2020,8.15

 

 私たちの若い頃と比べて、今の若者たちの英語の発音は格段に良くなっている。

 全体的にもレベルアップしているし、ネィティブにかなり近い流暢な話法のできる者も珍しくない。

 

 ただ、多くの大学教師や予備校講師が嘆いていることだが、読み書き能力に関して言えば、難関大学の学生においてもかなりの「学力低下」がみられているようだ。

 

 英語教育についての私の見解は下記のようなものだ。

  1 英語をツールとして使うコミュニケーション力をつけるためには、国際共通語(グローバル・イングリッシュ)という考え方で。

  2 読み・書きの技能向上のためには、伝統的な受験英語の良質な部分を継承・活用すべき。

  3 日本人が日本で英語を学習するのであれば、英会話の練習よりも、英文を「正しく読み・書く」力の鍛錬を主とすべき。

 

 

国際共通語としての英語』 鳥飼玖美子著 講談社現代新書

は、とても共感・納得しつつ読み進めることができる本だった。

 

 鳥飼玖美子は同時通訳者の草分けの一人と言われ、私が子供のころ、テレビで颯爽と英語を使いこなしているのを見た記憶がある。とてもきれいな発音で、とてもきれいなお姉さんだったので強い憧れの念を抱いていた。

 自慢じゃないが、田舎育ちの私は高校を卒業するまで外国人と言葉を交わしたことは一度もない。また、少年時代、私の周囲には英語をネィティブのような発音でしゃべれる人間は生徒でも教員でも皆無であった。

 そんなわけで流暢にかっこよく英語を操る鳥飼さんのまぶしい姿は、まさに別世界の住人に見えたのだ。

 

 この本で彼女が主張しているのは、私たちが習得を目指すべき英語は、イギリス英語でもアメリカ英語でもなく「国際共通語としての英語」だということである。

 

 現代の世界では多様な英語が存在する。それは日本において多様な方言が存在するのと同じである。違うのは日本語には標準語があるが、英語には「標準英語」というものがないことだ。イギリス英語もアメリカ英語もワン・オブ・ゼムに過ぎない。

 従って日本人が徹底してアメリカ人ネィティブのように話そうと努力することは、外国人が日本語を学習するとき、徹底して福井弁をマスターしようとするようなものだといえる。

 鳥飼の言わんとすることは、そのようなことだろうと私は考える。この思想は鈴木孝夫が50年ぐらい前から主張し続けてきたものとほぼ同じだ。それが最近の英語学者の間では主流もしくは有力となってきているのは慶賀すべきことと考えている。

 

 それでは、同書の中で印象に残った言葉を紹介しよう。

 

・英語はもはや米英人など母語話者だけの言葉ではありません。彼らは四億人程度ですが、インドやシンガポールのように英語が公用語の国の人たちと英語を外国語として使う国の人たちを合わせると十数億人。みなさんが英語を使う相手は後者の確率がはるかに高い。英語は米英人の基準に合わせる必要はない時代に入りました。

 

・母語話者が「少し不自然な感じがする英語だ」と感じても、十数億人の英語使用者が理解できるのなら、これは共通語として機能していることになります。

 

・国際共通語としての英語に、もう一つ重要な要素があります。それは自分らしさを出したり、自分の文化を引きずったりしてもいい、ということです。

「アメリカ人はそうは言わない」と言われたら「アメリカでは言わないでしょうが、日本では言うんですよ」。それでいいんです。

 

・日本人は日本人らしい英語を話し、相手は例えば中国人なら中国人らしい英語を話し、でも基本は守っているから英語として通じる、コミュニケーションができる。これがあるべき国際共通語としての英語です。

 (関西弁話者と東北弁話者の間で、多少の苦労はあってもコミュニケーションが成立する、というのと同じ話だと考えてよいであろう)

 

 もっとも鳥飼は、次のような重要な指摘も行っている。

 

・グローバル化した世界で必要なのは、話すこともさることながら、読むこと、書くことです。先に拙著の出版をめぐっての体験を書きましたが、ほぼ1年間にわたる海外の出版社とのコミュニケーションは、すべてEメールであり、実際に会っての会話や電話でのやりとりは皆無でした。

 

 コミュニケーションや英会話という話であればー

 グローバル社会において「日本人は日本人らしい英語を堂々と話せばよい」という鳥飼の主張には、十二分に合理性・妥当性があると私は思う。

 

 そして、その一方で、より重要と鳥飼の言う読み書きの鍛錬においては、従来の受験英語のスキルの良質な部分を継承・活用すべきだとも強く思う。

 

  [追記]

 

 鈴木孝夫は、米英人に対しても、

「日本人らしい英語を話してもよい」

  ではなく、

日本人らしい英語を話すべきだ

という主張を多数の著述を通して繰り返し発信してきた。

40年以上前に彼がその主張を始めたころは、実に革命的、画期的なものであったのだろうが、近年、多くの英語教育関係者が彼の思想の影響を強く受けているように見えるのは、とても喜ばしいことである。

以前、福井大学の英語教育が専門の教授も新聞紙上に、

「インド式英語があるように日本式英語があってもよい。生徒たちに、自分の語る英語に自信を持たせ、どんどん英語をしゃべれるように指導すべき」といったコメントを寄せていた。