つまずきの石・さまたげの岩

              ローマ人への手紙 第9章30~33節

 

               加 藤 高 穂

 

 使徒パウロは、何ゆえに神の民イスラエルが十字架の主イエスを受けられないのかと心痛めつつ、その胸の内を吐露してきた。そして今、この現実を如何に理解したら良いかを問うのである。

 

信仰による義

 「では、私たちは何と言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった」(ロマ9:30~31)。

 パウロは、ここで異邦人とイスラエルを対照して、「義を追い求めなかった異邦人」と「義の律法を追い求めていたイスラエル」と意味深な表現をして言う。すなわち、神の選民を自負するイスラエルは、熱心に神の義を求めて倦むところが無かった。ここで使われた「追い求める」(ギリシャ語:ディオーコー)という語には、熱心に、必死になって追求するといった極めて強い意味がある。

 使徒行伝第8章冒頭には、ステパノ殉教直後に起きたエルサレムでの異邦人キリスト者大迫害の記事が出ている。この迫害(ギリシャ語:ディオーグモス)という語が、正に「追い求める」という動詞に由来するとなれば、その追求の激越なることが容易に想像できよう。それほど熱心に、命懸けで神の義を追求したイスラエルだったが、神の義には達しなかったのである。

 これに比して、異邦人はどうか。イスラエルに倍する熱意と努力を傾注して、神の義に到達したのか。否、義を追い求めなかったにも拘らず義を得たのだ。

 何たる皮肉か。イスラエルの努力と熱心は無駄骨折に終っている。しかも、彼らは、それに気付いていない。そんな同胞を思うと、パウロの胸は疼き、心の痛みと悲しみは絶えないのだ。

 

つまずきの石

 「何故であるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。『見よ、私はシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それに依り頼む者は、失望に終わることがない』と書いてある通りである」(ロマ9:32~33)。

 イスラエルは、本来自分たちが寄って立つべき岩、神の憐れみの石につまずいたのである。 このつまずきの石こそ、端的に言えば、十字架の主イエス・キリスト以外にない。主イエスご自身、「私につまずかない者は、幸いである」(マタイ11:8)と仰せられた。それは洗礼者ヨハネが、死海東岸のマケラス城砦・地下牢に幽閉されていたときのことである。

 

主の御血潮を受けて

 洗礼者ヨハネは、神に忠実ならんとして権力者ヘロデ・アンティパスと対決を余儀なくされた。おおよそ、この世の権威として神に立てられた者には、それだけの責務を神と人に対して負うている。それだのに、ヘロデはローマ在住の弟ピリポを訪問中、その妻ヘロデヤと不倫関係に陥り、帰国後、正妻を離縁すると、義理の妹を連れ出して結婚してしまったのである。このヘロデを、洗礼者ヨハネは厳しく非難した。

 案の定、専制君主ヘロデの恨みを買ったヨハネは捕えられ、生涯最期の時を目前にしていたのである。

 だが、神の支配を示す、明らかな徴(しるし)は見られない。この方こそ世の救主と証しをして、希望の一切を託してきたイエス様の周辺では、何一つ変革の兆しが見えないのだ。そんなはずはない。こうして、禁欲的な義の預言者ヨハネすらもが、イエス様につまずいたのである。

 それなら、真の救いとは何か。主の御霊を受け、つまずきの石なる十字架の主イエスの御前に心砕かれ、主の御栄えを拝せしめられること。神が神として生き給うこと以外にないのである。