まいどっ。

 ちゃみでっす。

 このblogは、蒼辰の構成台本、ちゃみの語りでお送りする[読むラヂオ]です。

 テーマは[暇つぶしのお供]。

 お気軽にお付き合いくださいまし。

 

 さて、1ヶ月の間、ずっとずっと続けてまいりました伊勢参りの話題、本日がとうとうその締めくくりでございます。

 なんかね、とっしょり蒼辰的に、雑感を申し述べたいということでございますので、ま、聞いてやってくださいまし。

 伊勢神宮、20年に一度、遷宮というものを執り行います。

 これ、本宮を壊して、隣の敷地に新たに建て直す、そういう儀式でございますね。

 敷地、隣にちゃんと用意してありました。

 そんな本宮のようすに、蒼辰、なんつうか、ちょっと変わった印象を抱いたようであります。

 ってゆうのわさ、いわゆる聖地巡礼的な、でも観光気分的な感覚で言うと、歴史ある宗教施設ってゆうのわ、建物も歴史的なもので、それを見にゆくってゆうのも、わざわざ出かける理由になってるわけじゃないですか。

 宗教施設だけじゃなくて、城跡とか、宮殿跡とかもそうだよね。

 だがしかし、伊勢神宮は、確かなところで1600年もの歴史を持ちながら、その本宮は常に築20年以下になるわけです。

 ま、そうだわな。

 何百年も昔の人も、この建物を眺め、出入りもしたのか・・ってゆう、歴史的建築物を眺めにゆく観光とは、ちょと受け取る感じが違いますわな。

 しかも、その建物はいたって簡素にして質素です。

 神明造りってゆう、ま、高床式みたいな、ごく古い様式で、屋根も茅葺きです。

 しかし、参拝者は、決してその奥を垣間見ることはできません。

 顔を上げても、そこにあるのは、私たちの視線を拒絶するかのような御簾が、風に揺れているだけです。

 そこに、なにか凄みのようなものを感じてしまうのです。

 ほら、普通はさ、歴史もあり、由緒もある有名な神社ともなれば、本殿もでっかくって、彫刻とかで飾ってあって、わりと派手で、そういう威容ってゆうか、みるからに凄いだろっ、って、見る人を圧倒するじゃないですか。

 けど、伊勢神宮は真逆。

 あくまでも質素にして簡素な中に、深いふかい歴史の、そのまた奥を感じさせてくれます。

 遷宮というシステムも、ま、伊勢神宮だけじゃないんだけど、やっぱそれがあってこそ、伊勢神宮の静かな凄みにつながっていると感じてしまいます。

 この遷宮というシステム、常若の思想によるものなんだそうです。

 常若。

 壊し、建て直すことで、永遠の若さを保とうとする考えなんだとか。

 命は絶えず生まれ変わることで、永遠性を保つってことなんでしょうか。

 分かりにくいので、ChatGPTちゃんに聞いてみました。

 すると、仏教の諸行無常の考え方と響きあうとしています。

 諸行無常とは、変わらぬものはなにもない、全ては時とともに変わりゆくという思想です。

 一方、遷宮は、形を変えながら本質を保つという考えで、そこに響き合うものがあるってゆうんですが、ほんとかしら。

 ChatGPTちゃん、このあとも、ヒンドゥー教やキリスト教とも響き合うって言ってるんですが、どうも、全ての宗教は本質的な部分で響き合う的な前提でロジック組み立てている感があります。

 そのくせイスラムには全然触れてないし。

 どうもね、ChatGPTにもバイアスはあるみたいです。

 みなさま、鵜呑みにしないよう、お気をつけくださいまし。

 ただ、そんなこんなの抽象的な考え方の間を巡りながら、とっしょり蒼辰が思い出したのは、三島由紀夫の[金閣寺]という作品だったそうです。

 これ、若い修行僧が金閣寺に放火して、全焼させちゃった事件を題材にしています。

 三島は、有限の生を生きるしかない人間が、永遠性の象徴である金閣に嫉妬した、的な視線で描いてます。

 金閣寺のような建物こそ永遠であり、やがて死ぬ人間は永遠を手にすることはできないと考える。

 だが、炎とともに崩れ落ちる金閣寺を見たとき、死しても、新しい命が生まれ、継続してゆく人間こそが永遠であり、いつか壊れる物の方が有限なのだと、考え方が転換してゆきます。

 って、さ、とっしょり蒼辰、相当、感じっこだけで話してます。

 肝心の[金閣寺]も読み直してないもんね。

 だから、まぁそんなような感じだった、くらいに受け取ってくださいましね。

 あんましマジになられても困るから。

 どっちみち、なんかちょっと論理遊びみたいな感じはしないでもないお話でしたけどね。

 まぁ、そんなことなんですけど、そこからさらにとっしょり蒼辰が感じたのは、こういうことでした。

 自分が死んでしまったら、この世がどうなろうと、そんなの関係ねぇ、のかどうか。

 え?

 は?

 どゆこと?

 うんとさ、ちょっと前にさ、日本人の道徳観は、お天道さま見てるぞ、ご先祖さま見てるぞって二行に集約されるって話、したじゃない。

 はぁはぁ、なんかありましたね。

 その中で、ご先祖さま見てるぞってゆうのは、ご先祖さまに恥ずかしくない生き方をしなくちゃいけないってゆう感覚が、道徳律になってるわけですよね。

 ってことは、つまり、誰もが、あの世に行っても、子孫がどんな生き方をするか、見てなくっちゃいけないってことだよね。

 まぁ、そうなるのかな。

 そこには、この世は、自分があの世に行っても、子供が、孫が、そのまた子孫が、ずっとずっとその営みを続けるものっていう前提があるわけじゃないですか。

 ふむふむ。

 けど、今、結婚しないことや、子供を作らないってゆう選択とかが、自由に選べる時代に私たちは生きております。

 そういう時代に、結婚して、子供を育ててる人も、そうじゃない人も、同じように、自分があの世に行った後のこの世のことを考えているだろうか。

 そんなことを感じちゃったんだと。

 すなわち・・・。

 自分があの世に行っちゃったら、その後のこの世がどうなろうと、そんなの関係ねぇ。

 なのかどうか。

 この問いにどう答えるかって、今、たった今のこの世の中のこの時代を考える上でも、大切なことなんじゃないか。

 そんなことを感じたのだと、とっしょり蒼辰、申しております。

 なんですか、とっしょり蒼辰にしては、バカに真面目な、大上段に振りかぶったお話でございました。

 でもまぁ、なんとなく生きにくくて、先行きが見えなくて、不安な世の中でございます。

 どう生きればいいか、分からなくなったとき、そんな大上段な問いを、自分に向けてみる。

 そこからもしも新しいものの見方が生まれるならば・・・と期待するのも、悪くはないのかもね。

 そんなことを考えたのも、伊勢神宮の霊力なのかもしれません。

 ひょっと思ったんですけど、本宮は遷宮しますから、死と再生を繰り返します。

 けど境内は、聖域。

 永遠のものなんですよね。

 自然豊かな永遠性を保つ聖域と、その中で繰り返される遷宮という死と再生。

 ね、なんかね、やっぱね、誰しも、つい深遠なことを考えてしまいますわな。

 そういう機会を持つこと、悪くはないと思うけどね。

 やっぱ今も、お伊勢ありがたいとこ、一度はおいで、なのかもね。

 みなさまも、ぜひ一度、伊勢参りを。

 てなわけで、ひと月続いた伊勢特集、ようやっとこれでお終いでございます。

 来週はもう11月。

 とんでもねぇネタが待ってるからな。

 マジだってば。

 ま、いつものように、期待しないで待っててね。

 ほいでわまたっ。

 ちゃみでしたっ。