まいどっ。
ちゃみでっす。
このblogは、蒼辰の構成台本、ちゃみの語りでお送りする[読むラヂオ]です。
テーマは[暇つぶしのお供]。
お気軽にお付き合いくださいまし。
週が明けました。
今週はこれっ。
大阪行ってきたの3回目は、食い物編でございます。
そりゃもう、大阪でっせ。ローカルフードに徹してきたでござるよ、はい。
まずは串揚げっ。
この、大阪の小ぶりな串揚げ、今は串揚げってゆうのが一般的になってるけど、かつては串カツだったはずと、とっしょり蒼辰が言ってます。
そうなの?
ふうん。そうかもしんないね。
東京にも、串カツありますが、大阪のそれとは全然違うのは、みなさまご存知のとおりでございます。
けど、ルーツがどっちかってゆうと、どうやら東京らしいですね。
串に刺して揚げたお肉を、一本2銭で、洋食と称して売り出したのが始まりのようでございます。
屋台で、子供相手に売ってたのね。
明治の後半から大正時代のことのようですね。
それが大阪に伝わったのは、昭和になってからのようでございます。
最初は屋台を引いて売り歩いたものの、なかなか受け入れられなかったとか。
それが、現在のスタイルになったのは、昭和4年に新世界に開店した[だるま]が、働く人たちのために、一口サイズのお肉を揚げて、供したのが始まりだとか。
だるまです。
あの、だるまですよ。
新幹線新大阪駅の改札入った中にもある、あの[だるま]です。
とっしょり蒼辰、食べ物のルーツとかのネタ大好きなんだけど、こういう屋台売りから始まったような食べ物って、なかなかルーツ特定できなかったりするんだけど、大阪の串カツ、はっきりしてました。
[だるま]です。
で、こちらがポピュラーになり、人気になるにつれ、肉屋で売ってる全国的な串カツと区別するため、串揚げと呼ぶようになったということなんでしょうね。
はい。
おいしいですよね。
ちゃみが食レポやってもしょうがないから、それしか言わないけど、おいしいです。
東京でも田中が頑張ってるけど、後追いするお店、現れないよね。
食文化としては、相変わらず大阪だけのものです。
多くの人に知ってもらいたいって意味では、ちょっと残念な気もするし、いやいや、やっぱり大阪のものであってほしいという気持ちと・・う~ん、どっちもアリだな。
フクザツ。
そしてお次は、そらもうお好み焼き。
おいしかったよぉ。マヨのかかってないほうは、いわゆるネギ焼きで、これ、醤油味で食すんですね。
ちゃみは初めて知りました。
ソース味ばっかだともたれそうなとこ、このネギ焼き醤油風味でアクセントつける。
さすが、食の都でございますね。
ぺろっといけちゃいました。
このお好み焼きも、なんたって大阪名物のひとつでございます。
こちら、串揚げと違って、全国にあるお好み焼きですが、各地で個性が違うんだよね。
代表的なとこだと、大阪、広島、そして東京?
これまた、屋台発祥らしく、ルーツ、はっきりしません。
よく言われてるのは、これまた大正ごろ、水で溶いた小麦粉を、鉄板でうす~く焼いて、ソースをかけて食べさせた、一銭洋食という、これまた子供相手の屋台売りの食べ物がルーツという説ですね。
これね、とっしょり蒼辰によると、昭和30年代、夜店の屋台で売ってるお好み焼きはこれに近かったと言ってます。
紙みたいに薄い生地に、「イカ」ってゆうと、切りイカをパラパラパラっ、「エビ」ってゆうと、干しエビをパラパラパラっ。
ソースかけて、紙の上で二つ折りにして、はいっと渡されて、20円くらいだったとか。
ふむ。これ、戦前の一銭洋食の名残りかもしれないっすね。
やがてそれがちょっと進化して、お客が好きに焼くから[お好み焼き]に進化したとか。
ただし、昭和の初めだと、全室個室で、材料だけ提供して、お客が勝手に焼いていて、そしてカップル客が主流だった、なんて時代もあったようです。
へ~え。
で、戦後、食糧難の時代に、お好み焼きは、大阪で、広島で、あるいは東京で、今のような形に進化してゆくわけでございます。
ここで、ウィキにも書いてない、蒼辰独自の考察を披露したいと思います。
って、大袈裟だけど。
とっしょり蒼辰によると、戦後、粉もんが発展したのには、アメリカからの救援物資が、小麦粉だったことと関係があるんじゃないか、ってゆうんですよ。
アメリカ人はなんつっても小麦が主食です。
戦争に負けて、食べ物もない日本人を助けてあげましょうと、寄付を募って、贈ってくれたのも、小麦粉です。
しかし日本人、家庭でパン、焼けません。
そこで家庭では、戦後食糧難時代を象徴する[すいとん]にして食べていたわけです。
その一方で、その小麦粉を使って商売を始めようという人もいる。
それが、お好み焼きをはじめとする粉もん文化が発展する下地になったのじゃないのかというんですね。
どう思います?
もいっこ。東京では、お客が自分で焼く式が今も主流です。
このルーツ、もともとは戦前からあった方式のようですが、戦後、さらに広まった理由のひとつは、戦争未亡人の救済って意味があったんじゃないか、と。
戦争で、多くの若い男性が命を落としました。
中には、既婚者で、子供のいた人もいました。
子供と一緒に残された奥さんも、戦後を生き抜かなくちゃいけません。
そこで、材料だけを提供して、自分は料理しなくていいお好み焼き屋を始める人が多かったんじゃないか、と。
蒼辰によると、子供のころ、どこの街にも一軒はあった小さなお好み焼き屋さん、おばさんがやってる店が多かったとか。
はは~ん。
これまた、ありうる話ですね。
しかし、大阪では、お店の人が焼くスタイルが主流となりました。
これ、大阪人はせっかちなので、お店の人に焼いてもらったほうが、早くて便利だからという解釈がありますが、どうなんでしょ。
とっしょり蒼辰は、何かもう一つ理由がありそうと言ってます。
たとえば?
味自慢。
はは~あ、自分とこの味を売りにするために、お店の人が自ら焼いて、美味しさをアピールした、と。
大阪ならではですね。
けど、こういう分野、証言しかないからね。
もしもご意見、ご考察などございましたら、是非ともお聞かせ願いたいと思います。
もいっこ、これも載せちゃう?
たこ焼きぃ〜。
これまた大阪がルーツとされる粉もんです。
これまた昭和初期の大阪生まれとされているんですが、自然発生じゃないよね。
なんでか。
だってさ、半円形に窪んだとこがずらっと並んでる、あの専用鉄板がなけりゃ作れないじゃない。
なにかを利用したとかじゃないよね。
特注したんだよね。
作ってもらったんだよね。
そこ、どなたか解明してくれたらと思います。
そして、大阪のたこ焼きは、皮パリ、中トロが、東京より強調されたものが主流でございました。
きりりとした大阪スタイル、ちゃみはとってもおいしくいただきました。
いいよね、手軽でおいしいものがたっくさんある大阪。
暮らしやすい街だと思いました。
また行きたいな。
って、シメみたいになっちゃったけど、もう1回あります。
ラストは写真特集で行こうかと、とっしょり蒼辰が言ってます。
普段、ほとんど写真のない当blog。
たまにはいいよね。
お写真に、思い出話を添えて、な~んちゃって。
あはは、にあ~ねぇや。
ま、期待しないで待っててね。
てなことで、今回はここまで。
ほいでわまたっ。
ちゃみでしたっ。