第491話 2018.12.20

 

 昨日の記事で紹介したとおり、1971年の東大入試問題では革命的な変化が起きた。

 最も過激だったのは社会科で、それまでの入試問題の枠を著しく逸脱する高度な論述問題が出題されるようになった。

     東大日本史問題についての ブログ記事

 加えて、国語や英語においても知識の丸暗記や受験テクニックでは全く歯が立たない問題が創案され出題されるようになった。

 そして当然のことだが、この大変革が僥倖となった受験生もかなり存在した。

 ラサール高校から東大受験した寺脇研はその代表である。

 彼の自著によると、受験体制に強く反発していた寺脇少年は受験参考書・問題集からは背を向け、小説を濫読し、頻繁に授業をさぼって映画を観に行くというアウトローの高校生活を送っていた。その結果、学校のテスト成績は名門ラサールの中では最下層で、東大合格なんか夢のまた夢、という状況だったそうだ。しかし、上述のような新しい入試問題は、彼のようなタイプの受験生にとっては極めて取り組みやすいものであり、東大法学部に見事現役合格された。

 もしも彼がもう少し上の学年だったら、あるいは東大の入試改革が少し遅れていたら、彼の東大入学は有り得ず、文部官僚・寺脇研も生まれていなかったし、日本の教育史も違っていたものになっていたかもしれない。

 (彼自身も自著の中で、前年までの入試問題だったら合格はあり得なかった、と素直に述懐している)

 

 ついでに言うとー

 私は大学4回生の時、国家公務員上級職試験も受けていて、もしも合格したら文部省に入ろうと思っていた。

 日本の学校教育を根本から改革してみたいと妄想的な夢を抱いていたのである。

 残念ながら試験は不合格で民間企業就職という安直な選択をしたのだが、寺脇研の思想と行動は、大学生だった私の思い描いていた未来予想図とほぼ一致する。

 

 私は高校時代、大学入試のための受験勉強というのが実にくだらないものに思えて仕方なかった。

 特に高校2年時は、受験と名のつく書物には精神的アレルギーを起こし、授業中はずっと小説や新書や漫画等を読み耽っていた。

 高校紛争の余韻が残る当時の進学校には私のような生徒がかなり生息していて、教師の方も、目の前で少女漫画を読んでいる私に注意するなんて危ないことは、誰もしなかった。

 高校3年の夏休みからは、貧しい家庭環境の中、どうしても県外の大学に進学したかったので真剣に受験勉強をやったが、「テストのための勉強」に対する強いアンビバレントな思いは抱き続けていた。

 ちなみに、私より上の世代の予備校講師には学生運動活動家崩れの方がたくさんおられ、大学や受験勉強に対する否定的な感情を心の奥に秘めていたものだ。そして予備校の講義でも、そのような反体制的な雑談を交え、生徒たちも面白がって拍車喝采を送る、という予備校文化が1980年代の大手予備校にはあったのだ。 その代表は河合塾の往年のカリスマ講師 牧野剛

 しかし今の予備校業界では、牧野のようなタイプの講師は完璧に「絶滅危惧種」になっている。(既に絶滅しているのかもしれない)

 

[過去公開記事]

 

第199話 2018.2.25

 
寺脇研という生き方
  
 寺脇研は、かつて「ミスター文部省」の異名を取り、エキセントリックな論客として雑誌やテレビで華々しい活躍をした元文部官僚。
      ウィキペディア 解説記事
 
 1952年福岡市に生まれる。10歳の時に、父親が鹿児島大学医学部教授となったため、鹿児島市の小学校に転校する。
 そして鹿児島ラサール中高から東京大学法学部を卒業し文部省に入る。1992年職業教育課長、1993年広島県教育長、大臣官房審議官等を歴任。
 いわゆる「ゆとり教育」推進の中心人物で頻繁にマスコミに登場し、本もたくさん書いた。趣味の映画評論の本も何冊かある。
   *ただ、映画の嗜好はとても偏っていて、日本映画のある特定のジャンルに入れ込まれ続けていた。 ご著書
 
 これだけでもずいぶん異色だが、その話法は、従前の官僚のイメージからはおよそかけ離れたものであった。
 
 たとえば……
 「私は鹿児島ラサールから東京大学へと進みました。父親がそれを強く望んだんです。私は偏差値教育の犠牲者であったと思っています。……私は文部省に入り、偏差値教育という見えない怪物と、挫折を繰り返しながら戦っているんです」 雑誌『プレジデント』1993年
 「学歴社会がこのまま続いていくようだと、これは私の個人的な言葉になりますが、わが国は滅びるしかないでしょう。しかし、国民のレベルはそんな程度じゃないと思う。今の子どもの親は全共闘世代でしょう。ピラミッドを否定した人たちですからね。いろんなアンケートでも、若い親ほどわれわれの改革を支持する結果が出ている」 『別冊宝島 「日本の教育」改造案』 宝島社 1993年
     等々
 
 彼は徹底して受験教育、受験体制を批判し続けた。知識詰め込みの授業・学習、現実社会や本物の学問から遊離した受験テクニックの訓練が中心の日本の子どもたちの学びの現状を根本から改革しようとし続けたのである。
 実は、彼の思想と主張は、彼の高校時代に日本中の進学校で大流行した「高校紛争」で多数の生徒たちが厳しく激しく教師たちに突き付けたものとほぼ同じものであった。
 実際の所は、若気の至りで徒党を組んで教師たちにケンカを売った高校生たちも、その多くは大学を卒業する頃になると、「就職が決まって髪を切り もう若くないさとつぶやいて」企業戦士や受験指導に熱心な高校教師になったりしていた。
 
 しかし、寺脇研は10代の時の熱い思いを持続し、いささかも節を曲げることなく30代になっても40代になっても、そして還暦を過ぎた今でも、一貫して「受験教育・受験体制打破」の夢を追い続けてきた。私はこの一点だけでも、彼を人としてリスペクトしかつ強い憧れを抱く。
 
 「学力低下」が世間の大きな話題になった頃、寺脇を、国賊、学力低下のA級戦犯といった物言いで激しく非難する論者がたくさん現れ、最近では世間の表舞台から遠ざかっている。
 
 しかし、今着々と進行している「大学入試制度改革」の現状に鑑みると、寺脇の夢と理想は実現しつつあるようにも思える。
 
 ちなみに、予想を上回る「少子化」も、知識詰め込みや受験テクニック練磨等の「受験対策を中心とした教育」のメルトダウンに拍車をかけているという、さびしい現実もあったりする。
 
週刊現代3月3日号 の特集記事「激変! 少子化ニッポンの大学」の小見出し
   ・早慶も無試験で「はい、合格」
   ・東大入るのはこんなに簡単に。でも、就職はできません。
   ・「MARCH」に行く意味って何!
   ・大学「全入」時代に難関私立中学を目指してどうなるの
   ・英語ができるだけの帰国子女はいりません
   ・大学院なんか進んだら、人生終わりです
 
 なお、 寺脇が高校生だった1970年ごろ日本中で起こっていた「高校紛争」での様々な出来事や高校生の主張は
  『高校紛争』 小林哲夫著 中公新書 2012年
 に詳しく記述されている。
 
 
いちご白書をもう一度』 作詞・作曲 荒井由実 1975年
   ウィキペディア 解説記事
   歌詞 全文
 
        就職が決まって 髪を切ってきた時
        もう若くないさと 君に言い訳したね