このブログの最初の記事。
心安らぐお寺に 2008年07月31日 21時24分48秒テーマ:日記夜は新宿の地下道で寝ているという人が、新宿までの電車賃で良いから下さいという。270円。その前に訪ねたところで全く貰えなかったのだろう。それで、遠慮して言ったのだと思った。庭掃除など手伝ってもらい、幾らかのお金を渡した。お茶を飲みながら生活振りを訊いた。話したかったのか、自分のことを一生懸命に話した。小生はただ聞いていた。嬉しそうに話し、時に涙して話した。お大師さまや六地蔵にあがっているお賽銭を持っていく人がいた。二人連れで、もうひとりは、あるのが珍しい墓地のお供え物を集めていた。それで命がながらえれば良いのだが、病気になるのが心配。お寺であるが故に、ホームレスの人が訪ねてくる。住職の集まりがあってそのことを雑談として話した。「物はやるがお金はやらない」「お金も物もやらない。困っているなら、役所か交番に行くように言う」「変なコトをされるのが嫌だから300円だけやる」いろいろな考えがある。それぞれの生活、実情のなかで考えた結論なのだろう。「彼等は横の連絡網があって、一度お金を渡すと、あのお寺に行けば呉れるといって次々とやってくる」そんなことを言う人もいた。当山は一食分と言って500円渡す。しかしそれを聞いて連日、引きも切らさずやってくるなんて言うことはない。今月7月一ヶ月で数千円渡しただけだ。賽銭泥棒は困るが、心弱ったときに語りかけたくなるお寺でありたい。福祉施設や行政施設ではないので、具体的な助けは一食の食事代だけで何も出来ないが、語りかけた人が何か心安らぐお寺にしたい。ホームレスの人に限らない。どんな人も差別せず、そこに行けば会いたい人(仏さま)がいる、聞いてくれる人(仏さま)がいる。そんなお寺になりたい。仏像があるから、仏さまがいるわけではない。 ↑ 餓鬼に施す台。亡くなった霊に分け隔て無く供養しようとしている僧侶が、生者を差別したり無視するのはおかしい。あるホームレスの人が「お寺より教会(キリスト教)の方が親切」そんなことも言っていた。キリスト教は隣人への愛を説くが、仏教は対象を差別しない慈悲を説く。お寺や教会は親切、と言われなくっちゃネ。このブログを始めて第1回目に書いた記事が2008年07月31日付の上記文章だ。14年前になる。このころは訪ねて来るホームレスの人もいたが、今は訪ねて来るホームレスの人はいない。管理社会が進んだということか。不要なものは排除されてしまったのだろうか。