素敵可愛いお写真とスペインかぜの記録 | FWのブログ

素敵可愛いお写真とスペインかぜの記録

 

おはようございます!

夜中古き文献に目を通し、朝日を迎えましたが、

だいぶん凌ぎやすく、急な秋の訪れすら感じます。
 

日中は猛暑再来でしょうが、ところによりお天気

急変・熱中症・感染に十分注意し、外出される

方は楽しんでくださいね!

 

では、記事メイン素敵可愛いお写真は、

佐藤麗ちゃんのお写真行きます!

一部twitterに掲載してますが、未掲載分

も入れ一挙公開します。3年程前ですが、

とても楽しかったのが懐かしい~♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

model:佐藤 麗~♪

出典:ビューイット撮影会サマーフェスティバル

 

ByFW

 

記事本文はおしまいです!

 

 

ここからはスルー必至!FWつぶやきコーナー!

新型コロナインフルエンザウイルスを改めてこのコーナーで記事にする前に、
 

100年前に日本でも大流行し、世界全体に甚大な被害と影響を与えた

歴史的パンデミック俗称スペインかぜ(RNAウイルスインフルエンザ)を、

日本の公文書記録でみてみます。

 

「流行性感冒」(内務省衛生局編)(大正10年発刊、2008年一部外した復刻版)

によれば

 

スペインかぜ、は大正7年(1918年)秋季以来大正10年(1921年)

春季に亘り、継続的に3回の流行を来たし総計約2380万余人の患者と

約38万8千余人(注)の死者とを出し疫学上稀に見るの惨状を

呈したりと記されている。
(注)現代推定45万人と言われています

 

不朽の名画「タイタニック」の同豪華客船が北大西洋上の氷山

に接触し、沈没したのが1912年4月14日深夜であることを

つい思い出してしまった。どちらも不意に予想外の惨状を招いた

からかもしれない。いや違う!どちらも突然悲劇が、それまでの

心躍るような美しくも楽しい瞬間をことわりなく奪い、

そのことが尚更深く生の素晴らしさを印象づけ、刻みつける

効果生々しいものがあると想像してしまうからだ。
 

しかるに無情にも年月による風化は、その記憶すら忘れさせてしまう。

遠い未来になって再び思い起こさせる日が訪れるまで。

 

横道からもどる。当時もワクチンがあり、接種が勧奨されている。

しかし、当時のワクチンは細菌を原料としたものである。このとき

の病原を純粋なウイルス性肺炎と見れば、明らかに的外れである。

しかしあとがき解説では、このときの犠牲者には、細菌の二次感染

をかぶった患者も相当いたことが知られており、それに対するワクチン

と考えていた人たちがいたとすれば、あながち的外れでもないとの

指摘がされてもいる。

 

このコーナーでは、この報告書がいかにすぐれた一級資料で

あったとしても、残念乍らその断片しか書くことはできない。

そこで今につながる教訓を今の予防にも役立つ当時の智恵を一部再現
することで記すにとどめたい。

 

先ずこの時代(スペインかぜ流行当時)の感染症医学水準を超簡単に

概観すると顕微鏡で確認し、病原菌(細菌)が感染し、伝染病が流行ることは判っていた。

そしてワクチンを接種することで人体を病原菌から予防したり、衛ることもわかっていた。


しかしミクロのウイルスは当時は電子顕微鏡もなく、もちろん詳細に

拡大表示する技術もなかったので、スペインかぜはまだみえない敵がであった!

 

遺伝子まで究明できないと、(今生きる現代人が知見共有しうる、RNAウイルスが

遺伝子構造上突然変異(化)で強毒化したり弱毒化もする事実も、疫学を含む積み上がった

基礎科学の輝かしい成果を総結集してわかることができるが)当時の人類は今どうなってるのかの

現状把握が全くできない状態で(いわば丸腰で)変幻自在な恐ろしい脅威に対峙していたといえる。

 

 

大正8年1月(内務省衛生局)発出の流行り感冒(かぜ)予防心得は

次の通りである。(読んで頂くとよくわかるが、今の新型コロナ感染予防策

に似ている。当時の疫学水準を考慮すると、ここまでよく予防策をたてること

ができたことに敬意を表する思いになる)

 

はやりかぜは如何(どう)して伝染(うつる)するか
 

はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。かぜ引いた人が

咳や嚏(くしゃみ)をすると眼に見えない程微細な泡沫(とばしり)が

三、四尺周囲に吹き飛ばされ夫(そ)れを吸ひ込んだ者はこの病に

罹る。かぜを引いて治った人も当分の間は鼻の奥や咽頭にこの病毒

が残って居りまた健康な人の中にも鼻や咽頭に病毒を持って居ることがある

是等の人々の咳や嚏の泡沫(とばしり)も病人同様危険である

 

罹らぬには

 

一、病人又は病人らしい者、咳する者には近寄ってはならぬ。

   病中話などするのは病人の為でもないから見舞いに

   行っても可成(なるべく)玄関ですますがよい。

   病家では御客様を絶対(かならず)に病室には案内しては

   ならぬ
二、沢山人の集まって居る所に立ち入るな。

   時節柄芝居、寄席、活動写真などにはいかぬがよい。

   急用ならざる限りは電車などに乗らずに歩く方が安全である。

   かぜの流行る時節に人に近寄る時は用心して人の咳や嚏の

   泡沫(とばしり)を吸い込まぬ様注意なさい。
三、人の集まって居る場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸

   保護器(「レスピレーター」、又は「ガーゼマスク」ともいう)を

   掛け、それでなくば鼻、口、を「ハンケチ」手拭いなどで軽く

   被ひなさい。

   「ハンケチ」も手拭いもあてずに無遠慮に咳する人嚏する人から

   遠ざかれ。

四、塩水か微温湯(おゆ)にて度々うがいせよ。うがい薬なれば尚ほ良し。

   食後、寝る前には必ずうがいを忘れるな。
  

   筆者注)どれも当世流の書きぶりだが、現代注意喚起されてる

   ことが的確に指示されている。ただ、マスクを呼吸保護器と言って

   いる辺りから推測するに、これを機にマスクが広く広まったことが

   窺われる。ただ、手洗いの励行指示はここにはない。まだ上下水道

   の普及は進んでおらず、井戸からの取水では潤沢な手洗い水の供給
   は得られづらい状況だったと推測される。

罹ったなら

 

一、かぜを引いたなと思ったなら直に寝床に潜り込み医師を呼べ。

   普通のかぜと馬鹿にして売薬療治で安心するな。
   外出したり、無理をすると肺炎を起し取り返しの着かぬことになる。

 

二、病人の部屋は可成(なるべく)別にし、看護人の外はその部屋に入れ

   てはならぬ。看護人や家内のものでも病室に入るときは必ず呼吸保護器

   を掛けよ。

三、治ったと思っても医師の許しある迄は外にでるな。

  地震の震り返しよりも此病気の再発は怖ろしい。

      筆者注)この当時既に再発の危険が指摘され、
        地震の恐ろしさに例えられているがこの後

         しばらくして関東大震災が発生してることと照らし
         示唆深いものがある

 

 

此外(ほか)に気を付くべきことは

一、家の内外を清潔(きれい)に掃除し天気のときは戸障子を開け放て。

  家の掃除は可成(なるべく)塵埃の立たざる様に雑巾掛けするのが一等。

  家の周囲は塵埃の立たぬやうに先ず水を撒いて後掃け。

  学校、幼稚園、寄宿舎、工場などでは殊に是等の事に気を付けよ。

  旅人宿(やどや)、貸席などは客のない間は日中必ず部屋の障子を開けて置け。
二、寝具寝衣などは晴天の日には必ず日に曝せ。
三、用心に亡(ほろび)なし。健康者も用心が肝心(だいじ)。

  幼弱なる子供、老人、持病ある者は殊に用心せよ。
四、人前で咳や嚏をするときは公徳を重じ必ず「ハンケチ」か手拭いなどで

   鼻、口を被へ。
五、病人の痰、鼻汁などで汚れたものは焼くか煮るか薬で消毒せよ。
   病室内の汚れたものなど始末は医師に相談して遺漏(ぬかり)ない様

   にせよ。

 

更に本病の為め生業を失ひ医療に浴し得ざる者に対しては救援上適当の

方法を講ずる様再び左の如き通牒を地方長官に発している。
一部抜粋すると・・・

 

発衛第27号(大正8年2月5日)衛生局長

 

各地方長官宛

 

悪性感冒の救療に関する件依命通牒

 

(略)

咋今地方に依りては其の流行再燃すると共に病毒更に

悪性を加へ猛威を逞うせむとするの状況に有之就ては

之が為生業を失ひ医療に浴せざる悲惨者に対し救援上

適当の方法を講ぜらるるは勿論此の際慈恵救済資金、

大礼恩賜振けつ資金等の収入を以て之が救援の資に充

つるが如きは恩賜の趣旨に副うの措置たるべく尚其の他

各種慈善団体を督励して相当助勢せしめらるる等救療上

遺漏なきを期せられ度。

 

 

一時惨鼻を極めたる流行も大正8年三月に入りて次第に

頽(たい)に向かひ同4月気候温暖の候になると共に殆ど終息

するに至れり。

 

しかし流行はもう1度ある。死者数こそ第2波のときと比べ

少なかったが、どうもウイルス変異があったらしく
強毒化し、致死率が3倍程上がっている。
時の政府は平民宰相で名高い原敬内閣の時代だったが

実は原首相自体スペインかぜにかかっている。

(スペインかぜには国際連盟結成を提唱したアメリカ大統領

 ウイルソンも罹った。(変な話だが国際連盟にアメリカは参加

 していないが)第一次大戦戦後処理が話し合われたパリ講和会議では

スペインかぜで精彩を欠いたウイルソンがドイツの戦後賠償交渉で

ドイツ制裁強硬派仏クレマンソーの主張に押し切られ、

天文学的賠償金をドイツに課し、それが結果的にはナチスドイツの

台頭の土壌となり、悲惨極まる第二次世界大戦へつながった遠因をつくった)

 

日本で大きく注目されたのは、有名人島村抱月がスペインかぜで亡くなった

というインパクトの大きさのせいかもしれない。

 

1906年坪内逍遙と共に文芸協会を設立。早稲田からオックスフォード

やベルリン大学に海外留学(当時留学は誰もが程々の優秀さが

あれば行ける留学とはわけが違う)し、早稲田の教授になり、自然文学

の旗手として新劇運動をすすめ、女優松井須磨子と恋愛沙汰を起こし

須磨子と後に芸術座を結成。とにかく超有名人である。

 

1918年ロシアでの公演を大成功させた矢先、スペインかぜの毒牙に

斃れた。須磨子ものちに抱月のあとを追うように自殺している。

 

ちなみにこのあと人気が一挙に盛り上がった新劇が関東大震災後つくられた築地小劇場を舞台に

日本劇主流の座についていく。
(1937年結成の文学座、1944年の俳優座と続いていった)

話がいつもながらどんどん横道にそれるので、このコーナーはこの辺りで(_ _)