチェスターは、もっと酷かったのかもしれません。
明治10年(1877年)を過ぎたあたりから、欧米資本主義国によるアジア市場への進出、侵略に対して、“万国対峙”、“輸入防遏”をスローガンに、これら欧州勢力に対抗すべく、国としても、綿紡績業の育成に力を注ぐその手始めとして、愛知に官営紡績工場を建設。その他の場所にも政府主導で民営紡績工場が設置されましたが、結果どこも上手く行きませんでした。明治15年、大阪・三軒家村に、一万錘の紡績機械と石炭自家発電による電灯を設備し、昼夜二交代制で稼働する最新鋭工場が建設されます。これが大阪紡績工場です。国立第一銀行頭取、渋沢栄一は、錦糸の輸入額があまりに巨額であることに驚き、藤田伝三郎、松本重太郎ら東西の事業家に出資を求め、渋沢個人が、新工場の建設を計画しました。操業当初から大きな利益を生み、その勢いに引っ張られるように、大阪・兵庫には、三重紡績、天満紡績、尼崎紡績、摂津紡績、鐘淵紡績などが次々に工場を建設しました。この頃、大日本錦糸紡績同業連合会(後の大日本紡績連合会)という組織が結成されるのですが、その拠点は大阪に置かれることになり、名実ともに、大阪は、日本における繊維産業の中心地となりました。こうして日本は世界最大の紡績大国となっていくのですが、同時に、大気汚染や水質汚染は、たちまち農作物や労働者の身体に悪影響を及ぼすようになり、大きな社会問題となりました。大阪は、良くも悪くも、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるに相応しい「煙の都」となって行くわけです。
この渋沢栄一と言う人、連ドラ等で脚光を浴びているので、どのような人物か、ご存知の方は多いと思いますが、ボク自身は全く知識が無かったので、簡単にまとめてみました。元は、藍染めの原料、藍玉の製造販売、養蚕を兼業する農家の出身で、幼少の頃から、仕入れ販売を一人でこなしながら、商売のイロハを覚えたと言われています。二十歳頃から、剣術の修業に励む傍ら、尊王攘夷の思想に目覚め、京に出ました。しかし志士活動に行き詰まり、江戸遊学時からの縁で、一橋慶喜に仕えることになります。主君の慶喜が将軍となったことで、自身も幕臣となり、随行したパリ万博で見た欧州の様子、アレクサンダー・シーボルトから得た様々な知識が、彼の価値観をガラリと変えてしまうことになります。元々は攘夷思想の持ち主ですから、明治の時代になって、日本が欧州の工業、特に自身も幼少の頃から携わっていた繊維産業において、欧州の生産技術の前に成すすべも無い状況に、なんとか日本を欧州に負けない繊維大国にのし上がらせたいという想いは、人一倍強かったのではないかと思います。その純粋な想いだけで、日本を引っ張って行かれたのではないかと思うのです。渋沢栄一と言うと、よく「順理則裕」(道理に沿ってなすべきことをなせば、それは繁栄に通じる)が紹介されますが、本音のところは、「まじ大っ嫌いな欧州やけど、ここは、“堪え難きを耐え、忍び難きを忍び”や。じっとアホの振りして、まずは技術を盗ませてもろうて、一日でも早く、自分達のもんにでけたら、その時ゃ、わしらが世界に打って出る番じゃぃ」。
武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)生まれの渋沢が、何故、大阪弁なのか、ここも理解に苦しむところですが、こと商いの話に関しては、大阪弁で表現する方が、迫力が出るので、あえて大阪弁で書かせていただきました。続けます! 明治の時代、500社もの会社の設立に関わったその思いの原点は、実はこんな感じだったんじゃないかと勝手に想像する次第であります。
日本の近代経済の父が、渋沢栄一なら、日本の繊維産業の父と呼ばれるべき人がいます。山辺丈夫という人です。いつも渋沢の名前が表に出てしまい、陰に隠れた存在の山辺なのですが、大阪紡績を成功に導いた立役者の一人として、その功績は大きいのです。元々は英学を修めており、明治10年に英国へ渡航。ロンドン大学で経済学や保険学を学んでおりましたが、彼の元に日本の渋沢から一通の手紙が届きます。その内容はと言うと、
「倫敦大学での勉強、お疲れさんです。実は、川辺君に大切な相談が有って手紙を出しました。アッ、山辺君やったですね。すみません。今の日本の状況をお伝えすると、鳴り物入りでスタートした官営紡績所のプロジェクトやねんけど、なんや判らんけど、お役人達が、相も変わらず、もたもたやっとって、とてもとても上手く行くような感じではないので、国の予算とは別に、うち等はうち等独自で、ちゃんとした紡績工場を造りたいと思ってますねん。そこで川辺君に相談なのですが、違うやん、山辺君や。ごめんごめん。一日も早く、キングスカレッジに転校して、機械工学を学んでもうて、そのノウハウを日本に持って帰ってきて欲しいと思てるんですわ。こちらの勝手で、急にこんなことをお願いすることになってしもうて、学費やら生活費やら、なにかとお金もかかる事やと思うので、取り急ぎ、千五百円送らせてもらいます。何卒、お力沿いを賜りますよう、お願い申し上げます」
・・・きっとこんな感じだったと思うのです。やはりここでも、なぜ手紙の文面までが、大阪弁なのか、理解に苦しむところですが、商売ネタは、大阪弁に限る。なんたって、迫力が違います。と言いうことで、このまま突っ走ります。渋沢が留学中の山辺にポケットマネーで助成した1,500円、現在の貨幣価値で、数千万円に相当するとのことですから、生活費や研究費以上の期待を山辺は感じ、英国で研修を続けたのでしょう。その後、マンチェスターで紡績技術、機械の製造・組み立て、綿花の研究、原料の買い入れ、製造販売など、繊維産業に必要な全てのことを学び、明治13年に帰国します。その際、イギリスの紡績機械、蒸気機関などを買い付け、明治15年に設立された大阪紡績では、工務支配人に就任します。明治31年には、藤田伝三郎、松本重太郎に続いて、三代目の社長となります。本来、国費で成すべきことを自分の判断と財力で成してしまう。これ、正しく、「順理則裕」。道理に沿ってなすべきことをなせば、それは繁栄に通じる。実際に、大阪紡績の成功が、他の紡績会社を引っ張って、大繁栄に通じたわけですから、やはり渋沢栄一と言う人物は、超カッコいいのであります。さらに、一つ気が付いたのは、明治~大正にかけての紡績会社が、いとも簡単に見えてしまうくらい、合併を繰り返しており、元々そういう業種なのかな、くらいに考えていたのですが、これには訳が有って、合併する双方の会社間で、技術責任者や経営者が兼任していて、技術を共有していたり、同じ資本関係であったりして、生産性にスケールメリットを出すために、合併を容易にさせる土壌があったようなのです。この動きによって、限られた企業間で、業界が独占されてしまう懸念も出てきますが、繊維業界の安定という大義は果たされたものと考えられます。
今回、となりのレトロ調査団・特別名誉顧問の杉さんと一緒に現場調査に行って参りました。かつてこの辺りが勘助島と呼ばれていた頃にあった百済橋の石碑の前を通り、当時、船大工の作業場が軒を連ねていた川沿いには、今も小ぢんまりとした造船所が営業を続けておりました。そんな街の景色を眺めながら、大阪紡績の工場跡地である、三軒家公園を訪ねました。「近代紡績工業発祥の地」と刻まれた石碑が残されていました。当時、三軒家村がなぜ選ばれたのかと言うと、水運に恵まれ、燃料の石炭や原材料、完成品の運搬に適していたからだと言われています。今も木津川と分離した三軒家川が木津川と並行して、三軒家公園のすぐ脇まできていますが、川は途中で埋め立てられています。当時は、石油ランプを650灯使って、深夜時間も煌々と灯りを灯して、工場は稼働しておりましたが、明治19年には、最新のエジソン式直流発電機を輸入し、24時間2交代制のフル稼働生産を実現しました。川面に映る風景は、まさに不夜城そのものであったことでしょう。明治24年の工員数は、3,970名もいたそうです。この場所に来て、じっと耳を澄ましてみても、目を凝らして辺りを眺めてみても、「東洋のマンチェスター」と言われた、その当時の面影を感じることはできません。
大阪紡績は、大正3年、渋沢の仲介により、三重紡績と合併し、社名を東洋紡績とします。社長は、山辺丈夫が就任し、“東洋一の紡績会社に”との願いを込めて、その名が付けられました。2012年、東洋紡と社名変更されましたが、渋沢栄一、山辺丈夫、その他大阪紡績の設立に関わった全ての人々の願いである、東洋一という思いは、今も脈々と受け継がれています。「東洋のマンチェスターを考える」、終了です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。