昨日から風邪を引いた。そのせいか今もキーボ-ドの上を指が飛び跳ねている。

 

 先週の日曜日NHKに日曜美術館陶芸家「河井寛次郎」をみた。実は20年ほど前、京都のデパ-トの陶器展示売り場に抹茶茶椀がひとつ置かれてあった。なにげなく気になって茶碗に目をやるといきなり強いエネルギ-が伝わってきた。なにこれっ!と思って、店員さんにあれは誰の作品ですかと尋ねたら、河井寛次郎さんですと言われた。それいらい魂の人河井寛次郎の名前は忘れることはなかった。ですからテレビをみて大興奮、兎に角河井さんの本を読んでみようと「蝶が飛ぶ、葉っぱが飛ぶ」を購入。読んでさらにびっくり仰天、少し長いがびっくりしたところを抜き書きします。是非、読んでください。

 戦争も終わりに近づいた頃でありました。東京も大阪も神戸も都市という都市が、たいていやっつけられてしまいまして、やがてはこの京都も、明日ともいわず同じ運命を待つほかない時でありました。

 私は毎日のように夕方になるとこの町に最後の別れをするために、清水辺りから阿弥陀ヶ峰へかけての東山の高見へ上っていました。

 その日もまた、警報がひんぱんになっていた日でありました。私は新日吉神社の近くの木立の下のいつもの腰掛かける切り株に腰掛けて、暮れていく町をみていました。明日は再び見ることのできないかもしれないこの町を、言いようもない気持ちで見ていました。

 

 その時でありました。私は、突然一つの思いに打たれたのでありました。なあんだ、なあんだ、なんていう事なんだ。これでいいのではないか、これでいいんだ、これでいいんだ、焼かれようが殺されようが、それでいいのだ――それでそのまま調和なんだ。そいう突拍子もない思いが沸き上がってきたのであります。そうです、はっきりと調和という言葉を聞いたのであります。

 なんだ、なんだ、これで調和しているのだ。そうなのだ,――-というそういう思いに打たれたのであります。しかも私にはそれがどんな事なのかはっきりわかりませんでした。わかりませんでしたがしかしいつこの町がどんなことになるのかわからない不安の中に、何か一抹の安らかな思いが沸き上がってきたのであります。私は不安のままで次第に愉しくならざるを得なかったのであります。頭の上で蝉がじんじん鳴いているのです。それも愉しく鳴いているのです。さようなら、さようなら京都。

 

 しかし何で殺す殺されるというようなことがそのままでいいのだ。こんな理不尽なことがどうしてこのままでよいのだー――にもかかわらず、このままでいいのだというものが私の心を占めるのです。この二つの相反するものの中に私は、この二つがなわれて縄になるように、一本の縄になわれていく自分を見たのであります。

 長くなりました。読むのも嫌になったでしょう。これから肝心なことが始まるのに・・・・

続きは次回に書かせていただきます。それまで風邪を治しておきます。ありがとうございました。