【歴代天皇振り返りシリーズ第9回】第十六代仁徳天皇(にんとくてんのう)神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、
民を労わる善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わっております。*民の竈(かまど)の話「国とは民が本である。その民が富んでいるのだから、我も富んだということだ」は有名です。「天皇と民」双方向の深い信頼関係と行動力の話だったのです。

また『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」中の讃(さん)または珍(ちん)に比定する説があるが、確定しておりません。
仁徳天皇は応神天皇の第4皇子で、オオササギノミコト(大鷦鷯尊)といいいました。神天皇はウジノワキイラツコ(宇遅能和紀郎子)を後継として選んだが、応神天皇の崩御後、ウジノワキイラツコが皇位継承を辞退し問題が生じました。...
ウジノワキイラツコとオオササギは、互いに相手を天皇に相応しいと言って、共に辞退したのである。両者が謙譲の美徳※を示して譲らなかった為、3年間の空位が続きました。※両者とも相手に譲る事を美しいと考えており、これを憂慮したしたウジノワキイラツコが自死、結局は兄のオオササギが即位し、仁徳天皇となりました。

■自ら質素に暮らし民を労る天皇として有名です
*即位した仁徳天皇は難波高津宮(なにわたかつのみや)に都を移すが、宮殿は極めて質素なもので何の装飾もなく、茅葺の屋根も先端を切り揃えていなかったという。なんと、自分だけのことで人民の耕作や機織りの時間を奪ってはいけない。
これは出来るだけ軽減しようとの思いからだった。

■民の竈
あるとき仁徳天皇は、高殿から都を望んだところ、民の家々の竈(かまど)から煙が上がっていない事で、人々の困窮を知った。
その為、3年間の租税免除を決めたのだ。その仁政が功を奉し、天候にも恵まれて再び民の家々から煙りが立ち上がったといわれます。これを見た仁徳天皇は安堵し、大いに喜んだという。

■規模な治水工事
また、大阪平野の開発に力を注ぎ、治水工事などを行って豊かな農地を造り出しました。とくに茨田の堤の建設は有名である。この堤はたびたび決壊を繰り返していたが、あるとき天皇は神のお告げを受け、武蔵国強頸(こわくび)と河内国の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を生贄として川の神に捧げれば、必ずや堤は完成するというモノだった。 そこで二人を召して生贄に捧げる事にした。強頸は泣き悲しみながら川に沈み生贄となったが、衫子はヒョウタンを2つ抱えて入水、ヒョウタンを沈めて浮かばなければ真の神だが、浮かべば偽の神であると言って川に入って神意を占った。その結果、ヒョウタンは沈んだが、衫子は無事に生還を果たした。このような大規模な治水工事などの結果、作柄も安定し、民からも大いに慕われたという。

そんな仁徳天皇には6人の子供がいたが、うち3人が皇位を継承し、それぞれ履中天皇、反正天皇、允恭天皇となった。また、仁政を敷いた仁徳天皇には数々の艶聞も伝えられている。
仁徳天皇22年、天皇はヤタノワキイラツメ(八田若郎女:八田皇女)を見初め、后として召し入れようとした。これに対して嫉妬深い皇后、イワノヒメノミコト(石之比売命)が猛反対し、天皇の説得に頑として応じない。そこで天皇は皇后が紀伊国に出掛けた間にヤタノワキイラツメを宮中に召し入れました。
それを知った皇后は激怒し、御所には帰らずそのまま葛城の方に居を移したといいます。天皇のかえって来るようにとの説得にもなかなか応じなかった。天皇は自らイワノヒメの下まで赴き、和歌を詠んだり懸命に機嫌をとったといわれています。

■仁徳の陵墓
仁政を敷き、多彩な顔を持つ仁徳天皇は83歳で崩御。(古事記)その遺体は百舌鳥原中陵に葬られたという。
これが大阪府堺市にある百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵である。ただし、これが本当に仁徳天皇陵かは不明である。

最後に「民のかまど」の話というのは、仁徳天皇は素晴らしいという一方的な美談ではなく、人々は命令もされないのに自発的に宮殿づくりに励みました。「天皇と民」双方向の深い信頼関係と行動力の話だったのです。

初代の神武天皇に始まり、125代の今上陛下迄で、2678年の永きに亘って,万世1系という男系の家系を紡いできた皇国の国。我々の生きていく上での精神的支柱がまさしく天皇であったと思います。そして天皇を中心として国がまとまり、一貫して自立した国家であろうとしました。

まさしく 日本という国が世界に誇れる由縁です♪
しっかり 国史を学び 伝えていきましょう
*【品が良くて慎ましやか】は渡部昇一先生の「少年日本史」参照

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【吉田松陰神社参拝して墓前を前にして思うこと!】ー本日世田谷の吉田松陰神社に参拝し松陰先生の墓前にて志をご報告させて頂きました!
いま 自分にできることは この世に生をうけ 役割をはたしているのか ご先祖様達の志を果たしているのか 松陰先生の墓前に報告できるのか 松陰先生を前に 志を新たに原点を見つめなおしました。

★吉田松陰先生の『松下村塾記』における松本村への思いと教育の使命

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『松下村塾記』概略要旨
◎長門の国は僻地であり、山陽の西端に位置している。そこに置く萩城の東郊にわが松本村はある。人口約一千、士農工商各階級の者が生活している。萩城下は既に一つの都会をなしているが、そこからは秀れた人物が久しく顕われていない。しかし、萩城もこのままであるはずがなく、将来大いに顕現するとすれば、それは東の郊外たる松本村から始まるであろう。私は去年獄を出て、この村の自宅に謹慎していたが、父や兄、また叔父などのすすめにより、一族これに参集して学問の講究に努め、松本村を奮発震動させる中核的な役割を果たそうとしているのである。

叔父玉木文之進の起こした家塾は『松下村塾』の扁額を掲げた。外叔久保五郎左衛門もそれを継いで、村名に因むこの称を用い、村内の子弟教育にあたっている。その理念は「華夷の弁」を明らかにすることであり、奇傑の人物は、必ずここから輩出するであろう。ここにおいて彼等が毛利の伝統的価値を発揮することに貢献し、西端の僻地たる長門国が天下を奮発震動させる根拠地となる日を期して待つべきである。私は罪囚の余にある者だが、幸い玉木、久保両先生の後を継ぎ、子弟の教育に当たらせてもらえるなら、敢えてその目的遂行に献身的努力を払いたいと思う。 
       ー『吉田松陰』 古川薫著 創元社ー参照

『松下村塾記』は当時松下村塾の名で以て私塾を経営していた外叔久保五郎左衛門の求めに応じて松陰先生が書き贈ったものだそうです。それは村の名前を冠した塾の教育の理想とその責務の大きさが述べられており、その抱負はまことにおおきい。ここで松陰先生は、教育の使命を、君臣の義をわきまえ、「華夷の弁(かいのべん)」を明らかにした「奇傑非常」の人を育成するところに置いている。この考え方は後に自ら主宰者となった松下村塾においてはもとより、先生の終生変わらぬ教育観であった。
*ちなみに、「華夷の弁(かいのべん)」とは。「華」は中華の華で、「中心地」という意味である。「夷」とは、モンゴル、ウィグル族など辺境の少数民族のことである。「華夷の弁」で松陰先生が伝えたかったこと、それは、「中華」と「夷族」の間に本質的な違いはない。人が、自分が今いるところが華であると思い学問に励むならば、そこが世界の中心地となる、ということである
*「奇傑非常」の人とは,特に優れた、会い難い人物!人並み外れた優秀な人材。

松陰先生の松下村塾において,特に松本村から世の中を変える優れた人物を生み出そうとする熱意そして育成への思いが伝わってきます。

私も寺子屋 草莽崛起塾を 松下村塾のような場づくりをしていきます!

かんながら ありがとうございます!

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【美しい生き方 (この国の心をうつす。日本人になろう)シリーズ第9回】-「江戸の子育て」
【江戸の子育てに学ぶ~江戸の寺子屋と段階的養育法 おかげさまで素晴らしい手習いとなりました♪】"うまく生きようではなく よりよく生きよう"

お寒い中 元氣でご参加頂いた方々と今回も深い学びとなりました!私は江戸の人達は”うまく生きようではなくよりよく生きよう”という生き方のもと 子育て人間教育をしていたことです。そこには 仁 義 礼 智 信の五常の徳を 頭だけではなく 体感 実践で身につけられるよう考えられていたのです!

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子供は”世の中の宝であり「ヒトとして生まれてきた赤ん坊を人間まで育てること」それは一人前の男主(おとこあるじ)女主(おんなあるじ)を育てること(自分の頭で考え、自分の言葉で話、自立している)でした。

明治の初めころ 訪れた西洋人が一番驚いたのは はなたれl小僧がきちっと挨拶ができ、字も読み書けたことです。その識字率は、江戸時代・嘉永年間(1850年頃)の就学率は70~86%といわれており、同じ時期のイギリスの主な工業都市でも約20~25%(1837年)、フランスではわずかに1.4%(1793年)、ロシア帝政時代のモスクワでは約20%(1850年)などと、諸外国に比べて格段に就学率が高かったのである。そしてこれが、明治維新後の文明開化期に、一挙に西洋文明に追いつく日本人の知的な底力を形作った一因であったのです

その要因は寺子屋の存在です。
☆寺子屋の呼び名は、上方((京都・大坂地区や伊勢地方など)で用いられ、江戸周辺では「手習指南所(てならいしなんじょ)」・「手跡指南(しゅせきしなん)」等と称されていた。江戸方面では教師を「手習師匠」と呼び、通学している児童を「手習い子」・「筆子(ふでこ)」と呼んだとされています。最盛期には1850~1870年頃には 15000~16000あったといわれています。

「寺子屋」教育の特色・特徴を総括するならば、それは道徳に基づく全人格的教育の重要性を認識していた師匠たちによる「段階的養育法に基づく、理論と実践を融合した総合人間教育」とでも云えると思います。そして師匠たちは、「三つ心、六つ躾、九つ言葉、文十二、理十五で末決まる」という諺にみられる段階的養育法に基づいて、道徳や処世術・実社会での実践を想定した「寺子」各人の性格や成長段階に相応しい指導・教育を心掛け、各々の子供の個性や得手不得手を見抜き、またその子の適材適所を心得て指導に当たり子供の将来に相応しい道を示唆したのです。

子供達もそうした通過儀礼をうけることにより、歩一歩一 
一人前の男主(おとこあるじ)女主(おんなあるじ)になることを意識し自覚していったと思います!

是非 江戸期の人間養育を今に活かしていきます!

かんながら ありがとうございます。

今回も主催者の野田 久美子 (Kumiko Noda)さんより 干支入りお菓子頂きと記念品頂きました!いつも感謝してお