葬儀では、僧侶による授戒会と法楽があり、参列者による焼香がある。その後に、棺の中に僧侶からは血脈・破地獄マンダラ・木製の五鈷杵を(これはたぶん真言宗だけで、実際に3点セットを納棺している者は少ないかも知れない)。

 

そして皆さんでお花等を入れる。その前に、お孫さんからの手紙だったり、故人に思い出深い写真だったり、篤信の方は御朱印帖を何冊も入れる。

 

その後に、棺の蓋を閉めるのだが、閉めた後、棺に釘を打つ儀式がある。

血縁の濃い順に、棺の頭の部分に打ち込まれている釘を形式的に石で2回ずつ軽く打ち込みます。これは昔、棺の蓋がしっかり閉まらなかったために運ぶ途中で開いてしまうことを防ぐためと、穢れとされていた死を封じ込めるために行われていました。

 

釘打ちに使われる石は三途の川の河原の石を意味し、死霊の霊力を封じる力があり、故人様が無事に三途の川を渡り冥土に着けるようにとの願いがこめられています。

また、釘打ちをすることで故人様への未練に区切りをつけるという意味もあります。現在の棺は蓋がしっかり閉まるので釘打ちの必要はありませんが、儀式として釘打ちをする仕草だけを残している所もあります。しかし、最近ではこの儀式を省略することも多くなっています。

人情としてもあまりいい気持ちはしない。それに「もう出て来るな!」という気持ちになってしまう。「釘打ちはホントにイヤ」と檀家さんのある方が言われていた。

人情としても、もう出てくるなではなく、殆どの遺族はまた会いたいと思っているのではないか。

 

死と死者は違うと思う。死は厭うべきものだが、死者は厭うべきものでは無い。

また会いたいと思う。お盆に正月に、命日に、春秋彼岸に、また会える。思いがあればいつでも会える。

そう思ってこの世から送り出す葬儀告別式。

 

火葬場から自宅に戻る時に、来た道と違って道を選ぶ。ついてくるなよという事なのだが、今は荼毘に付した骨壺を持っているのに、ついてくるなよはない。これは土葬の時の習俗が、そのまま残ったのだろう。今は同じ道を行き来している。

 

死に穢れを感じたり、霊の祟りと言った言葉は残っているが、現代人でそう思う人は極めて少数派になっている。それによって儀式も変化してきている。