SPキューティな弾ける美フォト&前回のつづきつぶやき(1) | FWのブログ

SPキューティな弾ける美フォト&前回のつづきつぶやき(1)

 

 雨交じりのお天気の日曜となりました。

 

 明日から週のスタート!色々大変な状況ですが、

 「生」というテーマで前回TW上でご紹介した

 SPキューティの素敵なフォトをブログサイズで掲載し、

 ご覧頂けたらと思います!

 

 

 

出典:ゆず企画でのゆづき澪フォトより

 

ByFW

 

 

 メイン記事はおしまいです!
 

 記事の出がらしにもならない駄文乍ら、

 スルー大必至!wFWつぶやきコーナー前回続きです

 

 SNS上のいいねは多様なニュアンスの思い入り交じった

 ポジティブ?発露のシンプル表現だと思っているが、
 

 ニーチェは「よい」(グート)(善)と「悪い」(ベーゼ・シュレヒト)(悪)を

その起源に遡って考え、キリスト教が説く善と悪について

批判的に論じている。

 

ニーチェの起源に照らした「よい」は、イメージ的には

白馬に乗った勇敢でしなやか気品に充ちた伝説の騎士を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。

 

(颯爽とした)「力強い肉体、豊かに溢れたぎるばかりの健康、

それを保持する(現代流に言うと)冒険、舞踏、闘技、さらには

およそ強い、自由快活な行動を含むいっさいのものごと」(道徳の系譜より)

 

それは、こういう諸力についての肯定的かつ能動的な感情を前提とし、

 

すなわち「よい」の意味は

高い者、強力な者すなわち高貴ということ、そして快楽を生み出したり、

創造し、工夫する力、困難を切り抜け乗り越える力、他人を養ったり、

助けたりできる力を持つ者が自己を肯定する自己規定にその本質が

あったはずだと!

 

それを「隣人愛」こそ全てと人々に刷り込み、価値観倒錯させ、よいの意味に

変えたのがキリスト教だとニーチェは主張した。


もちろん隣人愛が現代、よいことであることを疑うものはいないだろう。

 

しかし、この言葉は人類が進化の過程で生き残るノウハウと

して偶然の中で本能的に身につけた自然に湧き出る発露に基づき
同胞を思いやり、共同する行為に駆り立てる自然の情である。

 

それは集団仲間で生きるヒトの生命共同体の核となった情であり、

キリスト教のように全くの異人にまで範囲を広げたものでは

ないはずだとニーチェは考えた。
 

同時に牧師の家に生まれたニーチェは殊更に隣人愛を

強調する教えの中になにか胡散臭さがあることを明敏な感性で

直観してしまう。
 

しかもキリスト教は弱い者、劣った者、貧しい者、卑しい者

こそよい者として神の浄福はここに及ぶものであり、

 

強き者、力ある者、高位な者どもは悪い。あいつらは自分の

ことばかり考える。力のない私たちのことを一顧だにしない。

だからあいつらは悪い!とする逆転的価値観を人々の心情

深く埋め込んだとするのである。現実には何ひとつ変えられない

がそれを内心の中で、復讐する、仕返しするロジックにしている

ことを察知した。


具体例を挙げ繰り返すと、正当な商売であっても金儲けは卑しいこと、清貧こそ尊い
利他的行為こそがよいこと(対比的に利己的行為は悪い)
ヒトの自然な欲望(快楽、楽しみ、富むこと等)を悪しきこととし

厳格な禁欲主義を打ち立てることで禁欲の美徳を

ひたすら人々に説き、それまでの価値を転倒させた価値観に

基づく一見すると崇高のようにみえるが内実はねじれた道徳を根付かせたと言うのである。

 

この価値観の倒錯をルサンチマン史観の底流のニヒリズム

が生み出したとするのがニーチェのキリスト教・道徳批判であり、

すごく簡単に書くとこんな具合となる。

 

そしてキリスト教が世俗社会に絶大な影響を及ぼし、実際上西欧社会を

支配した時代が終焉し、人々の信条としての心の支えとなった近代や現代でも

その内実の底流にあったニヒリズムがキリスト教という卵を脱し、むき出しで表面に顕れ、

現代科学や哲学およそ思考活動に息づいていることをつい感じてしまう。


なおニーチェ哲学をきちんと深く解釈するためには、彼が多大な影響を受けた

ショーペンハウアー哲学やさらにはデカルト・カント・ヘーゲルという哲学巨峰の流れ

のエッセンスを踏まえ理解する必要がある。多方当時世界中の人々を心酔させ、多方警戒感を

も抱かせた、マルクスの「資本論」が絶大な影響力を奮っていた社会であることも。

 

そのほんの入り口に入る前の一部を駄文にて紹介したにすぎないことをおことわりします。

 

紙幅の都合で更なる説明及び近代哲学の流れにまで言及できないのはちょっと残念ですが